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ひとくちの夜をすくって

さみしさは、気づいたときにはもう内側にある。

イヤホン向こうに、時折子どもの声が混じる。手の込んだ料理をつまみに酒を飲むメンツもいる。わたしは空になったビール缶を片手に、マイクをミュートしてキッチンに向かった。

こんな時代でなければ、集まることはなかったかもしれない元同期たち。みな平等に5年の歳月が流れている。それなのにバーチャル背景で隠したワンルームを眺めると、わたしだけ浅瀬にいるくせに息継ぎもうまくできずに溺れている気持ちになる。

冷凍庫から秋限定と書かれたアイスクリームカップを取り出し、パソコンの前に戻る。少人数で話せるようにと、小分けにされたブレイクアウトルームでは何回目かのシャッフルが行われていた。

スクリーンに映る窓はみっつ。そのひとつに、毎日のように顔を合わせていた彼がいた。指先から伝わるアイスの温度が、きゅっと心を締めつける。

隣の席にいた、ヒラノだ。

じっと視線を送っても、気づかれることのない画面越しの再会。その距離に、わたしは少しだけほっとする。


***


エントランスがやけにきれいなオフィスは、白々しいほど夜も明るい。5年前の今頃は、業務効率化を謳い文句に自社システムを売り込むのがわたしの仕事だった。

「おわっ……た…」

エンターキーを押して脱力する。クライアントからの爆撃のようなメールを鎮火をしていたら、時計の針が21時を回っていた。

「おつかれさん。アイス食べる?」

タイミングを見計らったかのように、ヒラノがコンビニ袋を下げて戻ってきた。

「あ、夏限定フレーバー。さいこう」

カップのひんやりとした感触の先に、ヒラノの指が一瞬触れる。柔らかい物腰で、客先でしょっちゅう後輩に間違われる彼の体温は、わたしより高い。

「お金払う。いくら?」
「いいよ、この間の大型受注のお祝い。企画書、気合入ってた」

逆に安くない? と笑うと、肩に積もった疲れが少しずつとけていく気がした。

もがき続けて数年の社会人生活で、どれだけ企画書に時間をかけても、顧客の無理難題に応えても、わたしでなければいけない仕事なんてこの世にないのだと、薄々気づきはじめていた。

数時間かけて書いたメールも、翌朝になれば数分で既読の山に埋もれてしまう。くたびれた鞄のなかで、眠っているコピーライター養成講座のパンフレットが頭にちらついた。

ヒラノはなにかやりたいことはあるのと、喉まで言葉が出かけた瞬間、こっち旨いよと彼のスプーンが口に差し込まれた。シトラスの香りが舌の上に広がる。

ひとりで立ち尽くしそうな夜ほど、ヒラノが手渡す優しさはさりげない。
すぐに消えてしまう甘さは、少しだけれど確かに、わたしを癒していた。


***


「じゃあさ、仕事やめたら?」

上品な音楽を遮る声で、目の前にいる年上の彼氏は自信たっぷりにわたしに笑いかけた。

それぞれに迫ったアパートの更新期限と仕事の近況報告。1か月ぶりのデートのはずなのに、さっきから彼氏の言葉が喉の奥に引っかかる。メインの肉の赤ワインソースが、残業続きの胃に重い。

「えっと……うん、そこまでじゃないんだ」
「そう? 俺は、一人の面倒みるくらいなんでもないけど」

返事の代わりに、口角をわずかに上げて笑顔だけ返す。シャンパングラスの泡に、互いの見ている幸せがパチパチとはじけて消えた。

「食後のデザートはいかがなさいますか?」

ウェイターから渡されたデザートメニューの「季節限定」の文字に目が留まる。幸せそうにアイスをすくっていた同期の顔を思い出しながら、桃のグラニテのコンポート添えを注文した。彼氏は甘いものはいらないとコーヒーのみ。ウェイターは、少々お時間いただきますとお辞儀をして去っていく。

「限定メニューを頼むのって、ちょっと迷惑だよね」
「え?」

仕事柄、飲食店と接する機会の多い彼氏は、じろじろとウェイターの後ろ姿を見送っている。

「だってさ、店側はいつもと違うオペレーションになるでしょ」

手間がかかると言いたいのだろう。彼氏の、職業病みたいなクセだった。

わかっているのに。「へえ、そうなんだ」って上手に相槌が打てない。夜景が広がる大きな窓に、この日のために買ったシックなワンピースを着たわたしが借り物の人形のように映っている。

お化粧直してくるねと、彼氏と目線を合わせず席を立った。

鏡の前でバックから化粧ポーチを取り出す。スマホに新着メールを告げる通知が見えた。

『俺、会社辞めて田舎に帰ることにしたわ』

ヒラノからだった。

『明日の朝会で発表されるから、その前に伝えておこうと思って』

そんな話、ちっとも聞いてない。

『いきなりごめんな。誕生日おめでとう!』

席に戻ったら、華やかなデザートが運ばれてきて、彼氏が輝く小箱を用意して、理想の夜が待っている。

なのに、予定されてる一生守るよなんてセリフに背を向けて、今すぐヒラノの顔が見たいなんて願うわたしは、きっと、どうかしている。


***


背の高さが揃えられた本に、壁にかかった私服のジャケット。ヒラノが愛を向けるものたちが、オレンジのフロアライトにやさしく照らされている。数日後にはからっぽになってしまうこの部屋を、一つ一つ手に取るように、わたしはぐるりと見渡した。

退職が発表されてからの1ヶ月は、引継ぎの慌ただしさであっという間に消費された。やっとのことで退職日の前日に「飲もうよ」と送った誘いを、ヒラノは断らなかった。

新宿で散々飲んで、終電手前の丸の内線に乗り、ヒラノの住んでいるアパートがある荻窪で一緒に降りた。立ち寄ったコンビニでアイスクリームを買う。夏を十分に味わい尽くさないうちに、季節限定のフレーバーが秋に変わっているのが、さみしかった。


「そっかー……鳥取かぁ……」

実家の梨農家を継ぐ。退職理由を改めて口にしてみると、ヒラノのいない隣の席の現実がいよいよ胸に迫ってくる。

「そっちは、最近どうなの、彼氏と」

酔い覚ましの炭酸水を飲みながら、ヒラノが何の気無しに言った。

「プロポーズされた」

おお、と空気が揺れる。彼の表情を確かめる前に、鞄から一枚のパンフを取り出して目の前に突き付けた。

「でも、これ、行こうと思って」

コピーライター養成講座と、ヒラノは何かの呪文を読み上げるように声に出す。それから、ああ、と一人うなずいて復唱した。今度は、祈りのように聞こえた。

「書くの、好きだもんな」

いっさいの説明もなしに、どうしてただの友達のヒラノが、わたしの欲しい言葉をくれるのだろう。明日が終わったら、会えないところに行ってしまう彼が。どれだけ夜を越えても、この気持ちにぴたりとはまる言葉を見つけられる気がしない。

鼻をすする音をごまかすように、派手にコンビニ袋をガサガサさせて、アイスクリームを取り出した。スイートポテトと梨。どちらも秋限定のフレーバーだ。

「梨ですって、ヒラノくん」
「おう、来年はでっかいやつ送っちゃる」

笑いながらカップを受け取る彼の指先は、やっぱり熱い。

「ヒラノって、限定に弱いよね」
「あー、なんかね、ほっとけないの俺」
「早く食べなきゃ、的な?」

「というか一瞬でしょ、季節限定って。夏だなと思ったらすぐ秋になっちゃう。そのときだけだから。戻ってこないぶん、大事にしたいのよ」

ひと口食べる? と、彼が差し出したスプーンを前にわたしは固まった。

もう電車のない時間のふたりきりの部屋で、体温がわかるくらいの距離にいる友達に、答えを求める今夜のわたしは、きっと正しくない。

「ねえ、ヒラノ」

ゆっくりとけたアイスクリームの一部が、あふれてフローリングに垂れる。

「もしわたしが好きって言ったらどうする?」

部屋に入ってから一度も合わせなかった彼の目を、正面から見た。それまで口を大きく横に広げて笑っていた彼が、きゅっと唇を結んだ。こういう表情をするヒラノを、なんどか見たことがある。

後輩のミスで契約終了になりそうな取引先への訪問とか、酒癖の悪い上司が女性社員に絡んでいる宴会の席とか、なにか彼のなかにある曲げられない大切なものを守ろうとするとき、ヒラノはこんな顔をした。

「誰にも言わない。一生」

コトン、とスプーンが落ちて夜に響く。
ほんの一瞬のつめたさと、ふるえる甘さが、唇を濡らした。

彼の指先が友達の距離をほどいていく。フロアライトの照らす隙間に、言葉にならなかった声がもれる。

ひんやりしたカップを寄越す手がくれるやさしさを。わたしの名前を呼ぶ声が微かに帯びる熱を。ずっと知りたかった。本当は、知りたいと思っていた。

肌に跡をつける唇の感触も、耳にかかる息の切なさも、全部この部屋に閉じ込めて覚えておければいいのに。

食べなかったアイスクリームは、溶けて形を崩し、混ざり合って、二人しか知らない真夜中にとろけた。


***


今年は豊作だよと、耳に届く声はあの頃と変わらない。でも、筋肉のついた肩回りや日焼けした顔が、風の便りに聞いた結婚や子どもが生まれたことなんかの、一つ一つのピースをつないでいって、あの夜から過ぎた月日をありありと形にしていく。

グループのもう一人が、ちょっとトイレと席を外すと、とたんに空気がしんとした。

触れもせず近づけない、こんなふたりきりもあるんだ。やわらかくさせていたアイスのフタを開けると、イヤホンから「あ」と声がした。

「それ、もしかして仕事のやつ?」

「え、そう。え、なんで知ってんの?」

思いがけない言葉に動揺して、アイスのカップをパソコンのカメラに近づけてしまう。この秋の新フレーバーとして、ウェブサイトのキャッチコピーを担当した商品だった。

「うん、たまたまネットでみかけて」
「え、ヒラノちょっとアカウント持ってるの?」

転職してから知り合った友人以外とは、ほぼつながっていないネットの交友関係を思い浮かべる。

「いや、ほんと偶然」

検索とかしてないからと、彼は笑う。

「相変わらず、がんばってんだな」

ちょっと待っててと言い残して、ヒラノは画面から消えた。


あの夜が終わり、すぐに空席が埋まってしまうオフィスで、わたしは黙々と企画書を書き、隙間の時間を集めて講座の課題を仕上げた。

運よく転職した先で、遅いスタートなのは明らかだった。名刺に印刷された憧れの肩書に胸を張るために必要なのは、何よりも食らいつくことだった。好きとか夢とか才能とか、きらめく言葉の裏側の、もっと地べたに近い、そのときの自分に手が届く小石を拾い、磨いて積み上げることだった。

その小石たちが本当に光って見えるのか、積み上げたわたしですら疑ってしまう夜があるのに。


お待たせ、と戻ってきたヒラノが持っているものを画面に掲げる。秋限定と書かれた、わたしの手の中にあるものと同じアイスのカップだった。

「やっぱ、ほっとけないでしょ」


あの頃とおんなじ笑顔でアイスをすくうヒラノを前に冷たいスプーンを口に運ぶと、懐かしさと愛しさが混ざり、あふれて胸からこぼれそうになる。

本当にどうして。5年ぶりに顔を合わせたというのに、ヒラノがくれる言葉はお守りのようにしみ込んで、いまもわたしを満たす。

席を外していたもう一人が戻ってきて、目を合わせて笑うわたしたちを、なになにと興味深々で眺めていた。

口のなかで、ひとさじのアイスがさみしさと溶ける。一瞬でなくならない甘さがわたしを抱きしめ、静かな夜へと消えていった。



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