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キュンとする「好き」になる、アレコレ

人には、いろんな「好き」があるらしい。

そう実感したのは、11月末の東京訪問でのことだった。数年に1回しか日本に帰国しないという「レア感」を最大限利用して、吉玉サキさんサカエコウ。さんなど、noteをはじめたときからお会いしたい……と思っていた方々と飲む機会があった。至福。

その場で出た「好き(萌え)語り」については、お二人のnoteですでに登場している。

しつこく繰り返すが、この夜はバーで饒舌になったHさんが「マフラーをまいている女の子の、ふわっとなる髪が好き」と言い出したことがはじまりだ。もうひとりのHさん(黒いほう)からマフラーを借りて実演したら、酔っ払ったHさんから真顔で「ありがとうございます」と言われたのは、1週間過ぎたいまでも記憶に新しい。

『君のマフラーの隙間』が好きかどうかは別として、うん、そういう「理由を説明する必要がないくらい好き」みたいなポイントってあるよなあと、おいしい貴腐ワインのグラスを片手に、さんざん笑って楽しい会だった。

キュンっと胸が高鳴るポイントってなんだろう……と考えると、私の場合、大きな手だな、と思った。

男のひとの、ちょっと筋張った大きな手。手をつないだとき、というよりは、何かの拍子に重なった瞬間とか、その手に包み込まれたとき。その大きさの違いに、ぐっとくる。

なんというか、同じ人なのに、生物学的に圧倒的に「異なるもの」であることを突き付けられる。にもかかわらず、その手がやさしければ、更にときめかざるを得ない。


手とか髪とかまぶたとか、肉体的なものに感じる好きもあれば、シチュエーションそのものに感じる好きもある。

最近感じたシチュエーション萌えは、長編小説をnoteで連載されていたこっこさんの、『水平線に立ち、すぐに還ると君は言った』の第26話。

劇団を主宰する結香が、惹かれている櫂のアパートに初めていくというシーンなのだが、そこに描かれている二人の距離感がたまらなくよい。

「好き」という明確な言葉を発していなくても、ほかの言動や雰囲気、視線、触れる距離で感じ取ってしまう気持ち。間に漂う二人にしかわからない空気。高まった感情がこぼれ落ちるような一歩。

関係性が変わりゆくギリギリのバランスの刹那、みたいなのを見るとフワーとなる。

類似シチュエーションとしては、「仲の良い友だちといった花火大会の帰り道の、つなぎそうで繋げない手の距離感」とか「放課後自転車で二人乗りして、落ちないようにつかまったけれどピッタリとはくっつけない背中」などがある。

刺さらない人にとっては、「なにいってんだろ……」となるのが、萌え語りだなあ。

現実世界にキュンとなる好きが散乱しているかというと、そんな夢みたいなことはないので、小説や漫画で補充している。ときめくシチュエーションには、ぜひ来世でお目にかかりたいものである。

こうした話を、対面ですると照れてできないと吉玉さんはおっしゃっていて、たしかに自分もそうだなと思った。一方で、テキストのほうが、キュンとする気持ちを言語化できる(できているのか?)

「萌え百物語」と称して、好きや萌を語った話が100個集まると連作短編集になるかもしれないので、誰かまた好きを語ってくれないかな。ただただ、楽しい気がするよね。


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