子どもが正しく間違えている
娘が、マジックに興味を持ちはじめた。
きっかけは、学童で見たマジックショー。それからというもの、鉛筆を手にくっつけて浮かせようとしたり、手のひらのコインを動かそうとしたり忙しそう。
夫が片方の手で見えないように鉛筆を押さえ、手を開いても落ちないマジックの種明かしをしたら、娘は「インチキだ!これはリアルマジックじゃない!」と怒っていた。
それをみて、ああ、娘は「正しく間違えている」のだなと思った。
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あたかも自分の言葉のように書いたけれど、「子どもは正しく間違える」と感じたのはこのツイートを見たからだ。
ツリー上になっているので、一部を下記に引用する。
「子どもは正しく間違える」
本当に名言だと思う。
授業ですこんなことを話した。
『先日、京都水族館に娘と行ったのですよ。あそこに海月がいるでしょ。私、海月が好き でねえ。1時間でも2時間でも見ていられるのですよ』
『そこにね、幼稚園の年長さんぐらいの子どもがやってきて、海月を見てこう言ったんだな。「綺麗な花や」と。私はねえとても感動したんですよ』
『あれは海月であって、花ではない。そうです。でもね、子どもは自分が獲得している知識で世界を理解しようとしているのですよ。世界を定義しようとしているのです』
―引用@ikedaosamu
元ツイートの京都橘大学発達教育学部教授・池田先生によると、この「子供は正しく間違える」という言葉は、筑波大学名誉教授中山 和彦先生の言葉だそうだ。
もうすぐ6歳の娘と一緒に過ごしていると、「間違えてるよ」と言いたくなることがしょっちゅうある。
この前は車に載っているとき、娘が外を眺めながら「おつきさまがついてくる」と言った。「娘ちゃんのこと、好きなのかな」と笑う。
月が追いかけてくるのは距離での見え方や目の錯覚だ。娘の言葉は大人には詩的に感じるけれど、彼女に狙った意図はない。ただ、目に見えた世界を娘が持ちうる言葉で表しただけ。
大人目線では「間違い」だけれど、子どものなかでは「間違ってはいない」のだ。それは一定の時期特有の、美しい世界の見え方なのかもしれない。
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マジックが楽しい娘は、隙あらば魔法をかけてくる。
先日は3つのビー玉を手に隠してくれと言われたので、おとなしく従い両手で包んだ。そのとき、ちょっと思いついて私はビー玉を一つ、袖のなかに隠した。
「ホークスポークス、アブラカタブラ……」
きれいな鉛筆を手に、娘がマジックの呪文を唱えはじめる。顔がとても真剣なので、こちらもならって真剣な表情をつくる。
「メイクス ボール ディサピア―(玉よ、消えろ!)」みたいな英語の呪文を発して、はいやーと娘が眼力に力を込めた。ゆっくり手を開く。なんと、3つあったビー玉が2つになっている。
イエス!やった!とガッツポーズをする娘。続いて、消えたビー玉をもとに戻すというので、娘から見えないように袖のビー玉を手の中にうつし、同じように呪文にかけられたところ、またもや成功(そりゃそうだ)。娘は成功したマジックに興奮して、また熱心に練習をはじめる。
マジックが本物の魔法だと信じている娘の横顔を見ながら、手品のタネ明かしをしようかしらと考えた。
このままいけば、娘は「魔法が成功した」と思い込んでいる。お友だちの前で披露して、恥をかくかもしれない。失敗して落ち込むかもしれない。
そんな思いが頭をよぎったけれど、やめた。何も言わないことにした。
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娘は手品のタネをインチキだと思っていて、あれは本物の魔法なのだと疑わない。私も子どもの頃、おなじように魔法の存在を夢見ていた。空のむこうに、知らないおとぎの国があるかもしれない。
娘が描く世界をタネ明かしして消してしまうのは、もったいない。
先に引用した池田先生のツイートでは、クラゲを花だといった子に、「そうだね、これはクラゲっていうんだよ」と否定せず教えてあげる。正しい間違いを、間違いだといわれずに別の見え方を教わること。それも必要だろう。
だけれど、変わらずにまだ持ち続けてもいい間違いもある気がする。
もし、現実の目の前に見えるものしか「ある」とできないなら、なんてつまらないのだろう。見えないものを信じる力が、実は人生を少しだけ面白くするんじゃないかな。
35歳になったお母さんだって、いつか誰かを幸せにする文章を書きたいと、そんな魔法を夢見ているんだ。
目の前のビー玉を宙に浮かせようとする娘から、未来を想像する楽しみを奪わなくてもいい気がした。この世界でわたしたちは、なんにだってなれる。きみが信じる不思議の扉が、どこかに隠れているかもしれない。
まあ、キラキラするその瞳を、ずっと眺めていたかったってのもあるんだけどね。
今日も娘は正しく間違えていて、その世界は私がいる場所より、ちょっぴりと美しいように思える。