見出し画像

【小説】シェイク

 ベッドの上で体中の血の気が引いたと思ったら、一気に沸騰した。隣にいる上半身裸の男が、あの高橋だったからだ。
「なんか……腹へらね?」
 高橋の笑顔は、まっさらで中学の頃と変わらない。

 記憶のない夜を抱えたまま国道沿いのラブホを出る。夏の明け方の空気はすでに湿っていて、道端の草にまで暑気がくすぶっている。数歩先に、高橋のギリシャ彫刻みたいな腕がある。あの筋肉が、手が、あたしに触れたのか。覚えていない、一生の不覚だ。
 久々の同窓会だった。成人式でも集まった駅前の居酒屋の座敷で、高橋は女子たちに囲まれていた。インターハイで活躍して大学卒業後はテニスの事業団に入った高橋に、あたしが近づく隙間なんて1ミリもない。そう思ったらやけに飲みたくなってきて、安いワインをがばがば注いだ。記憶はそこで途切れている。
「お、懐かし」
 高橋の視線の先を見る。朝を待つ駅前のロータリーで『ハンバーガー』の看板がぽつんと浮かび上がっていた。

 地元の時間は、大人になったと思った瞬間から止まっている。だから、指先一つで簡単に巻き戻る。チーズバーガーの包装紙を剥く高橋の指を盗み見しながら、あたしは脳内にあの日の甘いときめきを一滴残らず思い浮かべていた。
 中学3年の夏休みだった。炎天下から逃れて、クーラーの効いた店内で、バニラのシェイクをすすっていたあたしの前に、誰かの座る気配がした。
「それ、好きなんだ?」
 顔を上げると、高橋がシェイクの容器を指さしていた。ただのクラスメイトでしかないあたしに、どうして高橋が声をかけてくれたのかさっぱり覚えていない。シェイクの味どころか交わした会話も飛んでいる。唯一記憶に居座っているのが、それ、好きなんだの一言。そう、好きなんだ。授業中は寝てばかりいて、クラスの女子に囲まれて日焼けした顔でへらへら笑って、なのに試合となるとコートを溶かすような気迫で一歩も引かずに攻めていく君が。いかにテニスをする高橋がかっこいいかを、言葉にしたためてバレンタインのたびにチョコレートと贈っていた。好きです、のあとに続く名前はついぞ書けなかった。

「変わんねえなあ」
 高橋が、シェイクを手にするあたしの前で笑う。本物だ。大人になった高橋だ。
「あ、ねえ、高橋はいま何してるの?」
「ん、俺? 俺はねえ、いまなんにも」
 高橋のへらっとした薄っぺらい声が頭に振ってくる。
「実業団入ってすぐ肘壊しちゃって。治ってもぜーんぜんダメで周りが強いのなんのって。かといって俺、仕事もできないし。2年持たずに辞めて、こっち戻ってきて、色々ふらふらと経験してるんだけど。これってなんていうの? あ、フリーター?」
 高橋の声とズズっとストローを吸う音が耳に重なる。ドロッと粘つく液体が口に流れ込んでくる。シェイクって、こんなに重かったっけ。こんなに、すぐバレるような作り物の甘さをしてたっけ。
「思っちゃったんだよね、世の中クソみたいだって」
 あたしと高橋しかいない店内は、やけに声が響く。よく見るとテーブルの角の塗装が剥げている。茶色のトレイはぴかぴかと安っぽく光る。ああ、おんなじだ。夢から覚めていくような、目に映る光景が急速に色あせていくような感覚には覚えがある。高橋も、あたしとおんなじだと思った。

 田舎から東京の大学に進学した。都会を必死で泳いだ。みんなが名前だけは知っている企業に就職できた。恋人もできた。奥さんがいた。順番だけを間違えたのだと思っていた。一番になれなくてもいいなんて言いながら、明るいところで隣にいれる日を夢見ていた。奥さんにバレた。職場にも知れ渡った。本物の愛だと思っていたあたしに、彼は「重いんだ」と言い放った。
 おんなじなんだ。輝いていた石ころを、まだ握りしめている。高橋の言葉の切れ端に、過去にすがりつく未練を嗅ぎ取ってしまう。シェイクが胃にドロドロと落ちて後悔の塊になる。気づかなかった。心を弾ませてくれる甘い魔法の季節は、とっくに過ぎ去っていたのに。「一緒に朝メシ食わない?」なんて高橋の手を振り払って、一夜の思い出だけを握りしめて去るべきだったのだ。

「でも、捨てたもんじゃないって思えたのはさ」
 高橋は、静かに息を吸う。
「気にかけてくれた人がいたんだよね。実業団の先輩なんだけど、テニス辞めた俺にわざわざ連絡くれてさ。そんでスポーツクラブのコーチのバイト紹介してもらって」
 同じ目をしている。コートの上で、絶対に足を止めなかったあの頃の高橋と。
「久々にラケット握って……やっぱ逃れられねーなって思った。好きなんだ、テニス。教えるのもいいなって。だから俺、来月からケニア行くの。青年海外協力隊ってやつ」
 高橋の笑顔に、心臓のやわらかい部分がつぶされる。その反動で、ずっと伝えられなかった言葉が口から飛び出しそうだ。

「た、高橋はなんであたしをホテルに誘ったの?」
 顔が熱い。手に汗もかいている。力んだまま固まっているあたしに、高橋は一瞬間をあけて吹きだした。
「だってほら、店のトイレでぐでんぐでんになって、おまけに『高橋のテニスはかっこいいんだから!』なんて叫ばれた日には置いてけなくて」
 高橋はお腹を抱えながら笑う。別の意味であたしの頬っぺたは熱くなる。
「それにさ、お礼も言ってなかったから。あの手紙。3年間、見続けてくれてありがとな」
 ようやく町に顔を出した太陽がテーブルを照らす。シェイクの容器についた水滴が光った。高橋の言葉が脳内をぐるぐるとめぐる。あたしも、まだ歩きだせるのだろうか。店内は、ひそやかに活気を取り戻していく。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?