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【小説】愛のカツカレー

「ねえ、おぼえてる?」
 なげかけた言葉は白い冷蔵庫のドアにさえぎられ、力なくフローリングに落ちていった。


 オープントゥのパンプスからのぞくつま先を、ひんやりとした空気がなでる。
 目の前に鎮座する赤の肉たちには、専門店の看板に恥じない迫力がある。やっぱりいつものスーパーにしようかと、ためらいながらショーケースをのぞき込むあたしに威勢の良い声がふってきた。
「なんにしましょう」
 笑顔を貼り付けたおじさんが立っている。
 あたしは、財布を握る手に力を込めた。
「あの、トンカツ用の肉を」
「ヒレ? ロース?」
 部位を聞かれているのだと気づいて、近くにあったロースを指さす。
「何グラム?」
「あ、4枚ください」
 さすがに1枚は申し訳ない。かといって2枚買うのは癪に障る。4枚なら、堂々と家族サイズだ。それならあたしだって、母親からおつかいを頼まれた娘に見えるだろう。
 ひっくり返したビニール袋に手を入れて、おじさんは分厚い肉を器用につかむ。
「トンカツには生パン粉ね」
 おじさんは笑顔も勢いも崩さずに、レジの横に積まれた小袋を指さした。
 正解がわからなくて、あたしは曖昧に首を縦に動かした。レジに追加で打たれる120円、合計1680円。受け取った紙袋は意図せずに重くて愛みたいだと思う。
 アスファルトの影が春らしく伸びていた。誰もいない公園の桜の木が目に入る。
 今年の春は遅い。去年の今頃は、井の頭公園のブルーシートの嵐みたいな中にいた。
 転がる一升瓶を器用にまたぎながら、マキちゃんが重箱のお稲荷さんを配っていた。日本酒に潰された面々を桜井がぶつくさ言いながら隅に寄せ、こーちゃんはニコニコした顔であたしの隣に座った。内緒話をするみたいにコップに浮かぶ花びらを見せてくれた。
 二人でお花見しようねって、保留のままの約束はどこへ行くんだろう。
 生パン粉、生パン粉、と呪文のように繰り返しながら、あたしは誰も待っていない部屋へと駆ける。


 ひとり暮らしにしては広いキッチンとダイニングがあることが、合格発表後すぐにこの部屋に決めた理由だった。けれども今は、洗い立ての布団カバーもクッションのくぼみも、もの悲しそうに午後の陽だまりのなかにある。
 ダイニングはカレーの香りで満たされていて、スパイスの匂いが空腹を刺激する。
 カレー鍋のとなりで揚げ物用鍋のまっさらな油が光る。こーちゃんの好きな唐揚げになるはずだった鶏もも肉は、しっかり下味がついたまま冷蔵庫で眠っている。
 ロース肉を1枚だけお皿の上に置いて、残りをひとまず冷蔵庫に入れる。ゴミ箱に紙袋を捨てるとき、ひしゃげた白い箱が目に入って胸がちくちくした。
 調味料棚には、いくつものタッパーが並ぶ。薄力粉、強力粉、片栗粉、てんぷら粉におこのみやき粉。パン粉だってある。求められる快楽に応え続ける内に増えてしまった調味料たち。
 迷って、買ってきたばかりの小袋を切る。やわらかな白い砂をすくいあげるように、肉を包み慎重に油の海に沈めた。無数の泡が弾けて音になりキッチンに広がる。同時に、あたしの耳がかすかな振動音をキャッチする。菜箸を片手に握ったままテーブルの上にある携帯を手に取った。
 画面に表示された名前を見て、肩を落とす。
 パン粉がついた指先でスピーカーのマークをタップした。
「愛ちゃん、元気してるの?」
 母の声を聞くと、反射的に背筋が伸びる。
 いま揚げ物してるからとさりげなくアピールすると、「菜箸でいじくりまわさないほうがいいわよ」と諭された。
 ふと、実家の天ぷら鍋を思い出す。黒光りする重い鍋で母はなんでも揚げた。揚げ物のときだけは、幼いあたしに「近づいてはいけません」と厳しい顔をした母。割烹着を身につけて台所に立つ母が、隣にいるような気配がして足元が落ち着かない。
「土鍋を送ったから明日にでも届くでしょう」
 こーちゃんの鍋のリクエストに合わせて、母にお願いしていたんだった。もう必要ないかもとは言えず、ありがとうと伝える。
「おめでとう」
 去年とおんなじように、夏休みは戻ってきなさいよと言われて通話は切れた。
 トングに持ち替えて鍋からトンカツをすくいだす。衣が小さく爆ぜて腕に飛ぶ。ひとりのほうが、油跳ねを怖がる必要なんてない。
 男の子たちの好きなものは、みんなよく似ている。カレー、ハンバーグ、オムライス、ミートソース。絡める手が変わっても、あたしは円の周りをぐるぐると回っているみたいだ。
 あたしが料理をすると、男の子たちは鼻を膨らませて喜んだ。意外だねと、頭の中を隠さない子もいた。
 だからはじめて会ったとき、こーちゃんの反応は好ましく思えた。花見の喧騒のなか、だし巻き卵を「うまいな」と呟いたこーちゃんの頬を、両手で包みたくなった。
 熱々のカツを、包丁で切る。躊躇わず体重をのせるのが、きれいに切るポイントだ。
 保温の炊飯器から白いごはんをよそい、温めなおしたカレーをかけ、最後にトンカツをのせる。一人の部屋は思いのほか声が響く。
 ひと口食べて、目の周りが熱くなった。


 こーちゃんは、おぼえていなかった。
「なにがー?」
 反応だけして、こーちゃんの意識はあたしには向いていない。白い箱を床に置き、冷蔵庫をのぞき込んでいる。
 白い箱に入っていたのはイチゴのショートケーキだった。いつかのデートで連れてってくれた有名なお店のロゴがきらきらしてる。でもね、違うの。今日は、違うの。あたし、あれが好きって言ってたのに。
「場所ないなあ」
 庫内をのぞき込みながら、こーちゃんが言った。
 冷蔵庫には、片栗粉をまぶすだけの鶏ももが入ってる。こーちゃんの好きなマヨネーズ多めのポテトサラダも仕込んだ。こーちゃんの薄い肩越しに、カレー鍋が白い蒸気を立てている。フタと鍋がカタカタずれる音が耳に届いて、あたしはカツカレーと思った。
 それは春の到来を告げる天啓のように降ってきた。カツカレーが食べたい。カレーと主役の座を戦えるくらい主張の強いトンカツがのったやつ。辛さと格闘して空腹をなぎ倒す、そんなカツカレーを、あたしが食べたい。
「あのね、今日やっぱ無理」
 あたしは、お腹のあたりで両手を握る。
 屈んでいたこーちゃんが立ち上がる。黒い髪が白熱灯の光を遮って、あたしの顔に影を落した。こーちゃんは何も言わない。その目は、エサを待つひな鳥みたいに答えをもらえるって疑わない。
「生理になっちゃった」
 あたしは笑顔を作って言った。心臓がばくばくした。
「そっか、残念だけどしょうがないね」
 捨て猫を撫でるようにあたしの頭をなでる手は、じっとりと重くて体温が低い。ドアがあっけなく閉まったあと、あたしは中身ごと白い箱をゴミ箱に突っ込んだ。


 多めに入れたチリパウダーで舌が痺れる。
 スパイスで作ったカレーを食べたいとはじめに言い出したのは、こーちゃんだ。
 去り際に、「元気になったらまた連絡するよ」と言われた。それは、「具合悪いうちは連絡してこないでくれ」という意味だと思う。
 こーちゃんは、笑っていないあたしが苦手だ。お腹が痛いとか、バイトで疲れたとか、そういうあたしを前にするとこーちゃんはいつも途方に暮れたような顔をする。
 与えて与えて、やっと受け取れるわずかな蜜を愛だと思うようになったのはいつからだろう。
 付き合いたての頃は、こーちゃんと手を繋いで近所のスーパーで買い出しをした。スパイスだけで作ったカレーに首をかしげて市販のルーも入れちゃって、一緒に作ったオリジナルカレーの味は悪くなかった。好きだった。
 スプーンを口にどんどん運ぶ。百円玉貯金のように、こつこつと集めた甘い思い出がもろもろと崩れていく。その隙間を、カレーの辛さで埋めるように咀嚼して飲み込む。
 口のなかがちくちく痛い。トンカツの衣が固すぎる。こんがりと黄金色に揚がり悪くない見た目だったのに、かじると肉がパサついている。何度も作ってる唐揚げなら、もっと上手にできる、のに。不格好な現実を、あたしはいま噛みしめている。
 テーブルの上の携帯が、もう一度ふるえた。


「……なんか用?」
「あれ? ご機嫌斜めな感じ?」
 スピーカーから、桜井の間延びした声が聞こえてくる。
「だから、なんの用事?」
「えー、覚えてないの? そっちが言ったくせに」
 桜井の言葉に、あたしは記憶をたどった。
 たしか桜井と飲んだのは先週末だった。吉祥寺の居酒屋で、画材を買うための短期バイトを終えたばかりの桜井は、染めたばかりのピンク色の髪をゆらしてハイボールをあおっていた。
「ぜったいやらかしちゃう、なぐさめにきて~生存確認してって、くだを巻いていたのはそっち」
 あたしの声色をまねた桜井の声が響く。
 桜井につられてジョッキを頼んだところまでは記憶にある。あと覚えているのは、笑う度に見えるやけに歯並びの良い白い歯。
「その様子じゃあ、やさぐれてんの?」
「こんなの愛じゃないって、気づいただけ」
 携帯にこーちゃんじゃない人の名前が表示されるたび、あたしの胸に、淡々とした小さな釘が打ち込まれる。こーちゃんにとって、あたしはもう、違うんだ。恋が変色した事実があちこちにあって、見えてしまったらもう見るしかなかった。ひと口ずつ噛みしめながら、いまのあたしを引き受けていく。
「やけ食い中?」
「違う、カツカレー食べてる」
「うまそー腹へってきた」
 ふと、花見でだし巻き卵を指でつまんでいた桜井の姿が浮かぶ。桜井も、ただ「うまい」と言っていた。それは青空を見上げて「いい天気」とつぶやくような、体が自然に反応する一言となんら変わらなかった。
 スプーンを握りしめていた指先から余計な力が抜ける。
「カツ、あと3枚あるよ」
「多すぎじゃん? いまから行く行く」
 桜井の声がわかりやすく弾む。
「ついでにケーキも持ってくわ。なんだっけ、あのハーブみたいな名前の」
「バスチー、ね。バスクチーズケーキ」
「そうそれそれ。ローソクも年の数調達する」
 ケーキの表面埋もれちゃうしと、あたしが言い切る前に通話は切れた。
 玄関からのぞく春色の頭を思い浮かべ、椅子から腰を上げる。そういえば、唐揚げもあるんだった。壁に掛けてある鏡にあたしの顔が映る。
 大きな音を立てて鼻をかむ。汗でおでこに前髪が張り付いている。
 あっかんべーをするように舌をだした。舌も頬も真っ赤で、見ているうちに目が潤む。舌先にも唇にも、どうやったってひりひりする痛みが残っていたから。


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