広口のガラス花瓶に花をかざる夢
最近よく、花束を買う。花屋さんの立派なものではなく、スーパーのレジ横でぽつんと佇んでいる小さな花束だ。
そして私は、広口のガラス花瓶に買ってきた花をかざる。ピンクや黄色で明るくなったダイニングをまじまじと見る。
口が広くて洗いやすい花瓶を、36歳の誕生日に買った。手に入れるのに、7年近くかかった。何の変哲もない花瓶。なんで普通の花瓶を買うのに、赤ちゃんが小学校に上がるほどの年月を待ったのか。今日はそんな他愛もない話を、ちょっとだけしよう。
***
7年前、私は妊娠を機にニュージーランドの都市・オークランドから、海辺の田舎町に引っ越してきた。子どもが生まれるからと、住まいもアパートから3部屋ある一軒家に変わった(地方は家賃が安かった)。
古い木の床と高い天井のがらんとしたダイニングで、花をかざりたいなと唐突に思った。
けれど花瓶がなかった。結婚してすぐ夫と二人でニュージーランドにきた。2年間のあいだに4回引っ越しした私たちは、必要最低限のものしか持っていない。
大きなお腹で段ボールを片付けているあいだに、娘が生まれた。ガラスの花瓶と赤ちゃんは、なかなかに相性が悪い。親1年目は、赤子の夜泣きで花どころではなく、娘が動き回るようになってからはすべてを引き寄せる彼女の手から割れ物を遠ざけた。
もちろん、赤ちゃんが家にいようと花をガラスの花瓶に飾るご家庭はあるので、これは私の優先順位と気力がまったく合致しなかったという話。
そうこうしている間に、夫が飲食店を買ってきた。レストランオーナーといえば聞こえはいいけれど、自営業には山もあればどん底みたいな谷もある。ビジネスに設備投資をした結果、一時的にびっくりするぐらいお金がなくなった。
ちょっと具体的にいうと、貯金が8割吹っ飛んだ。それから、毎月生活費として使えるお金がぐんと減った。家賃と食費、それから娘の保育園の費用を払うと残らない。電気代やガソリン代は、たださえ少なくなった貯金を切り崩す。
花瓶も花も、買うお金の余裕がなかった。それどころか、娘のお友達の誕生日会によばれたら、誕生日プレゼントに何を買うか店先で値札とにらめっこしながら頭を悩ませた。
うまくいく希望は確かにあったけれど、ふわふわとつかめない蜃気楼みたいだった。目の前にある、夜泣き、洗濯、料理、食べこぼし。朝から晩まで文字通り毎日働いて、月の利益を時間換算したとき、足元が抜けるような泥があった。
じわじわとすり潰される生活が、半年ぐらい、続いた。
***
私は1歳半の娘と一緒に、スーパーにいた。目を離すとカートに立とうとする娘をなだめ、2リットルの牛乳を急いでカゴに放り込む。いつもの配送が遅延したため、8本を開店前に店に届けなければいけない。
娘の言葉にならないおしゃべりに付き合いながら、大股でカートを押し朝の駐車場を横切る。じっとしない娘を片手で小脇に抱え、牛乳ボトルを車の荷台に移しているとき、手が滑った。
落ちた牛乳をあわてて拾い上げる。あ、と思った。泥がついたプラスチックボトルの底にひびが入り、牛乳がもれている。スーパーに戻り、カウンターで取り替えてもらわないと。
そのとき、1滴ずつアスファルトに落ちる牛乳が、何かのスイッチを押してしまったかのように、一気に体の力が抜けた。
キッチンには朝の食器が置かれている。床にはおもちゃが散らばっていて、家に戻ったら掃除にお昼ごはん。午後は店を手伝って、保育園のお迎えのあとは殺伐した戦場みたいな夕方に突入する。
着古したパーカーにジーンズ。一つにまとめただけの伸びっ放しの髪。わたしでさえわたしに構っていなかった。自分ひとりが、独りぼっちで取り残されている気がした。
呆然と佇むアジア人が不憫に見えたのかもしれない。駐車場でカートを集めるスーパーの店員のおじさんが声をかけてきた。
「それ、カウンターで交換してもらえるよ」
「うん、知ってる。でも、いい。もういい」
私が残りの牛乳を荷台に移そうとすると、おじさんはちょっと待ってと言ってスーパーの入り口に歩いて行った。
ほんとうに牛乳1本くらいもういいんだ。放っておいてほしいと、娘を抱えながら車の脇に突っ立っていると、おじさんが戻ってきた。手には、きれいな牛乳ボトルが1本。
「カートと割れた牛乳は、もってくよ」
淡々と仕事をこなすおじさんに、私は小さな声で「Thank you」といった。泣いていないふりをしていたけれど、涙のひとつくらいは落ちたかもしれない。
いま、あの頃とはまったく違う仕事をしている。画面にむかってキーボードを叩く。どんな仕事もきっとそうなのだろうけど、ライターという書く仕事も、延々と道がつづいていて終わりがない。
3月に36歳の誕生日を迎えた日。ささやかに祝おうと、街に出てカフェでコーヒーを飲んだ。元気の出る黄色のカップを眺めながら、ふと花瓶を買おうと思った。山も谷もあってもがく日々ではあるけれど、もうそろそろ、わたしをゆるしてもいい気がした。
たまに、忘れそうになる。あの日、スーパーの駐車場で割れた牛乳ボトルを前に泣いていた自分を。
ガラスの花瓶に花をかざるのは、夢というには大げさで、それでも私にとっては、日常のなかのとくべつに映る。
だから私は、花束を買う。そして、広口のガラスの花瓶にかざる。夫がユリの香りが強すぎると眉をしかめ、娘がチューリップがきれいとバンザイする。
この先もきっと、私はこんな風に他愛もない話を綴りながら、ガラスの花瓶にかざる。一人では手にできない、まだ名前のつかない花を。
***
先日、キナリ杯の受賞作品が電子書籍となって発売されました。私の受賞作も掲載されています。もとは岸田奈美さんが個人で企画された賞が、ひとつの本になったこと。関わられたみなさまに、お礼を申し上げます。
本の売り上げは、来年のキナリ杯の運営資金になるそうです。次回のキナリ杯も、たくさんの「うれしい」が生まれる場になるといいなと思います。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?