黒歴史①(短編/エッセイ)

別に不幸自慢という訳ではないが、私はこれまで他者と比較して相対的にろくでもない人生を送ってきたと思う。

だがそれは、突発的な不幸が原因というよりは不幸になるべくしてなったというべきだろう。

何せ父親からして盆暗である。

元暴力団員という経歴を持つ父の右手は指が数本欠けており、これは要するに、彼がそれだけ能力にも欠けている事の証左でもあった。

暴力団員が指を落とすというのは、それはすなわち不始末の証であるというのは周知の事実である。

だが、能こそなかったが情が無い人でもなかった様に思える。

なにせ彼は家族の為に暴力団をやめるという選択をした人だったのだから。

なお、特定の母親は居ない。

これは頻繁に母親が変わっていた為この様に表現をした。

生母は水商売の女で、私が物心つく前に父親と何かがあって破局に至ったらしい。

父親からは破局に至るまでの経緯はきいているものの、私の事をアホかボケかと思っているらしく、どうにも自分贔屓の理由をぶちあげてくるのだ。父の話では母は極悪売女もいい所だが、そんな父にだけ都合良い話などはない。

母に何かしらの瑕疵があったとしても、恐らくは父の側にも何かしらの深刻な瑕疵があったのであろう。

一つの家庭が崩壊する原因なぞ、その禍根を探っていけば複数に及ぶことが殆どで、単一である事は珍しい。

そしてこれが肝心な点だが、彼の子供である私もまた盆暗なのである。

そういえばこんな事があった。

あれは何人目の母親だったか、凛奈という名の源氏名だか本名だか判別がつかぬ名前の蓮っ葉な女が母親だった頃だろうか。

当時の父は私の母親を探していた。

というのも、反社会的な父ではあるが親としての責任をそれなりには果たそうとしていたらしく、子供には母親が必要だというステレオタイプな考えをもっていた。

これはいうまでもない事だが、母親というのは道に落ちているわけでも店に売っているわけでもない。

だが父親は暴力団員としては無能であっても、オスとしては有能であったらしい。

彼は行きつけの飲み屋の姐ちゃんを引っかけたのだ。

何をもってして引っかけたのか、暴力団という素性は隠せても欠けた指を隠す事は難しい。

それでもひっかける事が出来たのは父親のオスとしての魅力と、彼女自身も父親を探していたというご都合主義が要因であったのだろう。

だがここで父親は一つの選択を迫られる。

それはその姐ちゃん、凛奈が出した結婚の条件だ。

それは暴力団をやめる事。

これは当然だが、父親にとっては苦渋の選択であったのではないだろうか?なにせ父親には指がない。

当時は今ほど暴力団に対しての締め付けが厳しい世の中ではなかったが、それでも指欠けが首尾良く仕事を見つける事ができるのかと考えると首を傾げざるを得ない。

だが父はこの時、迷う事なく暴力団を辞める事を選んだという。

欠けモノ家族同士、凹凸がぴったり合わさる様に父親と私、義母と義弟はその日を境に家族となった。

私と父は義母の実家に暮らす事となった。

二世帯住宅だ。

木造だがしっかりとした作りで、住む分には何の問題もない。

その家には義母の父と母も暮らしており、私はいきなり母と弟とと祖父母が出来てしまった。

なお、私の本来の祖父母というのもいるにはいるのだが、これもこれでろくでもない。

なにせ祖父はアル中でくたばり、祖母は獄中でくたばったからだ。

祖母はシャブ中であったとの由。



私の新しい生活、新しい人生、これは結論から言えばうまくはいかなかった。

最初は上手くやれていたものの、幾つかの出来事が続いてしまい、この仮初の家族の間には険悪な空気が漂う事となる。

人が人を好きになるには理由は要らず、嫌いになるには理由がある…みたいな言葉が無かっただろうか?

私が義弟を決定的に嫌いになってしまったのは、彼と義母が裸で抱き合って眠っているのを見た時だ。

これはもう異常である。

何が異常か語るまでもなく異常である。

しかしその異常が義母と義弟の間では平常なのであった。

だが、それはそれとして何故私はあの時、あれほどの嫌悪感と憎悪を抱いたのだろうか?異常だから嫌悪を抱いたのか?
いや、恐らくそうではない。

当時は分からなかったものの、今となっては分かる事もある。

恐らくは嫉妬であろう。

私には母はいない。

母替わりの女は何人もいたが、真に母と呼べる女性は私にはいない。

それゆえに、異常を平常とまで言い切る程の愛を注がれる義弟に嫉妬したのではないかと考えている。

しょうもなさすぎるが、その嫉妬はすぐに義弟への嫌悪感に変わり、そして敵意に変わった。

なぜかって、弟が言ったからだ。

"お母さんは僕のお母さんだよ" と。

当時私は小学生だったと思うが、他人に混じりっけなしの敵意を抱いたのはあれが最初だったと思う。

人が人に対して負の感情を抱くと、それはたちまちに見破られる。声色に、表情に、目に、態度に滲みでてくるのだ。

そして自身を嫌う人間を好きになる者などはそうはいない。

私と義弟の関係はライク・ア・ローリングストーンズ、まさに岩が崖から転げ落ちるような速度で険悪なものへと変わっていった。

嫌悪の感情が嫌悪の感情を呼び起こし、そのどうしようもない悪感情のサイクルは私と義弟の関係を加速度的に破壊していった。

この時私は押し入れを自身の部屋としていた。

何を言っているのか分からないかもしれないが、そのままの意味である。

当時の我が家は一軒家ではあったが、個々の部屋というものがなかった。私と義弟は子供部屋と称する八畳ほどの部屋をあてがわれ、そこで生活していたのである。

だが悪感情極まり、もはやこの糞餓鬼と同じ空間にいたくないと思った私は押し入れを自身の部屋とすべく子供ながらに色々と改造を施した。……といっても布団を持ち込んだり、へたくそな工作で棚を設置したりといった不出来なものだったが。

"もうお前とは同じ空間にいたくない"

そんな意思は余す所なく義弟へと伝わった様で、私たちは一つ屋根の下で暮らしながらも一言も話す事はなかった。

だが冷え切った関係ながらも私と義弟の間には憎悪の炎が燃えていたようで、ある日その炎がぶわりと広がってしまう出来事が起きた。

切っ掛けはもう忘れたが、私たちは喧嘩をした。

口論から始まり、罵倒の掛けあい、そして義弟の金切声。

私は台所から包丁を持ってきて脅そうと思った。

小学生が小学生に対して刃物でもって"黙れ"と脅すなんて本当にイカれてると思うが、当時は私も人間だかケモノだかよくわからないイキモノだった。

勿論殺そうと思った訳じゃないと思う。

多分。

いや、分からない。

当時の事は思い出せても、当時の感情はもう思い出せないからだ。

ともかく包丁を持った私にビビり散らしたか、義弟はさらに泣き叫び、その声に親がかけつけて私はこっぴどく叱られた。

叱られるだけでなく、両親の離婚の切っ掛けにもなった。

それでも当時はせいせいしたものだが、今思うと私も餓鬼ながらしょうもないなと思ってしまう。

母親が欲しい、ちゃんとした家族が欲しいと思いながら、自分の手でぶち壊したのだから、これはかなりしょうもない。

まあそこから私が養護施設にはいったりと色々あったのだが、現在では父親とも連絡が取れない。

恐らくあのしょうもないクソマザコン義弟を受け入れてさえいれば、私は家族というものともう少しだけ縁があったような気がする。

どうあれ家族は居たほうがいい。

これがいないせいで進学も大変だったし、就職も大変だった。



以上「黒歴史放出祭」用に昔を思い出して書いてみたが、これはまさに黒歴史と言えるのではないだろうか。

だって全裸で抱き合って眠る義母と義弟に嫉妬して、幼い義弟のちょっとした独占欲を許せず包丁まで取り出したわけなのだから。

当時私も小学生だったとはいえ、随分と異常な餓鬼だなと思う。

施設に捨てられて良かった。

おかげで多少はまともな人間になれたので。

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