「畜生、死にたいな」と王太子は言った。(ラノベ/短編/異世界恋愛)

前書き

本作は「常識的に考えろ、と王太子は言った」という短編と世界観を共有しています。

本編

 ◆

 王太子エミールという青年がいる。

 率直に言って気質は俗、能は凡庸、一国を支えていくだけの器は無い。

 エミールの凡庸さは100年以上前のホラズム国王、アルドリックを彷彿とさせるものがあった。

 アルドリックは "凡人王" と呼ばれ、なんら優れた能力を持たずに王族として生まれてしまった不幸な王として知られるが、幸いにも賢く忍耐強い王妃がまつりごとを支えたという。

 だが、アルドリックとエミールでは決定的に異なる点がある。

 それはアルドリックの精神の在り様だ。

 彼の能力は凡人であっても、その精神は王族のそれであった。

 出来ないなら出来ないなりに周囲に頼ろうとし、努力を重ねてきた。

 エミールの精神はどこまでも俗だ。

 一般人のそれである。

 対して、エミールの父も母も、そして弟も皆優秀だった。

 そしてエミールに優しい。

 エミールが王位継承に後ろ向きな念を抱いている事を理解した上で、少しでも助けになろうとしてくれている。

 それが彼には酷く負担だった。

 言うまでもなくエミールは凡庸である。しかし凡庸は劣等の意ではない。1を教えられれば2か、調子が良ければ3を知る能はある。

 問題は彼の周囲に1を教えられれば10も20も知る様な者達ばかりがいる事だ。

 そればかりならまだしも、そういった者達が優し気な態度で気を回すのだ──……エミールが1を聞いて10を知る事が出来る様にどうすればいいか、と言った様な事を。

 これがエミールには殊更辛かった。

 ──良いか、エミール。困った時は周りの者に相談するようにしなさい。自分一人で何でも決めてしまおうとしてはいけない

 ──エミール様、多くの人の意見を聞いて、それを自分の考えと比較してみてください。そして、その中で最も良いと感じる案を選ぶのです。王の役割とは、眼前の選択肢の中から一つを選ぶことです。選択肢そのもの創造することではありません

 こういった様々な助言の数々を、エミールは自分なりに理解しようとしたが、これは酷く彼の心を疲弊させた

 なぜならばそれらの助言は──……

 ──私の能力がそれほどに欠けている、と言いたいわけだな

 少なくとも、当時のエミールはその様に捉えた。

 §

 ところでそんなエミールには2つ下の弟がいる。

 名を、ジークハルトと言った。

 こちらは彼と違って気質にも能にも優れていた。

 そしてジークハルトにも婚約者がおり、名をリラと言った。

 リラはエミールの婚約者であるフェリスの妹だ。

 エミールは常々「弟が王位を継げばいいのに」と思っているが、このホラズム王国ではそれは罷り通らない。

 例え劣等だろうとその気が無かろうと、男だろうが女だろうが長子が国を継ぐ事になっている。

 建国の王がそう定めたのだ。

 そこに合理的な理由は一切ない。

 長子が能力に欠けるならば、能力があるものを王にすれば良い……それが合理である。

 王家の血をひいていれば問題はない筈だった。

 しかし世の中には、そこに合理的な理由がなくとも "昔からそうなっている" というだけで、非合理が合理を覆してしまう事が往々にしてある。

 ◆

 公爵家の次女、リラは一言で言えば "落ち着かない女" であった。

 何事につけせわしない。

 それでいて注意力散漫である為に、良く失態をおかす。

 お茶会で使うティーカップの類を落として割ってしまう事など日常茶飯事だ。

 更に思った事をすぐ口に出してしまい、不興を買う事も多々ある。

 だからと言って悪意を以てその様に振る舞っているのではなく、失敗しないようにしよう、ちゃんと振る舞おうとして結句そうなってしまっている。

 自身が公爵家の次女という身である意味をしっかり理解した上で、それでもやらかしてしまう……それがリラという女性だった。

 リラにとって世界は忙しすぎるのだ。

 何かを問われれば、速やかにそれに応じなければならない。

 お茶会といっても自由きままにお茶を楽しめるわけではなく、数多くの暗黙の了解……細則を理解した上での振る舞いを求められる。

 リラは頭の中で自身の行動の一々をその暗黙の了解に照らし合わせ、貴族令嬢として粗相はないかどうかを確認するが、当然そんな事は上手くいくはずもなく、リラの頭はパンクしてしまい、粗相を……という流れが非常に多い。

 そして、そんな彼女を周囲の者達は優しい目で見るのだ。

 誰も彼女を叱ったり、疎んだりしない。

 だがリラは感情にびんな所がある。

 だから自身へ向けられている "それ" が同情だとか憐れみだとか、その類の感情であると理解してしまっている。

 しかしある種の同情は、ある種の人々の精神を殺す事さえもあるのだ。

 立派な家柄、立派な家族、そして王太子の弟という立派な婚約者。

 リラの周囲の、何もかもが輝いている。

 その "光" の強さ、素晴らしさ、どれ程自身が恵まれているのかをリラは痛いほど承知していた。

 承知してなお、リラは自分が幸せであると断言出来ないでいた。

 なぜなら、幸せであるならば「消えてしまいたい」などとは思わない筈だからだ。

 ◆

 その日、エミールは婚約者であるフェリスと共に、公爵家の中庭でお茶の卓を囲んでいた。

 空は蒼く、雲一つない。

 降りそそぐ日差しは温かく、柔らかい光の雨にも似ている。

 そんな光の下のフェリスは大層美しく、それが服装や装飾品に頼っての美しさではない事くらいはエミールの凡庸な目でも明らかだ。

 ドレスにしても、ホラズム王国で人気のある……つまり一般的である薄紫色で染めた生地を使用したものだ。

 なおこの色はホラズム・パープルと呼ばれており、夜明けの薄紫色の空に僅かな蒼を混ぜ込んだ神秘的な色合いをしている。

 染料は薔薇の花弁が使われていて、これがこの色合いの肝なのだ。

 その薔薇は "水の薔薇" と呼ばれる蒼く透き通った花弁を持つ薔薇で、ホラズム王国の国花でもある。

 ちなみに "水の薔薇" から染料を抽出する技法は、先述したアルドリック凡人王の次代、ユージン無能王の妻である王妃エリザベスが考案し、国に広めたとされている。

 なお、ユージン無能王の "無能" という字名はほかならぬ彼自身が自称したとされ、これには当然ながら周囲からの大反対を受けたそうだが、彼はそれを押し通したとのよし

 ともあれ、フェリスの服装は決して特別なものではなく、装飾品にした所で最低限といった風情で、胸元にブローチが飾られているのみだった。

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 ──まるで女神の様だな

 エミールの感性ではこんな陳腐なセリフしか思い浮かばない。

 これでいて俗な性根のエミールだ。婚約者が美人である分には一向に構わないのだがしかし、フェリスから放射される波動めいた何かが彼の精神の水面を激しく波打たせた。

 きっとフェリスには無いのだ、という思いがエミールにはある。

 何が無いのか、と問われれば彼は言葉に窮しただろう。

 長年エミールの胸中に在り続け自身を蝕んできた "それ" に、彼はまだ名前を付ける事が出来ないでいるからだ。

 しかし確実に "それ" はある。

 エミールの中の "それ" は、こんな自分ですまない、至らない自分で情けない、申し訳ない、申し訳ない、申し訳ないという思いを常に吐き出している。

それがためにエミールは本心を出す事を躊躇ってしまう。

「エミール様、どうされまして?」

 フェリスが心配そうな表情で問いかけてくる。先程からフェリスだけが話しており、エミールは相槌を打つだけなので尋ねたくなるのも無理はない。

 だがそれに対し、エミールは上手くもない作り笑いを返すのが精一杯だ。

 彼がフェリスに対して隔意がある事は確かだが、決して彼女自身を嫌っているわけではない。

 だのに言葉が出てこないのは、フェリスの "気遣い" をびんに感じ取ってしまったからだ。

 ──最初、彼女が話していた事は私には良く分からなかった。しかし段々と私にも分かる様になっていった。最終的には私にもしっかり理解できるものとなっていた

 それが何を意味するか、エミールにはよく分かっている。

 ──私は、気遣われたのだ

 フェリスに他意はない。例えば、エミールを小馬鹿にしているとかそういう意思はない。

 エミール自身もそれは分かってはいる。

 しかし怒気が噴き出すのを抑える事ができなかった。

 とはいえ、怒りの矛先はフェリスではない。

 自分自身だ。

「いや、心配かけて済まない。そうだ、少し庭を見て回っても構わないか? 少しだけだ。君は笑うかもしれないけれど、こう見えて私は草花が好きでね。母上に似たのかもしれないな」

「……ええ、構いませんよ。ご案内」

「いや、いいんだ。す、少し集中して見て回りたくてね、そ、ま、なにか不都合があるだろうか」

 エミールがフェリスの言葉に被せる様にして言うと、フェリスは微笑んでそれを受け入れた。

 ──美しい笑みだ。しかし、あの笑みは誰かに向けられる種のものではない。ただ微笑んでいるだけだ

 そう察したエミールの心臓が、キュウ、と締め付けられる。

 ◆

「畜生、死にたいな」

 公爵家の広い庭園を歩きながら、エミールは呟いた。

 口元にはどこか引きつった、へらへらとした笑みが浮かんでいる。

 人は精神の均衡が著しく崩れると、時に自身の決定的な抹消を意味する言を吐き出して均衡を取ろうとする所があるが、エミールはまさにその境地に在った。

 エミールの視線の先には "水の薔薇" が咲いているが、視界に収めているだけで見てはいない。

 彼が見ているのは暗黒の虚空が無限に広がる自身の胸中だ。

 へらへらとした表情とは裏腹に、表情筋のあちらこちらが痙攣している。

 能力もなければ人品にも欠ける、それでもういずれは王位を継がねばならない、そんな現実がエミールの精神を酷く苛む。

「糞、死にたい。なぜ私は、こんな……」

 吐き出す様にもう一度呟いたエミールは、不意に気配を感じた。

 背後から声が聞こえる。

「私は、消えたい」

 エミールが振り向くとそこには──……

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 リラは真っ青になって失言を悔いた。

 王太子の慨嘆は、恐らくは聞いてはならない類のものだというのは彼女にも分かった。

 とはいえ聞いてしまっただけなら白ばっくれる事もできなくはないだろう。

 だが、答えてしまった。

 よりにもよって自身の死を願うような事を言ってしまった。

 ──ど、どうしよう

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 この日、リラは第二王子であるジークハルトから文を受け取り、その内容のせいで酷く憂鬱だった。

 文にリラを貶めるような事が書いてあったわけではない。

 内容は真逆で、いわゆる恋文というやつだった。

 リラのどこどこどういう部分が素晴らしいか、自分は君のこれこれこういう部分を尊敬している……おおむねこの様なものだ。

 何だったら小洒落た詩歌さえも添えられている。

 それがリラには気鬱でならなかった。

 ジークハルトの思う"リラ"と、自身が思う"リラ" に開きがありすぎたからだ。

 ──ジークハルト様は私の何を見ているのだろう

 そんな思いがリラの中にはある。

 そして「多分」と胸中で語を継いだ。

 ──ジークハルト様の中には理想の私が居て、私はその "私" になれるように努力をしなければいけないんだ。今の私じゃ駄目なんだ

 そう考えるとどうにも心が塞ぐ。

 リラは自分の事が好きではない。

 鈍間だしせっかちだし、集中力もない。

 消えたいと何度思った事か。

 しかしそんな風に至らない "自分" ではあっても、婚約者とは言え他人の理想像に合わせる為に見切らねばならないというのは何だかとても寂しい事の様な気がしていた。

「お庭にでも行こうかしら……」

 呟くなり、リラの足は中庭へと向かう。

 公爵家はその家格に見合った庭園を有しており、四季折々の様々な草花が目を楽しませてくれる。リラ自身も草花を好む気質である為、気分転換には打ってつけだった。

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 庭園には初春の柔らかな日差しが降りそそいでいる。

 最初に目を引くのは「霜結花しもゆいのはな」と呼ばれる白い花だ。花びらは透明感のある白色で、微かに光る粉をまとっているように見える。

 隣には「夕纏花ゆうてんか」が咲いている。この花は日中こそ茶色味が強い地味な花だが、夕暮れ時になるとまるで夕焼けを纏ったかのような美しい茜色に染まる。

 庭園には他にも色鮮やかな花々が咲き乱れ──……リラはそんな美しい光景を眺めるもしかし、その心には相変わらず影が差したままだった。

 この美しい場所で、自分という存在がまるで場違いに感じてしまったのだ。

 常ならばリラを慰撫する美しい花々が、今日ばかりはどうにも心の琴線に触れてくれない。

 浮かない顔で歩を進めるリラだが、ふと人の気配を感じた。

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 心臓が跳ねる。

 リラは息を潜め、周囲の茂みの一つに身を隠すようにして静かにその方向を窺った。

 ──誰かしら。お姉さまと王太子殿下は中庭にいる筈ですし……

 例え誰であろうとも、リラはれっきとした公爵家の者だ。隠れる必要など全くない。

 無いのだがしかし、咄嗟に隠れてしまったのは彼女の小動物然とした気質ゆえだろうか。

 そんなリラだが、不意に思ってもみない言葉を聞いてしまって目を見開いた。

「糞、死にたい。なぜ私は、こんな……。駄目だ、頑張るんだ。次はうまくやる、次こそは……」

 乱暴な言葉だ。

 これまで公爵家の次女として、蝶よ花よと育てられたリラの耳に入る事の無かった荒れた言葉だ。

 しかしリラはその言葉の響きに、不快感ではなく強い共感の念を覚えてしまった。

 声の主が王太子エミールであったと知っても、自身の心から湧き上がり、漏れ出てくる言葉を抑える事ができない。

「私も、消えたい」

「いいね」

 エミールは、どこか茫とした様子で答える。

 羞恥心と劣等感の汚泥が胸を圧迫し、呼吸が出来ないような気がしていた。

 こんな自分に目をかけてくれて、しかし期待に応えられない自分が酷く情けない。

 エミールの、靄のかかった精神世界に過日の残響が広がっていく。

 ──良いか、エミール。困った時は……

 思い出そうとして思い出したわけではない。

 しかしその声はしつこくエミールの脳裏で響き続けた。

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 エミールとリラの関係。

 身も蓋も無い言い方をしてしまえば、それは負け犬同士の傷の舐め合いである。

 傷口に雑菌が入り込み、逆に膿んでしまう事だってあり得る。

 しかしそれでもという思いが二人にはあったのかもしれない。

 それからというもの、エミールはリラに逢う為に理由をつけて公爵邸を訪れた。

 密会の場所は公爵邸の庭園だ。

 といっても互いに異性として見ていたわけではない。

 死にかけの負け犬同士が視線を合わせて、互いの生存に安堵し合う──……その程度の確認作業だ。

 だがそれはあくまで当人達の理屈である。

 他の者達……例えばエミールの弟のジークハルトだとかリラの姉であるフェリスだとか、そういった者達にとってはどうだろうか。

 更に言えば、密会とは外部に漏れてしまっては意味がないのだが、王宮にいるジークハルトはともかくとして、公爵邸で暮らすフェリスが密会の事実に全く気付かないなどという事があるだろうか? 

 そんな事はあり得なかった。

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 フェリスは私室で "報告" を聞く。

 内容はある日を境に、エミールとリラが頻繁に逢っているというものだった。

 勿論それだけでは黒だと断じられはしないものの、一切問題がないわけでもない。

 フェリスは唇へ人差し指の腹を当てながら、沈思する。

 ──リラもエミール様も、そこまで頭が悪いとは思えないのだけれど

 不義密通だとしても、もう少し時と場所を選ばないだろうか? 

 そこまで考えが至らないほど能無しだとするなら──……

 フェリスは脳裏に幾つかの "対応" を思い描くが、その表情は全く変わっていない。

 どれ程に不穏な事であっても、血腥ちなまぐさい事であっても、平然と考え実行に移せないようでは貴族足りえない。

 例え肉親だろうと、切るべき時に切り捨てられるのが完璧な貴族……そうフェリスは育てられたし、彼女自身もそうあろうとはしていた。

 だが。

 ──《《その時》》は、エミール様に泥を被って貰いましょう

 フェリスはそう決めて、そんな自分の甘さに苦笑する。

 脳裏に過ぎるのは幼き頃のリラの姿だった。

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 部屋の隅で幼いフェリスが肩を押さえて泣いている。

 教鞭で打たれたのだ。

 覚えておけと言われた事を覚えられなかったから。

 フェリスは公爵家の長女として、時期王妃として、完璧な存在になる事を義務付けられていた。

 だが幼いフェリスにとって、完璧な貴族になる為の教育は酷く苦痛なものだった。

 ぎぃ、と扉が開き誰かが入ってくる。

 小さい影、リラだ。

 リラはフェリスに近づき、彼女を抱きしめる。

 その目には大粒の涙が浮かんでいた。

 リラはフェリスの痛み、苦しみ、辛さ──……それらを自身も味わっているかのような悲痛な表情を浮かべている。

 そんなリラの事を、フェリスも抱きしめ返す。

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 フェリスはふと意識を戻し、今後の事……流れ、脚本、台本を考えた。

 男と女が二人きりで人目を忍んでという事ならば、不義密通だとおもって概ね間違いはないだろう。更にそれを公爵家の庭園でやるとなると、これは貴族の面子の問題にもなってくる。

 ──まずはお父様に相談。そして、お父様を使って……

 公爵家の実権は当然当主であるフェリスの父にある……筈なのだが、実際は違う。

 現当主は彼女の傀儡と化している。

 恐ろしいのは、当主自身がそれに気付いていない事であった。

 そうしてフェリスが様々な考えを巡らせていると──……

 扉が叩かれる。

 用向きを尋ねれば、それは王太子エミールの訪問を告げるものだった。

 ◆

 応接室へ通されたエミールを、フェリスは穏やかな笑顔で迎える。

 二人はソファを挟んで向き合って座るが、エミールの様子はどこかぎこちない。そして、そんなエミールのぎこちなさが空気にも伝播していくように、空気が少しずつ重くなっていく。

 だが、そういった空気を払拭する様にフェリスが声をかけた。

「エミール様、逢いに来てくださったのですね。嬉しいです」

 フェリスは瞬時に喜びの感情を作り上げた。

 エミールは彼女にとって一応まだ婚約者なのだ。

 婚約者が尋ねてきたならば嬉しく感じるべきであり、はしたなくならない程度に喜びを示すのがマナーである……とされている。

 だからフェリスは喜んで見せた。

 しかしエミールはフェリスの顔をじっと見つめ、やがて目を伏せたまま言った。

「それは、嘘だな」

 エミールにはそれが作られた、計算された笑顔だと一目で分かったのだ。誇るべき事ではないかもしれないが、これでいてエミールは人の顔色を窺う事に長けている。

 するとフェリスはすっと表情を消し、真顔になってエミールを見つめた。

 自身の態度を見透かされたからではない。

 ──はて。エミール様はこの様な物言いをする方だったでしょうか

 そんな疑問があったのだ。

 "あなたの取っている態度は虚偽のものです" などと、余りにも直截的な物言いに過ぎる。

「……何か、思う所があるのでしょうか?」

 とまれ、相手がその様に話す事を望むのなら、とフェリスは露骨な尋ね方をした。

 とはいえ、彼女にはエミールが何を言い出すか、ある程度は予想できていた。

 ──婚約破棄、挿げ替え、心変わり。どれでしょうね。もしかしたら "事後報告" ? 監視の目を盗んで事に及べるほど能があるとは思えませんけれど。でも、仮にそうだとしたら余程公爵家と事を構えたいと判断せざるを……

 しかしフェリスのそんな考えは、エミールの思わぬ言によって遮られる。

「君に私を託したい。廃するか、擁するかは任せる。しかし願わくば機会をくれ」

 それまで完全にフェリスの意思によって統御されていた表情が僅かに崩れる。

 質問の意味は分かるが意図が分からない。

「なぜ、その様な事をお尋ねになるのですか?」

 フェリスが尋ねる。

 ◆

 フェリス、ユージン無能王は知っているかい? 

 そう、随分昔の、自身を無能と称した奇矯な王だ。

 だが彼は決して無能ではなかった。

 自身の能の多寡を見極める目があり、足りない部分を任せるに足る者へと託す度量があった。

 私にはそれがない。

 悔しい、そして妬ましいのだ、フェリス。

 君が、弟が、父が、母が、私の周囲の、私より優秀な者達が。

 私も努力はしているつもりだが、そんなものは君達にとって努力の内に入らないのだろう。

 君と居ると、私は劣等感の炎で炙られて満足に言葉も話せなくなる。

 馬鹿な事をいって呆れさせてしまわないだろうか、なんて思ったりしてね。

 でも君はそんな私にとてもよくしてくれる。

 ただ、それが私にはとても苦痛だったんだ。

 見下されている様に、同情されている様に感じた。

 でもある時、私が私の低俗さにうんざりして庭園に逃げ出したあの日、私はリラに出会ったんだ。

 彼女は君と違って普通の人だったよ。

 1を聞いて10も20も知ったりはしない。1を聞いて1を知る人さ。

 そそっかしい部分もあるけれど、それはまあ速度の問題だ。

 彼女の中に流れる時間に、こちらも合わせれば良いだけの話だ。

 ……? 

 なんだい、そんな目をして。

 まあいい、話を続けようか。

 私は彼女と話していてとても安心したんだ。

 劣等感に苛まされる事もなく、普通に話が出来た。

 話の内容は他愛もない事だけれどね。

 その辺に生えている草の名前や、お互いが最近やらかしてしまった失敗談、北方の"沈まない太陽" の話だとか。

 いずれ王位を継ぐものとして、なんて考えなくて良い事があれほどまでに楽だったとは。

 そうして私とリラは親しくなっていき、私の心は完全にリラへと向いてしまった……その時はそう思った。

 話していて心が楽になるのだから特別な感情を抱いているに決まってる、私はそんな風に考えていた。

 でもある時、リラが君の話をしてね。

 浮かない顔でこんな事を言ったんだ。

 ──わたくしがもう少ししっかりしていれば、お姉さまやお父様、お母さまを失望させずに済んだのに

 と。

 ジークの事も言っていた。

 素晴らしいジーク様に比べて、と言う様な事を。

 私が君に対して感じている様に、リラにもジークに対する大きな引け目があるようだ。

 その言葉に触発されたのか、まあ私も似たような事を言ったんだよ。

 私がもう少し優れた人間なら、みたいな事を。

 次の瞬間、別に示し合わせたわけではないが、私たちは何となく互いに互いの目を見た。

 私とリラは似た者同士のようでね、顔色を窺うのが得意なんだ。

 私はリラの瞳に、リラは私の瞳に何を見出したと思う? 

 同情の念さ。

 私たちは互いに憐れみ合っていたんだ。

 あれほど向けられたくなかった "それ" を、私たちは互いに向けあっていた……。

 この時ようやく理解したよ、そして受け入れた。

 低きを見下げ、安堵を覚える卑しき性根が自身にある事を。

 私は卑だ。

 善でも悪でもない、卑。

 リラという人物を真に好いたからではなく、劣等感を抱かなくて済むからと選ぼうとしたのだ。

 これが卑でなくて、一体なにが卑になるというのだろう。

 フェリス、私の劣等感が君に最も強く刺激されたのは、ほかならぬ君に私を認めてもらいたかったからなのだろう。

 私は他人の顔色を推し量ることばかりに長けて、自身が抱く気持ちを確認しようとはしなかった。

 霧が晴れた今ならば分かる。

 私は君が好きなのだ。

 好きだから認めてほしかったのだ。

 しかし、卑である私では駄目だ。

 私は成長をしなければいけない……成長をして、君に認められる男になりたいと思っている。

 だからフェリス、君に頼りたい。

 君が認める水準の男になる為に、君の手を借りる事はできないだろうか。

 努力の指針が欲しい。

 私に課題を、試練をくれ。

 成長の機会をくれ。

 分かっている、情けない事を頼んでいるということは。

 しかし、どうしても一人ではだめなのだ。

 どうだろうか、都合が良すぎるだろうか……

 ・
 ・
 ・

 エミールは自分でも恐ろしく情けない事を言っているなと自覚しながらも、フェリスに相談を持ちかけた。

 だが急にそんな事を言われても、と困惑したのは当のフェリスである。

 悪性の困惑ではない。

 しかしこれまで経験したことのない種のものだった。

「た、確かに情けないと思いますが……いえ、しかし……ええと、確認をさせてください。リラとは結局どうなったのです?」

「彼女もジークハルトとの関係を見直してみると言っていた。先程も言ったが、彼女も引け目をもっていたらしくてね。私が言うのもなんだが、弟は王の器を備えているからな。圧倒されてしまうのも無理はない。だが、そういった能力の差を抜きにして、ジークハルトという人間をどう思うか尋ねたら、好意かどうかはわからないが憧れの様なものを抱いている、と言っていたよ」

 エミールは何という事もないといった様子で答える。

「そうですか」

 フェリスは呟き、エミールを見て言った。

「胸襟を開いてくださったのだから私もお伝えしますが、私はエミール様の事を異性として見ておりません。婚約はあくまでも政治の都合によるものです。ただ、私自身恋や愛といったものを存じ上げていないという部分もあり……正直に申し上げますと、エミール様を、その、鍛えた? として、では水準を満たしたので愛します、とはお約束できないのですが……」

 フェリスは自分でも何を言っているのか良く分からなくなってしまった。エミールの余りの情けなさと率直さに毒気を抜かれてしまった形となっている。

 しかしフェリスの言葉が紡がれるにつれ、エミールの様子がおかしくなっていく。

 体はぶるぶると震え、拳は握り締められ、悲壮感の湿ったヴェールが部屋中へ広げられていく様な──……

 それを見たフェリスは、焦りの念が心中から湧いてくるのを感得した。

「い、いえ、ですからね。私も恋などをしたことがないので……ええと、エミール様は私が好きだと、そう仰りたいのですよね」

「ああ、大好きだ。愛しているかは分からない、私は愛がどんなものかを知らないからだ。だが、この思いが恋だとするならば、それが愛へと変じるまでにそう長い時はかからないだろう」

「そ、そうですか……まあそれはそれとして、私にも知らない事はあります。そ、そう、恋とか愛とか……。だから、そういったものをエミール様から学ばせていただくこともあるでしょう……ですから、エミール様がそういう御積りであるなら、私としてもそういう積りで……そ、そう、ともかく、まずはお友達からということで……」

 ああ、今私は頭が悪くなっている、と思いつつも、フェリスはようやく言葉を口にして俯いた。

 そんなフェリスの事をエミールは暫時見つめる。

 この視線がフェリスにとっては堪らない。

 ──エミール様は、を持っていらっしゃいます。つまり……

 妙な羞恥心を覚えながらも、フェリスはエミールに視線を向ける。

 すると、安堵したような息をつきながらエミールが言うではないか。

「ああ、まずは友達からで構わない。改めて、よろしく頼むよ、フェリス」

 エミールがその優れた人心透徹の目で何を視たのか──……知りたいような知りたくないような心地を覚えつつ、フェリスは「はい」と小さく返事をした。

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