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アートを哲する マニエリズム・バロック


マニエリスムとバロック時代のアートについて、感じたことを言ってます。ていうか作品の映像だけでここまで感動できるのすごくない?実物をいつか見てみたいぞ。

ベルニーニ 聖テレジアの法悦 1652 コルナロ礼拝堂

https://www.musey.net/11992

テレジアという修道女が天使の矢に刺され、宗教的で神秘的な何かに導かれてうっとりしている。(ここで哲学の教授は「そういう建前だけどさぁ」と笑っていたよ)両サイドでコルナーロ家の人々がその瞬間を目撃している場面らしい。
真ん中にいるテレジアと天使はミュージカルさながらのポージング、ドラマチックな質感。テレジアの服なんか布とは思えないくらい硬くて、一瞬をパキッと切り取った躍動の残り熱をまだ帯びているみたいだ。
対する目撃者のみなさんは主役の彼女らに比べると写実的で、この世のものっぽい質感で描かれている。ドラマのシーンから一歩引いたところから彼女の法悦を見ていますよ〜という業務的な説明にすら感じられる。
フロイトさんなどのおかげでテレジアは肉体的な(宗教的に厳かでないという意味で低俗な)エクスタシーを感じていることになっているらしいけれど、私は初めてこの作品を見た第一印象としてえっちだ…とは感じなかった。感じたのは、快楽というのはすげ〜美しいもんだという強い納得感だった。

マニアの解説によると、信心深く瞑想すれば聖霊が舞い降りて高尚な喜びの世界に誘われるという言い伝えがあって、それを芸術家ががんばって想像して作ったけれど、どうも肉体の快楽に飲まれてるように見えちゃうねという事らしい。見えちゃう、ってエロスが低俗で嫌らしいこと前提みたいな言い方だけど、これを天使(無垢)と修道女(処女の象徴)の形に乗せるってことはそういう意図を汲み取っちゃうよね。
今は当時に比べれば肉体のつながりなんてヤラシイわという風潮は薄れているように思う。個人がそれぞれの哲学に生きる時代だ。風潮そのものが役をなさなくなっている。
それでも往々にして、自我は身体と精神の喜びを相反するものにしたがる。ココロモクは同時にヤリモクであり得ないし、氣もちいいから好きではダメなのだ。野獣と紳士は共存せず、ロジカルなビッチでは格好がつかない。喜びを分断し、愛と恋を分けたあたりから脳みそは疲弊し始める。相反する欲の片方を隠そうとするのだ。
 
そこで聖テレジアを見よ。笑っちゃうと思う。人間には計り知れない崇高と、究極に人間臭い快楽を、一緒くたに切り取ってパキッと空間を割っている。かっこいい。この姿が何世紀にも渡り人々を惹きつけ感動の世界へいざなっているんだ。低俗だろうが高尚だろうが同じことだ。聖なる恍惚は止められない。バロック芸術のエロティックはドラマティックで、ドラマティックは衝撃だ。衝撃波、と言ってもいい。この作品を前にして精神がどうだ肉体がどうだと、言ってられないのだ。


マニエリスムについては「Renaissanceの反動でマンネリ化した残念なやつ」くらいに思っていたのだが、印象ががらっと変わった。
透視図法→マニエラ(アレゴリー)→バロックの流れが好きだ。
「モノが実体から至高者視点を通って表象へ還るグラデーション」に見える一方「モノが、脳で作った座標上の仮の姿から心で納得する実体へ進化するグラデーション」にも見える。二つの波が交差するところにマンネリズムが生まれる。面白いなと思う。

味覚も聴覚もイメージの形。
VRが実在とは違いイメージだと言い切れる理由は視覚と聴覚だけを覆っているからだ。
五感の全てを覆うことができるVRができた時、VRは消える。必要なくなるのだ。人は完全に実在と表象の区別をしなくなり、他者や自己という幻想を見ずに自由自在に転生して遊ぶだろう。

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