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黙らせてくれい


完璧のままでいさせて。
私が見ている素敵なあなたや色とりどりの世界を、言語(不完全な状態)化したくない。

物心がついたときから決まっていることだ。

今でも、この決まりが崩されそうになる時に一番悲しくなる。
「それどういうこと?」
「詳しく聞かせて!」
「なんでも話きくよ」
という言葉。
とても美しく共有したい事柄であればあるほど、その言葉に希望を打ち砕かれたようで涙が出る。言ってくれた相手のワクワクを感じ取るからこそだ。伝えられるわけがないやろがい!!絵でもちゃんと表せるか分かんないのに。

໒꒱·̩͙

物心ついたときから、文字という抽象を色と形でありありと具体的に思い浮かべることが得意だった。2歳で読書に没頭し、助詞や接続詞を多用して変に大人っぽく喋る子供だった。

当時は思考する時に頭の中で声を発することが無かった。だから脳内のビジュアルが少しでも正しく伝わるように、親に説明するときには特に苦労した記憶がある。オモコロのみくのしんさんに似た話し方をしていた。

໒꒱·̩͙

今日見たゆる言語学ラジオの回、かなり的確に今感じている苦悩を説明してくれたから書き留めておく。



頭の中で言葉を発して考える「言語思考者」と
図のままで考える「視覚思考者」がいる、という説。

言葉で思考する人は、イメージという抽象を言語という具象に変換してからパズルする。
視覚で思考する人は、言語という抽象を図という具象に変換してからこね回す。
めっちゃ納得。

໒꒱·̩͙

もし視覚思考者が多数派の世界にうまれたら
「絵画化」する能力こそ必須スキルとされ、作図や空間認知を基礎とした教育課程を組まれ、分かりやすい絵を描けず簡潔なデザインが出来ない学生は評価されず、授業中にブツブツ独り言を言って考えたりすれば怠けるなと注意されるんだろうな。
そう考えると、個性を伸ばす教育なんて個性がある限り無理なんじゃないかと。

それはともかく

言語思考者が大多数だと仮定すると、これまで感じてきた芸術人どうしの交流の「狭さ」の理由が分かる氣がする。

この視点から覗く世界をできるだけそのまま伝えたい。その一心で視覚思考者は絵を描いたり曲を作ったり、動きや色彩を誇張した擬似世界を舞台で作ったりするんだろう。そうして言語思考者が言うところの討論や会話―色彩や温もりを総括して投げ合うという行為―を安心して行える場所をひっそりと築く。そしてアニメーションや漫画が「サブ」カルチャーとなる。

໒꒱·̩͙

noteでしぶとく続けている「言う」だって、治らない言語という呪いとの闘いだ。なりたい世界を誰かに伝えたくて闘っている。
「こんなことやってる暇あるなら絵描けよ」って心の隅でいつでも思うよ。絵は私にとって最も自然な表現だから闘いになり得ない。

絵画を専攻していた学生時代、多くを語らずビジュアルで魅せるタイプの友達に嫉妬した。講評でペラペラと技法や狙いを語る私に対して、その子はおそらく「なんや頭良さそうでうさんくせー」と思っただろう。
私が好きになる友達は確固たる意志を持って言語化しない奴ばかりだった。

私も無理に喋らず静かにしてたら、そういうやつになれたかな。そういう魚として生きていたら視覚思考がマジョリティの世界で水を得ていたかな。本来のコミュニケーション方法と違うやり方が浸透しきった社会へ飛び込まずに済んだかな。

今からでもピチピチできる?

答:もちろん。場所を変えるか考え方を変えるかどうする?

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とにかく、ゆる言語学ラジオのおかげでひとつ呪いが解けた。ありがとう。

絵画化したことに言語で脚を生やさなければ飛んでいかないというのは、言語思考者が優位な社会で少しづつ少しづつ定着させられた思い込みだったの。それは手放していい。語るべき全てを絵にぶつけてみよう。
でもね今まで言葉と闘って培った逃げの言語力は凄くいいアイテムになる。文字だけで人を笑わせられるのならこれほど省エネでコスパのよいエンタメはないでしょ。

なんかつらさの理由が分かっただけで強くなるのって不思議だね。理由が正しいかどうかなんて関係ないもん。

見守ってくれてありがとう。

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最近ギリギリが続いてよく分かんなくて、自分が泣き出すタイミングが予測できなくなってきて、だから整った呼吸で仕事できるように努力してみるよ。迷惑はかけすぎない程度に。みんなが安心できますように。
私にとって自然なモチベーションでちゃんと私のやり方が通用するか確かめてから逃げるよ。

2024.6.28 ZEN

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