『日記2019/01/21』
リラックスしたい時、だいたい僕は場末の喫茶店か町の小さな図書館に行きます。
図書館で司馬遼太郎先生のエッセイやら講演録とかを読んで先生の心地よい喋り口にうっとりします。
先生はよく歴史を紐解きながらそこに現代を重ね合わせ、物事の本質を語ります。先生、素敵。もう、うっとりです。
僕はそこで語られる歴史の中に自分という個を重ね、自分を分解していきます、各パーツごとに一つづつ丁寧に、分解していきます。
すると、歴史が僕なのか僕が歴史なのかよく分からない感覚になってきます。
宇宙って広いよねー、お前の悩みなんてちっぽけなもんさー、的な慰めよりも実感として、広大な歴史の中に一度身を浮かべる事で僕の思考は自由にふわふわと宙を泳いでいくのです。
しばらくその心地の良い遊泳を楽しみ、そして、また一つづつ丁寧にパーツを元の形に戻していきます。
すると、あら不思議。
何故か心は軽くなるのでした。
どうして?
一つづつ丁寧に組み上げていったのに?どうして元より軽くなったの?
それは、心が戻ったからです。
元いた場所に心が帰ったからです。
わかりにくいですね、
例えるなら小学生の時の夏のプールの後の午後の授業のあのけだるさ、とでも申しましょうか。
身体が一旦、重量を離れ、元いた所に戻ってくるあの感覚。
そう、あの感覚です。
頑張ってしまいます、働きすぎてしまいます、行き詰まった、もう駄目だ、そんな時に僕はふわふわとしたあの感覚に心を帰しに行くのでした。
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