2024/04/29~04/30

2024/04/29

小学生の時、家の前の坂を下ると、ものすごく大きなミミズが落ちていた時があった。(このnoteの一番最初に投稿したのにも書いた。というか、その確認ために、その記事を下に貼り付けて、このブログがもう1年も続いていることに気づいた。やばい。時の流れって怖い。)


ある日家の前の坂を下って気重く、チャリ通集団登校の便宜上の集合場所へ向かっていた時、くそでかいみみずを発見する。ほんとうにでかくてヘビくらい。最初、ロープか…?と思って近寄ると、ぬるぬるしてかすかに蠕動運動をしている(ところで、「蠕動」という熟語、字面がかなりキモい)。なんやこれ、とこわくなり、家前の坂を駆け上がり(家は小高い丘の上みたいなとこにたっていて、家に上がるためには、20度くらい?はありそうな急勾配の坂をあがらなあかん)、母に説明したところ、母はなぜかは、先生に説明し!と言ったので、おれは、先生に、せんせい、家の前にくそでかいみみずおちてました、と謎の報告をすることになる。

2023/04/19|800円

なんとなく、去年の4-7月くらいにかけて自分の書いたnoteとかツイートがすきだ。この最初の記事は、いつかZINEとか本とかつくる時に載せてみたいな、と思う。思えば今まで、その初期微動のエネルギーだけで突き進んでいる。最初だからできることってたくさんあるけど、その最初だからできるぞ、の感触を、なぞりながら、飴をくちに含んでずっと溶かさないよう溶かさないよう大事に舐めて残していっている感じで、かといって、その「ゾーン」みたいな感覚に依存してしまったら書くの辛くなるなと思う。と、今書いて、まさにそうなっている書き物があることに気づく。ゾーンとかフローとかいう言葉もまたOCD的な言葉だと心得ている。あるいは「腹の虫」とか、「脳汁」みたいな言葉もOCD的だと思う。そういうのにすごく敏感に反応する感じがある。

でかいミミズの他に、でかい蛾をみたこともある。中学校の裏を回って駐輪場へ向かう時に、校舎に張り付いているのを見た。テニス場の近く。生徒たちがあつまって騒然とするくらい、でかい蛾だった。二匹いたけど、二匹と言うより二枚だった。

自分はある種の卑屈さとか冷笑さになじめないなと思う時がある。そっちへ行ったこともある。あるいは過剰な明るさとかにも。けどどちらもすきだと思う。インターネット上でしか知らない人たちの、インターネット上での淡々とした振る舞いや、斜に構えた冷笑的な態度と、しかし実生活で友達と一緒に笑いながら歩いたりしたりとかもするんだろうなと思ったりする。泣きつき欲がある。

書き物は、というか書くこと自体が、そもそも情報の伝達(つまり考えたことのアーカイブ)のためにつくられたわけだから(違うかもしれない。言語って情報の伝達のためにあるんやろか)、つまり自分が書いたことというのが、どれも自動的に、アーカイブ然としてきているのが面白いなと思う。そして、タイトルを日付で保存してきて良かったなとも思う。

noteのフォントを、またゴシック体に変えてみた。どちらのほうが読みやすいですか。と言って、noteのフォントが、明朝体で確認できるのは、macOSとiOSだけらしい。設定としては、ゴシックと明朝で変えたりできるんだけど、その反映結果を視覚的に確認できたりはしない。でも、これは明朝で読んでほしいなみたいなのとか、ゴシックで読んだほうが読みやすいなとかが、記事ごとに違う気がするからなんとも言えない。そういう、記事ごとの設定というのはできないらしい。


2024/04/30

Yahoo知恵袋系のサービスで、質問に対して、「さあ?」とか「わかりません」みたいな回答がついていたりすると、それって質問ー回答がしたいんじゃなくて雑談したいだけで、でもチャットしたりするのは緊張するから、質問ー回答という形式をつかってやってるみたいなことなのか、

プロレスのことを話そうと思ったけど、うかつに話題に出してはいけないジャンルのような気が、だんだんとしてきた。だけど一方で、にわかにも優しいし、どんな意見もわりかし受け止めてくれるような土壌もある気がする。あるいは、ある種の批判的(にみられるような)意見も、それ自体が「プロレス」というフィルターを通されるからそこまで深刻化しないんだろうか。

ぬいぐるみが好きなことと、プロレスが好きなことは似ているなと思う。

最近BLを書いている(ジャンルをそう決めたのは、書いて後のことなのだけど)

noteで書いたものを、なかなかTwitterとかで告知できない。でも、読んでくれている人がぼちぼちいることは知っている。ありがたい。

夕方5時半ごろ、友人とラジオトークの配信をした。

それからひとりでスペースをした、


ある作家さんが前にエッセイを寄稿されてたのを読んだことがあって、その作家さんのお父さんは、ニコ生を趣味でやられていたらしく、だけど、リスナーがほんとに全然いない、コメントも一個か二個つくかくらいの配信で、何時間でもずーーっと話していた、というのを、その作家さんがある時知って、そのことに、すごく嫉妬した、みたいなことを書いていた。誰もいないのにずっと喋り続けられるのってすごいことだ。自分は多分それができるといえばできるんだけど、先天的なものではない。天然でそういう事ができる人がいる。

声と文章だったら、きっと声のほうが強い。そして声と映像だったら映像のほうが強い。強い、というのは、感情の誘引のしやすさ?とか気の惹きやすさとか、いろんな意味を含みますが。だから、文章であなたのことを好きになる、ということの特別さがある気がする。それがどことなく、渋いものとして扱われる感じがすると言うか。なにもしない、なにもきこえないはずの場所なのに、だれかの声が聞こえる気がする。

なんとなく手に力が入らない感じがある。うれしいのハードルが低い。なんでもかんでも嬉しい。それは今なんかハイになっているというだけのことかもしれない。というかそう。ハイなのかな。知らん。

はふー。はふーみたいな気持ちかも。はふはふ。たこやき食うてるときにしかつかわないオノマトペ。はふはふ。はふー。

しんどいときとか、その場にぬいぐるみがいる妄想を良くする。今日は、免許センターへ、免許の更新をしにいってきた。その時に、2時間ほどの講習を受けた。これがもう本当に退屈だった。でも退屈な素振りをすると、先生に申し訳ない気がした。講義の最初の注意に、講師が「これからする話に、面白いことはひとつもありませんからね。お昼を食べたあとで眠くなっているかと思いますが居眠りをしないように。それだと講座を受けたということになりませんからね。居眠りもスマホいじりもだめです。そのことがわかったら、後日補講ということもあるので注意しておいてください」と言っていた。

なんか喉の奥が痛い気がする。ヒリヒリする感じ。鼻から水を吸ってしまったときの感じに似ている。そういうどうでもいいことを何でも書いてしまう。舌で、そのひりひりするところを探ると、すこし味がする。舌で触れるもの全部に、味がするのはふしぎなことだとおもう。そして、舌は一生口から出ることができないことを思ってゾッとする。舌だけではない。足だって、ずっと体の一番下の部分に居続けないといけない。子供の頃は、お風呂の湯船に浸かるたびに、いつもずっと水につけられている、首から下の自分の体のパーツたちのことを不憫に思っていた。もし、手のひらに自我があったとしたら、お風呂に入るたびに、いつも水責めをうけて窒息させられていることになるんだから可哀そうだと思っていた。

前に読んだ、鴻巣友季子さん訳の『嵐が丘』で、冒頭、「ひとつうべなったのが挨拶代わりだ」みたいな文章があったことをなぜか強烈に覚えていて、とくに重要な場面とか文章とかそういうわけじゃないんだけど、時々その一文のことを思い出しては、「ひとつうべなったのが~」とそらんじる時がある。

そのようにして、なぜか覚えているフレーズというのがあるけれど、同じ用に、また随分前に聴いた個人のポッドキャストの中で「端的に疲れています」という表現をしていた人がいて、やはりそのフレーズのことを時々思い出しては、疲れているときなど、ああ、端的に疲れているな、とか思ったりする。

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