無題 #1(2024/04/22)

青面コアラが松の木にしがみついている。夜が忍び寄ってくる。固く手を結ぶ。鈎爪になった灰色の手が松の木の幹に食い込む。目が黄色く光る。劉邸の白い塀を沿って、優くんの手を引いて歩く。

電柱が立っている道の向こう、その向かいに畑がある。土の中では種が発芽しようとしている。芽は暗闇の中で、ぴきぴきと割れる殻の音を聞き、にゅるりとした、すこしぬめりのある、軟体動物然とした、まだ白い萌芽はやわらかい、くねくねと動きながら日光に向かって伸びてゆく。

虫の声が聞こえる。しんしんと鳴く。青面コアラは黄色い輪郭線を楕円に光らせる目の、その中央は真っ黒に澄んで、あるいは沈んでいる。コアラを取り囲む光線は、エクセルの、コピー元のセルみたいに点線になってぐるぐると回っている。運動靴はアスファルトをふみしめてぎしぎし、とか、みしみし、みたいな音がする。ピンク色の鼻がぴくぴくと蠕動する。道路はどこまでもまっすぐに伸びている。しろい塀の壁も、松の木もいくつもならんでいる。塀越しに松の木が並んでいる。邸宅はどんな風になっているんだろう。道をまっすぐに進んで、つきあたりは防波堤になっている。潮のにおいがしてくる。網がコンクリートの堤防にひっかけてある。つきあたりからT字になって分かれた道はどちらも細く狭くて、車一台ですら通れない。優くんの手を解く。髪の毛がひとつも乱れていなかった。いつもさらさらで、ふわふわしていた。すこし右に流れていた。髪をさわった。前髪に触って、流れている方向に撫でた。ほっぺたにニキビができていた。ニキビもさわろうとした。黒い学生ズボンが、右足と左足とにわかれている、その二又に分かれている、ふたつのズボン、布生地、そのしたに優くんの足が入っているとは思えなかった。ただズボンがあった。それがわたわたと足踏みしていた。二人でただじっと、つきあたりでだまって立っていた。何かが来るわけじゃないのに。何かを待っているみたいな気分だった。私の足もまた、このズボンの下に足があるとは思えなかった。

信号のひかりが優くんの肌を照らした。赤になったあと黄色になって、また赤になって、青になった。交差点をわたったら、中古車販売店があって、そこからまた横断歩道をわたると、マクドナルドがあった。店内に入ると暖房の風に吹かれてポテトの匂いがした。となりから汗のにおいがした。胸のあたりからした気がした。あるいは髪の毛から、無機的なズボンの奥からした気がした。どこもかしこも、からだでうずもれていた。テーブルまで肉だった。細い、あばらのういた体が、さぶいぼでざらざらとした。先にトイレに行ってくると言ってトイレに向かった。トイレは清潔に掃除されていた。真っ白の便器におしっこをした。それからつやつやの陶器でできた洗面所で手を洗って、鏡で自分の顔を見た。

ピンク色のマスクからは消毒の匂いがした。あごにかけたあとやっぱりはずした。運動靴の中で足が濡れている。雨が降っていたわけじゃない。汗で濡れているわけでもない。青面コアラたちはねむりにつく。劉邸の主人は松の木一本一本にコアラたちが生息していることを知っている。障子の窓から夜の庭園を眺める。肘に顎を乗せる。劉は文机のような、ひくいテーブルにつく。コアラたちは一斉に寝息を立てている。鈎爪と粘体。松脂の分泌と合わせて、滑りゆくコアラたちのゆっくりとした落下。青いマットレスの、へたれた弾力に身を預けて劉はねむる。僕は優と、プレートをもって、席につく。やわらかいソファに腰を掛ける。優がふかく沈み込んでいく。やわらかい、肉の中に入っていく。ハンバーガーを食べる。エグチのセットだ。優くんは確かに汗をかいていた。ひたいに玉のような汗の粒をうかべて、今やっと髪が乱れている。赤い光沢のあるシーツは、電灯が消されたあとも光っている気がする。吐息だけでそうとわかる優の存在が、あるいは吐息だけになった、音だけになった優くんがそこにいる。

T字路の突き当りで、わたしたちは右の方へ続く道を進んだ。月が夜空に出ていた。防波堤のところどころに切れ目があって、階段が伸びているから、そこを下りると砂浜に出ることが出来た。波のひいては寄せる音が聞こえる。月の光が海に反射している。僕はまた優くんと手を繋いでいた。赤い花が咲いていた。生垣からいくつか顔を覗かせているようにみえた赤い花は、実際には夥しいほどの数になってそれ自体が壁みたいになっていた。ぎゅっと握りしめた。もうひとつの方の手も握った。防波堤の方にやわらかい背中が反ってこすれた。カッターシャツに石の小さな粒や破片がついた。風が吹いた。ズボンとズボンが重なった。そのまま眠りに落ちた気がした。波打ち際にヒトデがうち寄せられていた。ヒトデは目を覚まして砂浜を歩き始めた。繊毛みたいな腹の底の、おびただしい数の触手をつかってあるいた。砂はじゃりじゃりとして、柔らかい体に刺さった。宝石みたいなひとみが夜の空気をみつめた。くちはいくつかの砂利を吸い込んで嚥下した。むせることはなかった。月は満月だった。優くんのほっぺたは濡れていた。スクールバッグのくまのぬいぐるみが揺れた。そしてまた海岸線を歩いた。夜の景色は揺らいでモザイクがかかったようにぼやけた。とても暑い夜だった。眉毛をしばらく剃っていなかった。リュックサックのホルダーには銀色の水筒がささっている。カッターシャツは第一ボタンと第二ボタンが外されている。夜の風が時々汗を洗った。ヒトデはもぞもぞとした前身運動を続けていた。砂の上に、星型に航路が引かれていった。ヒトデが優くんのおなかにひっついて皮膚を引っ張っている。赤いシーツの上で仰向けになって、顎の髭はほんの1mmくらい生えかけている。下腹にむかって歩いていく。わたしは下腹に向かって、それは砂漠みたいに、砂丘みたいに、とんがった鳥肌のひとつひとつにひっかかる無数の足が硬直し始める。畑に生えたひとつの苗は、数ヶ月かけて生長して、つるをのばし、つるどうしが絡まりあって一本の大きな幹のようになっていく。そうして木になって、数年後には果実をつける。果実は落下して、中身のどろどろした赤い果肉をはじけさせる。ドウドウはもぞもぞと寄ってきてそれにむらがる。何匹も何匹もやってくる。ヒトデは優くんの股の下に落下して、赤いシーツをするすると進み、ベッドの下に潜り込んで小さく震える。口の中から黄色い石、砂浜で飲み込んだ石をころんと吐き出して、それから眺める。朝がきて、部屋を窓から縦方向に切り裂くような光が差し込んで、優くんは目を細める。わたしのからだは、VHSテープの黒い帯のような物体で絡まって、日差しを浴びると虹色に光ったあとチリチリと音を立てて燃え始める。

マクドナルドで食事を終えて、しばらくは二人向かい合って、店の中でくつろいでいる。優はカバンの中からスマホを取り出して、うつむいて、いじっている。つむじが見える。窓のブラインドの隙間から、行き交う車のヘッドライトのひかりが、時々差し込んで、ちら、ちらちら、と点滅しているようにみえる。テーブルは白くてざらざらした素材で、フライドポテトの塩がところどころ散らばっている。テーブル裏の黒い金属がひんやりしている。貧乏ゆすりをする。マグカップのつやを帯びた白い光沢がクジラのように見える。白鯨の、縞の入った、凹凸したおなかは、死後打ち上げられれば、ガスによって膨張して、ある時爆発する。あたりには、すごい匂いが立ち込める。文庫本のページをめくる。すこし巻いた優くんの髪の毛が、雨に濡れて、すこしへなっとよれている。そろそろ行こうかと言って、マグに入ったコーヒーはまだ湯気をたてているのだけど、飲み干してしまう。停めておいた自転車の、スタンドを上げるに運動靴がタイヤに触れる。ガコン、と音がしてスタンドは上にあがり、タイヤが少しバウンドして、自転車全体がぼむん、とゆれる。マクドナルドをでて、交差点をわたった正面にはブックオフがみえる。8時になると閉まる。おれはこっちやけん、と言ってゆうくんと分かれる。きた道を通って、中華料理屋さんの方へ去っていく。中華料理屋の赤い看板には、黄色い文字で店の名前が書いてある。店内の様子が、ガラス戸ごしに見える。住宅展示場のすぐ横にある中華屋さんで、展示場から飛ばされてきた青い風船、おそらくなにかバルーンアートの破片のような青い風船がころがっている。店内には入口側から奥に向かってカウンター席が伸び、カウンターの横に、奥に並んでふたつテーブル席がある。その奥に仕切りがあって、こんどはそのスペースに並行してふたつテーブルが並ぶ。店内の電灯は薄いオレンジ色で、二人の店主が切り盛りしている。ガラス戸は、すこし汚れてくもっている。店の看板はライトアップされている。アップライトピアノを弾くわたしをうしろから優くんが。わたしの脇の下に腕を入れて、あばらや胸のおねが、わたしの背中に当たるので、ふたりともの骨がこつこつと触れ合う。めがねがカチャカチャと音を立てる。白い、短いコック帽、板前がつけるような帽子を、店主の二人はつけている。みどり色のピッチャーは結露して水滴を浮かせている。下に、青い格子模様の入った白のハンドタオルが敷いてあって、水分を吸収する。カウンターにはティッシュペーパーの箱がおいてある。頬に生えた短かなひげは、カッターシャツを簡単につらぬいて、背中にささってすこし痛い。柔軟剤の香り。汗の香り。湯気が出ている。頭から。みどり色の買い物かごの中には、レジ袋に入ったまままだ冷蔵庫に入れないで置いたままの生鮮食品類がたくさんある。このままじゃ腐ってしまうと思った。だけどこのまま。このままでいい。タキシードみたいなスーツが、クローゼットの扉にかぶさるように、鴨居にぶらさがったハンガーへかけてある。赤いネクタイが床に脱ぎ捨てられたままだ。

(1日1000字くらいを目標に書き続けてゆきたい)

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