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下町のメンタリスト 見えない男

愛用の newblance574が少々くたびれてきた。
次は、履くのが楽なスリッポンタイプの軽い靴にしよう。
そう思いついた私は、行きつけの靴店がある商店街にまで足を延ばした。
10坪ほどの小さな店だが、店主夫婦の応対が良いので気に入っていた。
今日は奥さんが一人で店番をしていた。常連客の私を見ると甲高い声をあげ笑顔で迎え入れてくれた。しかし何故かいつもより表情が強張って見えた。
大柄で色白な奥さんは20代後半。日々色んなことがあるのだろう。
私は余計なことは言わない・聞かない主義だが、レジ横に置かれていた
ある物を見た瞬間、声を出さずにいられなかった。

「何でこんな所に出刃包丁を置いてんの?!」

もう靴を選ぶどころの話ではない。
私の問い掛けに奥さんは一気にまくし立てた。
聞けば一か月前から、店主である旦那さんの留守を見計らって、
店の軒先で大声で喚き散らしながら奇妙なダンスを踊る男が現れたそうだ。
男は身長160センチほどで痩せ型、色黒で短髪。
いつも無地のTシャツとスラックスを着用しているとのこと。
奥さんが、旦那さんに連絡しようと電話機を取るとすぐに立ち去ってしまう。
生真面目な奥さんは、この男の行動原理が理解出来ず強い憤りを感じていた。

旦那さんは商店街の役員なので、この男について数十件の加盟店舗に
聞き取り調査を行ったが、この靴店以外に男が現れたという報告は無かったそうだ。
それからは、毎日のように、旦那さんは商店街を巡回して男を探しているが、それらしき者は未だ見当たらないという。

「私だけを狙ってるんや!」「一回でも店の中に入ってきたら、これで刺すつもりやねん!!」

強い貞操観念を持つが故なのか、話すうちに憤慨してきた奥さんをなだめながら、私は彼女の精神状態を探っていた。

被害妄想や虚言癖は統合失調症やアルコール依存症の典型的な症例だ。
しかし奥さんの話には整合性があり、しかも彼女はアルコールの類は全く駄目な下戸であった。
問題は、その男が奥さん以外、誰の目にも映らないことだ。

何の物的証拠も無いが、

私はこの男が存在すること、

そして奥さんが出刃包丁で男を刺すことはないと確信した。

その理由はこうだ。

男は決して靴店の中に入らないこと。
店の軒先で大声で喚き散らしはするものの短時間で撤収すること。

この二点は、チンピラが一般人相手に嫌がらせをする際に必ず守る鉄則だからだ。
これ遵守する限り、営業妨害にもストーカー規制法にも抵触しない。
そして何よりも、忙しい警察がこの程度では真剣に動かない事を知っているのだ。

しかし万が一にも、奥さんが男を出刃包丁で刺す事が無いようにしなければいけない。
仏頂面で愛想無しの店主が多い商店街で、この奥さんの明るさと笑顔は貴重なのだ。

私は買う気が無かった NIKE AIR MAX 新作の試し履きを申し出た。
この店で一番の高額品だ。怒気を孕んだ奥さんの表情が180度変化した。
猫のように擦り寄り私を椅子に座らせて、ご丁寧にスニーカーの紐まで結んでくれた。

会計の際、私は奥さんに出刃包丁よりも店舗シャッターの上げ降ろしに使う鉄製の棒を側に置くよう勧めた。これを使って大柄な奥さんが男を叩き殺しても殺意があったとは認定されるまい。

この男は何故、奥さん以外の人には見ることが出来ないのか?

私は、それを雄弁に語ることが出来る。

全ては憶測でしかないが。

ご支援賜れば、とても喜びます。 そして、どんどん創作するでしょう。たぶn