希望と諦観が手を繋ぐ

先日、干支を2周して24になった。正直なところ、1周目のことはあまり覚えていない。私は1周目から成長したのだろうか。

身長はさほど変わらないが、見た目はかなり変わったと思う。中身はもっとぐちゃぐちゃになったと思う。自分のこと、未だにわからないなと感じることは多々ある。
当時はだいぶ怖い物知らずな性格で、割と陽キャだったように記憶している。歳を取るにつれて影が濃くなるのがわかって、人の目は怖いし心は病むし、「まとも」を徐々に踏み外してここまで流れ着いてしまった。
12歳の私の夢を、24歳の私は何ひとつ叶えてあげられなかった。ろくでもない大人になったかもしれないとため息をつくこともある。

それでも私は今の私のことを悪くなく思っている。むしろ、見た目も中身も去年の私より好きだ。この感覚は20歳を超えたあたりから年々更新されているので、きっと来年の私は24の私より25の私が好きだと言うのだろう。こうやって思えるようになったのは、私の中の希望と諦観が手を取り始めたからかもしれない。


10代の頃はずっと、高い理想を追い求めることが全てだと思っていた。前しか見ず、進むことこそが至上の正義だと言い聞かせてきた。坂口安吾、そして彼の作品を好きになったのも、彼が自分の理想を追い求めていける強い人間だと思っていたから。何があっても理想を追い求める人間の姿は美しいと感じていたし、今でもそれを美しいとは思っている。

だけど別に特別ではない私が全く同じことを成し得るわけではない。それに気付くのがあまりにも遅かったのかもしれない。やっとふり返る頃には心身ともにボロボロだった。
理想ははるか遠くにあって、他人が悠々とそれに向かって歩いていくのを横目に、歯を食いしばって身体を引きずるのが私にとっての精一杯である。物事を進める速さ、ひいては生きる速さがそもそも違っていた。


他人と同じ速さで進めない自分を憎む気持ちも確かにあったけれど、今はそうすること自体を諦めた。あらゆる速さを諦め、器用を諦め、社交性を諦め、強メンタルを諦め、美人を諦め、スレンダー体型を諦めた。そして、「他人と同じ」を諦めた途端、なんだか少し生きやすくなった。

諦める、という言葉にはネガティブなイメージがあるだろう。しかし、その一方で諦めるという行為は自分の余分な部分を削ぎ落とすことにつながっているのかもしれない。
結果、今の自分の手の内にあるものを見つめることになる。すると案外自分の持っているものに愛着が湧いたりして、少しずつ希望が見えてくる。希望によって自身が肯定され、ちょっとだけ自分のことが好きになる。その繰り返しで、少しずつ自分のことを好きになれたのかもしれない。私の中の希望と諦観が手を繋ごうとしている。


私の中の希望と諦観は、手を繋ぐことはあっても抱きしめ合うことはない。ふたりが互いに包み合うとき、私は多分、自己完結によって外界の新しい要素に目を向けられなくなって前に進むことをやめてしまう。それは理想の美しい姿ではない。つまらない大人にはなりたくない。

だから、彼らは手を繋ぐくらいでちょうど良いのだと思う。ふたりで正面を向いて歩く限り、たくさんの困難をもろに受けるだろうし、それによって傷付くこともあるだろう。それでも、彼らによって私は生かされているし、自分のことを好きでいられる。どうせ人間は生まれるときも死ぬときも身体ひとつしかなくて、他の何も持っていけないし、誰も連れていけないのだ。だから、真に人生の伴侶たる自分自身くらいは好きでいてあげたいと思う。
そういうことを思うようになった頃、私は坂口安吾が人並みに悩んだり、だらしない面があったりすることを知った。


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