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季節はめぐり - 第九話

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 それから私たちは黙ったまま、二階の廊下の端、角部屋まで戻ってくる。私は半分ほど減った缶チューハイをローテーブルに置いて、買ってきた柿ピーの袋を開けた。秋本さんはベッドに座り、新しい缶チューハイを開けて口をつける。

「何か他に聞くことないの?」

 私から新しい話題を考える気が起きず、適当に投げかけてみる。

「聞いてもいいんですか?」
「だって聞きたいでしょ」

 秋本さんは缶チューハイを一口飲んでから、私をじっと見つめた。

「どうして、別れたんですか?」

 思ったよりも踏み込んできた質問に、少し面食らう。でも、秋本さんの顔は決して茶化したいわけではなく、あくまで純粋に私のことをもっと知りたい、という気持ちを物語っていた。

「よくあるすれ違い。大学を卒業して就職したら価値観が変わってー、ってやつ」

 ここまでくればどうでもいいか。考えている以上の言葉が口から溢れてくる。

「知らないと思うけど、明奈って私よりもずっと賢いし優秀でさ、学部も主席で卒業したの。就職活動も私と違ってしっかりして、大手のコンサルに就職して、二年でチームリーダに抜擢されてんの。すごくない? 過重労働で無理してるのかと思ったら全然そんなことなくて、むしろ目をキラキラさせて楽しそうにしてんの」

 どうでもいい。どうでもいいから、どんどん言葉が出てくる。明奈のことは、ぜんぶ昨日のことみたいに思い出せる。

「マネジメントがーとか、メンバーのエンゲージメントがーとか、明奈は仕事のことを嬉しそうに話してきて。私も、よかったね、すごいねって、本当に心の底からそう思って、話してた。最初はそれだけだった。それだけだったのに。それがさ、いつからかな、悠月もちゃんと働いたほうがいいと思う、とか言い出してさ」

 喉の奥が詰まってくる。吐き気にも似た感覚。我慢すると、代わりに目の奥がじんわりと熱を持ち、視界がぼやける。

「ちゃんとって、何。私だって生きていけるくらいのお金は稼いでるけど。お互いに生きたいように生きてるからいいじゃんって思ったのに、私はダメだって。二人の未来を考えるなら、きちんとしてほしい、社会経験をしてほしいって。きちんとって何なのか、私にはわかんなくて。今まで気ままに生きてきたし、これからもそのつもりだったのに、急に責任持たされるみたいな。社会経験が二人の未来につながるのも意味わかんないし」

 目からこぼれてる涙なんて知らない。秋本さんのことなんて知らない。ただ、心の声がそのまま言葉になって、私の喉から溢れ出していく。

「明奈が変わったのか、もともとそうだったのかも、わかんないし。明奈のことは好きだったし、二人で一緒にいられればそれで良かったのに。っていうか、それなら最初からもっとちゃんとした人と付き合えばよかったじゃん。なんで」
「先輩」

 崩壊した心の関所から垂れ流されていた愚痴は、秋本さんの声で急に止められた。秋本さんの顔を見ようとしたら、視界がぼやけて全然見えなくて、目をごしごしと拭ってみたら、ようやくティシューが差し出されていることに気付く。遠慮なく一枚もらって涙を拭いて、もう一枚もらって鼻をかむ。

「ごみばこ」
「そこです」

 手の届くところにあった、パステルブルーの小さなプラスチックバケツに、くしゃくしゃのティシューを投げ捨てた。

「となり、座りませんか」

 秋本さんはベッドの空いているところを手でぽんぽんと叩いた。

 あからさまだなあ。
 秋本さんが何をしたいのか、なんとなく察してしまう。いや、それは勘違いも大いに含んでいるかもしれないけど。下心、とまでは言わなくても、何かしらの思惑を含んでいるのは間違いないと思う。私には、そういうのがわかる。

「何する気?」
「えっと……よしよしって、します」

 思ったことを口にした私に対して、赤い顔の秋本さんがへらへらと笑う。この子も大概、心の関所が壊れているらしい。思惑が顔と口から溢れ出している。
 だけど、その思惑に嵌ってしまいたいと思う自分こそ、本当に馬鹿だと思う。

 立ち上がってみたら自分の意志に対してバランス感覚が言うことを聞かなくて、ふらついた足に蹴られたローテーブルががたんと音を立てた。倒れそうになった私の腕を、秋本さんの白い手が掴む。そのまま引っ張られるようにして、秋本さんの横、ぴたりと体をくっつけて、私のお尻はベッドの上にぼふんと着地した。

「せんぱい」

 秋本さんに寄りかかって頭を預けると、秋本さんは自然と私の頭を両手で撫でてくれた。シャンプーのいい匂いがする。

「いい匂い」

 私が言うと、秋本さんはくすぐったそうに笑った。
 私が普段絶対使わないような甘い花の香り。前から、お店ですれ違ったときとか、ロッカーで近くに立った時にふわりと香ることはあったけど、今はお酒のせいか、もっと濃い、脳を直接麻痺させてくるような、そんな香りに感じる。

 花の香りにおびき寄せられる虫みたい。食虫植物みたいに、そのまま食べられちゃうやつ。

 さすがにそんなことは言えなくて、私は黙ったまま、しばらく秋本さんに撫でられていた。


 ▼第十話

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