見出し画像

頭痛

頭を鈍く鷲掴みにされているような不快感。
呼吸が浅い。
誰を相手にしたものでもない苛立ち。

子供の頃、まわりの人たちは当たり前に自分の味方をし、自分の話を聞いてくれるものだと信じていた。距離感なんて気にすることなく、誰でも友達になれて仲良くできるものだと、心の底から信じていた。

実際はそうではなく、自分を主張して距離を詰めれば詰めるほど、人は離れていく。そして、大人になるにつれて、世の中は「私の話を聞いてよ!」と言い喋り続ける人たちで溢れていて、そういう人たちの話をウンウンと聞いてるほうが生きやすいと知った。

気がついたら、私は自分のことの話し方を忘れてしまった。

そうやって話せなくなっても心の声はうるさいままで、ときどきその声が溢れそうになり、何の意味も持たない叫び声をあげたくなったりする。
話を聞いてもらうことなんてとうに諦めているし、そこに「聞きましょうか?」なんて優しさも求めてないのに、それでもなぜか、変に自分を捨てきれない自分がいる。
心のどこかで「助けて」と言っているくせに、手を差し伸べられても素直に手を出すことができない。
孤独な人は皆そうなのかもしれない。

結局、私は文章を書くことにした。
何かを作り続けることにした。
こうやって文字にして、言葉を選んで、文章にして、流してみたりする。
イメージや感覚を絵にしてみたりする。
頭の中のお話を小説にしてみたりする。
なんとなく、そうやって自分の手から生み出されたものを通して、自分がちゃんと輪郭を持っているような気がしてくる。

実は、それが本質的にあるべき姿なのかもしれない、と最近開き直り始めた。
自分を深く理解できるのも、支えられるのも、助けられるのも、正せるのも、最後は自分しかいない。
なぜなら、どれだけ自分のことを言葉にできたとしても、自分の心のすべてを他人に伝えることはできないから。
自分が自分と向き合って心の声を聞いてあげない限り、自分はずっと苦しみながら悲鳴を上げ続けることになるから。
だから、私は自分を救うために自分を形作っている。

そうやって形作られたものが、どこかにいる誰かの心に届いて、ほんの少しだけ、その人の心を動かしたりしてる。
作品のブックマークひとつとか、投稿へのいいねひとつとか、ほんの些細なことでも、お互いに心が揺れることに、わずかな繋がりを感じたりする。
そうやって出会う人たちとの浅くて広い関係が、かえってちょうど良かったりする。
その感覚が、一人になりたいけど独りにはなりたくないような、わがままで子どもみたいな私の心に寄り添ってくれたりする。

もし、私と同じように人知れず孤独を抱えて生きている人に、私の何かが届いて心を揺らした時は、ほんの少しでも、私と似たような細くても確かな繋がりを感じて、少しでも希望を持ってくれたらいいな、と思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?