「もったいない」が隠す人間の価値とは? ~フードロスとルッキズムとショートフィルム~

 「規格外で売り物にならない野菜を廃棄するのはもったいないから、ちゃんと利用しようよ」という取り組みを、最近よく見かるようになった。世界中でフードロスが問題になっていて、それに反対する流れだ。僕は、非常にいいことだと思う。日本でも、東京五輪で1か月で13万食が廃棄されたと報じられて話題になっていた。ただし、これは42会場ある中の20会場分なので、実際はこれより遥かに多いはずだ。

 まず、フードロスについて整理しておこう。これは、僕も今回調べてみて「へぇ~」と思ったことだが、まず大枠として食品廃棄というものがある。これは、食品の食べられない部分(非可食部)を捨てることも含む。そして、日本語のフードロスとは、食べられる部分(可食部)を捨てること。ちなみに、日本語のフードロスは、英語ではfood loss and wasteといって、可食部の廃棄のうち、生産現場→製造加工→流通の中で廃棄されるものがfood lossで、その先の小売→消費の中で廃棄されるものがfood wasteらしい。確かに同じ「廃棄」でも、捨てる理由が異なる。売り物にならないから捨てるのか、余ったから捨てるのか。

 今回僕が書いているフードロスは、特にfood loss、生産から流通の間で売り物にならないという理由で捨てられるものになる。冒頭で非常にいいことだと言った、「規格外で売り物にならない野菜を廃棄するのはもったいないから、ちゃんと利用しようよ」という取り組み。でも、僕は常々、一番疑わなければならないのは、「売り物にならないから廃棄する」ではなく「規格外だから売り物にならない」のほうだと思っている。

 さて、話は飛びますが、人生で一番心に残っている映画は何かと聞かれると、僕はロン・クラウス監督の短編映画『puppies for sale』を挙げる。おそらくほとんどの人は知らないと思う。5分ちょっとのショートフィルムで、短編映画祭などではたまに上映されているのだが、残念ながらそれ以外ではほとんど見ることはできないはずだ。と、思っていたのだが、今回調べてみるとYouTubeに配給会社公式であがっていた。14年ぶりに見てみても、本当に傑作だと改めて思う。残念ながら日本語字幕がないので、話の中身を載せておこう。英語字幕はあるので、辞書を片手に翻訳してみてもいいかもしれない。テキストにすると本当に短いお話だ。

 街の小さなペットショップのオーナーがバックヤードにいるときに、店の扉についていたベルが鳴る。そのオーナーが店先に出ると、一人の少年がいた。彼はオーナーに仔犬について尋ね、なけなしのお金を渡す。もちろん、仔犬を買えるような金額ではない。オーナーはバックヤードから何匹か仔犬を出して見せてあげる。店先を元気よく走り回る仔犬たち。その一番後ろに、後ろ足にハンデを負った仔犬がひょこひょこと現れる。少年は、そのハンデを負った仔犬を選ぶ。オーナーは、その犬ならタダであげるよと言うのだ。少年は、不満そうな顔をして、タダで譲ってほしくないと言い返した。そしてその後、こう続ける。この仔犬にも、他の元気な仔犬と同じだけの価値があると。だから、足らない分はまた払いにくると。それでもオーナーは、この仔犬は他の子たちのように走ったりジャンプしたり、一緒に遊んだりできないよと伝える。少年は悲しそうに、床に座り、その仔犬を抱えて撫で始める。曲がらない足を伸ばしながら。そこでオーナーは気づいたのだ。この少年も、足に障害を抱えていると。オーナーは、自分の発した言葉を後悔しながら、足らない分はまた今度でいいと伝え、お金を受け取り、正規の値段で仔犬を売ってあげる。

 話を戻すと、規格外の、形の悪い野菜は、なぜ売り物にならないのだろうか。なぜ、正規の価格で取り引きされないのだろうか。味も、栄養分も、同じなのに。このショートフィルムを見て以来、見た目が悪いと売り物にならないという価値観を、僕はどうしても受け入れることができなくなった。例えば、何か工業的なパーツであれば、形が悪いもの、他と形が違うものは使い物にならない。当然、厳密な規格が必要だ。でも、果たして自然物にまで、その概念を持ち込むのはどうなのだろう。農作物は、農業的な「ナマモノ」なのだ。工業的な「パーツ」ではない。確かに、形が悪いと、全部同じ形でないと、袋詰めするときに不便だろう。しかし、それが当たり前ではないか。その当たり前を崩してはいけないと、僕は感じている。

 そして、見落とされがちだが、人間も自然物だ。自然物なのに、見た目が悪いと差別の対象となり得る。それが、障がいに由るものなのか、病気に由るものなのか、遺伝に由るものなのかは別として。日本でも、このルッキズムがここ最近あまりにもひどくなっているように感じるのだ。インスタグラムやTikTokなどの普及で、子どもたちの間でも、外見至上主義が加速しているのではないかと危惧している。フードロスとルッキズム。全く関係なさそうなこの二つの事象も、実は地続きなのだと僕に教えてくれたのが、一本のショートフィルムだった。

 こんな短い文章の中で、話が飛んだり行ったり来たりで迷子になってしまうかもしれない。(僕はこういうのが割と好きだ。)今回の問いの行き先は、人間の価値だ。現代社会の中で、工業的なもの、商業的なものに隠されてしまった、自然物の価値だ。「売り物にはならないけどもったいないから廃棄せずに利用しよう」という一見きれいな言葉に覆い隠されてしまった、「規格外でも不格好でも、ありのままの姿に価値がある」という農業的な当たり前。大人には、そこに目を向け、工業的なもの、商業的なものから、自然物である子どもたちを守る責任があるのではないだろうか。

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