彼女は左回りの夢を見る She is in Counterclockwise
「君、死ぬの?」
背後から声がして振り向く。モデルのような長身ですらりと長い脚が、一歩ずつこちらに向かってくる。低く少し籠ったような声が、不思議とよく聞こえた。
「来ないで」
飛び降り自殺をしようする人間がよく言うセリフを、まさか自分が同じ状況で言うことになるとは思わなかった。そう、私はビルの屋上のフェンスの外側にいるのだ。
「君は本気じゃないだろう。ちょっと魔が差しただけだ」
風下にいるはずの男の声が、空気の流れに逆らって耳まで届く。いや、この声は空気を伝わる振動なのだろうか。この男は、普通ではない。本能が警戒しろと叫んでいる。昔から感覚は鋭い人間だ。鋭過ぎたと言ってもいい。
「見ず知らずの不審者に、なんでそんなことがわかるの?」
落ち着け。感情は悟られないタイプだ。声も震えてない。大丈夫だ。
「君は死を怖がっている」
「死ぬことなんて怖くない」
「嘘だね。僕を怖がっているじゃないか」
「おかしなことを言いますね。不審者を怖がることと、死を怖がることは繋がらない」
「繋がるんだよ」
そう言ってニヤッと笑う。いつの間にか自分のすぐ傍まで来ていた。全身真っ黒の服に身を包んだ男が、フェンスに寄りかかっている。距離は二メートル。フェンスの内側と外側で、お互いフェンスに対して垂直に立って向かい合っている。
「なぜ?」
「僕が死だから」
一瞬息が詰まる。
すると男は、ゆっくりと、そして優雅な動きでふわっと浮かび上がり、フェンスを飛び越えてきた。あまりに人間離れした動きに、言葉が出ない。
男はこちらの目を見て、ニコッと笑って言った。
「自己紹介が遅くなったね。僕は死神だよ」
予想外の一言に、思わず笑ってしまう。人間は怖くても笑えるのだ。防衛本能だろう。
「なんで笑うの。死神が自己紹介してるのに笑うなんて、君失礼だよ」
「あ、ごめんなさい」
何を私は素直に謝っているのだ。でも、この状況はちょっとスペシャル過ぎて何をどうしたらいいかわからない。
「気にしなくていい。僕は怖くもないし、短気でもない」
死神だと自称する不審者にそんなことを言われても、気休めにもならない。
「それに、笑われるのには慣れてる」
そう言ってその場にしゃがみ込んで、目の前の夕日に目を細める。
「誰に笑われるんですか?」
自分を落ち着かすために、平静を装って尋ねる。平静は、装うことで冷静になる。
「他の死神」
「他にも死神がいるんですか?」
「そりゃいるに決まってる。僕一人で七十億人を捌くなんて無理だよ。意外に思うかもしれないけど、死神業界はブラックじゃないんだ。僕みたいな不真面目な死神にも寛容だし」
「それは、羨ましいですね。あなたは不真面目なんですか?」
「そうだねぇ。僕が真面目で善良な死神なら、君はもう飛び降りて死んでる」
背筋がぞわっとする。フェンスを掴む手に自然と力が入る。手汗が滴り落ちそうだ。
そこで、自称死神の男は整った顔をこちらに向けて笑う。
「ジョークだよ。怖がらないで」
「死神に言われてもジョークだとは思えません」
「あぁ、それは人間の誤解だ。死神は死を司る神だから、当然人間の生き死にをコントロールする。でもね、日本は自殺が多すぎて死神業界は困ってるんだよ。自殺は死神のコントロール外の行動なんだ。勝手に自分の意志で死なれたら困る。だから死神は自殺を止める側だ」
「それがジョークですよね」
少し笑ってしまう。そんな死神は聞いたことがない。もちろん出会ったこともない。
「いや、ほんとに。まぁ、君がどう思おうが自由だけどね」
自称死神の男は再び夕日に目を向ける。横顔が、美しかった。
「それで私の自殺も止めに来たんですか?」
「そうだよ」
死神に自殺を止められるなんて、神様はいったい何をしているのだ。
「僕は自殺防止部門所属だからね。もちろん、君みたいにこちらを認識できる存在はとても珍しいから、楽しく会話をしているけど、普段はこんな止め方しない」
「所属があるんですね」
少し可笑しくなってきた。鼓動も落ち着いている。
「あるよ。死神だって好き勝手できるわけじゃない」
「他にはどんな所属があるんですか?」
「それはね、聞かないほうがいい」
一瞬でいろんなおぞましい想像をしてしまう。何せ死神だ。
「そう、ですね。やめておきます。聞いて気持ちいい話じゃなさそうですもんね」
「あ、別に怖い内容じゃないよ。でも死神業界の内情は原則トップシークレットだ。聞かないほうがいいと言ったのは、君のためじゃなくて僕のため。人間と話せるのが楽しくて、しつこく聞かれるとついつい喋っちゃいそうなんだよ。僕は口が軽い」
「じゃあ、普段はどんな止め方をするのかもだめですか?」
「だめだめ、それも企業秘密だ。まぁ、君もちょっと座りなよ」
そう言われて、素直に従い腰を下ろす。そこで夕日の美しさに気づく。不思議だ。
いろんな感覚が麻痺して、普通に死神らしき男と喋ってしまっている。少し前から気づいていたが、自分もこの会話を楽しんでいる。少なくとも、今自分の周囲にいる人たちとの会話より楽しんでいる。死神との会話を。自分が、この男が死神だと信じているかどうかもわからない。そんなのは些細なことだとさえ思えている。
「ところで、なんで死のうとしてるの?」
「あなたの言う通り、少し魔が差したんだと思います。でも、夢も希望もなくて、後悔ばかり。もう疲れちゃって」
「人間はおかしなことを言うよね。夢はないけど、後悔は山ほどある。誰もこの矛盾に気づかない」
「え? 何も矛盾しませんよね?」
「君には、夢がある。それに気づいてない。いいかい、後悔は反時計回りの夢なんだよ。意識を過去に戻して、あのときこうしておけばよかった、あのときあんなことをしなければよかったと夢を見てる。決して叶わない夢。いや、反時計回りの夢は、半分だけ叶えることができるかもしれない。『あのとき』は無理でも、『こうしておけばよかった』ことは、今からでもできるかもしれない。『あんなことしなければよかった』ことを今後しないことはできるかもしれない。後悔は夢の欠片なんだ。小さいかもしれないけど、拾い集めて、また使えばいい」
いつの間にか聞き入っていた。さっきまで冗談みたいな話ばかりしていたくせに。
涙が溢れて、夕日がぼやける。
後悔の数が多ければ多いほど、繋ぎ合わせたら、形を変えて大きな夢になるのだろうか。いや、大きくなくてもいい。小さな夢を大切にすればいいのかもしれない。
「夢について語るなんて、変な死神」
涙を拭いながら、少し笑って呟く。
「死神が夢を語ったらおかしいかい?」
二人で夕日が沈むのを見ていた。
周囲が次第に闇に包まれていく。
はっと思い勢いよく横を向いた。
暗闇に紛れて、いつの間にか死神が消えてしまっているのではないかと思ったのだ。
「あ、まだいるよ。消えたと思った?」
声が笑っている。自分の内面が見透かされたようで恥ずかしくなる。
「でも、そろそろ時間だね」
死神がスッと立ち上がりながら呟く。その動きは一切の無駄がなく、滑らかだ。
「僕の仕事は終わった。もう君は大丈夫だ」
「はい」
死神を見上げる。
「また、会えますか?」
「君はおかしなことを言うね。死神にまた会いたいなんて」
「会えますか?」
「どうだろうね。次に会うときは、自殺防止部門所属じゃなくなっているだろうから気を付けて。死神にも部署異動があるんだ」
「優しいですね」
「ん? なんのこと?」
少し口角を上げてニヤッと笑う。とぼけているのだろう。
「最後に、ひとつ気になっていたことを聞いていいですか?」
「なに?」
「死神業界の内情はトップシークレットって言ってましたけど、すでにけっこうペラペラ喋ってますよね。大丈夫ですか?」
「安心して。それで君に危害が及ぶことはない。喋らなければね」
「あ、そういう意味じゃなくて。あなたが大丈夫ですかという意味です」
そう言いながら、死神から視線を外し、立ち上がろうと地面に手を付く。
「確かに喋り過ぎた。ほんと、後悔している」
死神が少し笑いながら言う。
思わず吹き出してしまう。
笑いながら立ち上がり、お尻を払う。
横を向くと、そこにもう死神の姿はなかった。
辺りを見回す。
暗闇。
目を凝らすと全身真っ黒の姿が見えそうな気がした。
暗闇。
本当に死神だったのか。
死神が座っていた地面にふと目を落とす。
そこに落ちている気がしたのだ。
死神の夢の欠片が。
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