教師のバトンを誰の手に? ~不平不満からしか生まれない希望~

 昨年ツイッターで話題になった「#教師のバトン」というプロジェクト。現役の教師から、未来の教師に向けて教師の魅力を伝えてほしいとして、教員不足に悩む文科省が始めた「リレー」だ。当然のように、大炎上。教師のバトンは火炎瓶となり、文科省に投げ込まれた。当たり前だ。僕が最初に思ったのは、こうなることを読めなかった文科省の現状把握能力は、ここまで皆無だったのかということだった。文科省は、教育先進国と言われるフィンランドの現場でも見ているのではないかと疑ったほどだ。

 さて、この「#教師のバトン」の大炎上。肯定的に見るか、否定的に見るか。僕は迷わず肯定だ。日本の教育現場がこのままでいいと思っている人は、おそらくほとんどいないだろう。それでも、日本では、こういうことが噴出したとき、「現状の制度に不平不満を言ったり批判したりするだけでは何も変わらない」「不平不満や批判ばかり言わずに、自分にできることを黙ってやろう」という一見前向きに聞こえる声が大きくなる。これは、かなり危険な兆候だと思う。現状の制度に不平不満を言わず、批判もせずに個々人がそれぞれ黙って頑張るだけでは何も変わらない。そんなことはないという人もいるかもしれない。確かに自分の周囲には何か多少プラスの変化はあるかもしれない。でも「制度」は決して変わらない。変える方法は唯一つ。不平不満を言いながら、しっかり批判しながら、行動することだ。毒を全部出して、見たくないものに目を向けて、耳を塞ぎたくなるような声に耳を傾けてからでないと、何も変わらないのだ。

 楽しそうに働いてない先生を見て、子どもは先生になりたいなんて思わない。その通りだと思う。しかし、それと同じように、現状の制度に不平不満をぶつけて行動して、自分たちの手で世界は良い方向に変えられることを示さない先生を見て、子どもは自分たちの手で世界を良い方向に変えてやろうなんて思わない。思わないどころか、変えられることを知らず、ただ現状の体制に服従するのみだろう。「どうせ変わらない」と。どこかで聞いたことがないだろうか。「選挙なんか行ってもどうせ何も変わらない」と同じだ。楽しそうに働く姿を見せることも大事だと思う。同じように、世界を変えるために闘う姿勢を見せることも大事なのだ。そして、不平不満を言うことと、楽しむことは、決して相反するものではない。同時に存在し得うる。子どもは、先生を見ている。子どもは、この「リレー」の観客なのだ。明らかに異常な日本の教育現場。そのおかしなバトンを、こんなものを次世代に渡せるかと、火炎瓶にして文科省に投げ込んだ先生たちを、僕は立派だと思う。

 北欧のとある国にある「女性の日」というものがある。1975年10月24日の出来事なので、約45年前だ。この日、この国の女性たちは、男女の給与格差や性別による役割分担にNOを唱えるストライキを起こしたのだ。多くの女性が、家事や育児などの無償ケア労働も含めて一切の仕事をせず、街へと出た。当然ながらSNSなんて存在していないし、そもそも携帯電話も一般に普及していない時代なので、その連帯たるや並大抵のものではない。彼女たちは、不平不満をぶちまけ、行動し、世界を変える一歩を踏み出したのだ。そして、その国は、34年後の2009年にジェンダーギャップ指数ランキングでトップに立つ。そしてそこから現在に至るまで12年連続トップだ。そのスコアも、0.8台に乗せている国がたった9か国の中、0.9に迫る勢いだ。(スコアの最大は1.0)これは、北欧の島国アイスランドでの出来事。もちろん、ジェンダーギャップ指数が、どれほど実情を捉えているかは、多少の疑問もある。しかし、それでもこの結果は素晴らしいもので、その始点は「不平不満」なのだ。ちなみに2021年の日本は0.656で156か国中120位。

 アイスランドのジェンダーギャップ指数は、決して特異的な例外ではなく、歴史の王道だ。今、僕たちが生きる世界を構成するあらゆるポジティブな制度は、名もない先人たちの「不平不満」の結果なのだ。そこからしか、変革は何も生まれない。10年後、20年後、50年後の先生たちの人権が守られているか、笑顔が守られているか。それは、今の先生たちの不平不満、そして行動、それに追従する社会の流れにかかっているのだと感じている。もちろん、これは是非ストライキをしろという話ではない。どうか「#教師のバトン」が始点となり、新たなバトンが次世代に渡されることを切に願うばかりだ。

 天高く聳える理想が希望になるのではなく、雑踏に踏まれて汚れてくしゃくしゃになった、地べたに落ちているひとつひとつの不平や不満が、未来への希望になるのだと強く思う。

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