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---にちようびのアトリエ---日常にもどりはじめるまえに、ちょっと考えてみたいこと②


 昨年11月から半年ほどかけて、「にちようびのアトリエ」を数回開催した。場所を貸してくれる友人に恵まれ、実際にアトリエを開催することもできたし、先月はコロナのこともあり、zoomでのアトリエもやってみることができた。ただ、場所、やり方、人数…と選択肢が増えた今、わたしはすこし迷っている。
 今まで、ほんとうに偶然に人との出会いと流れがあったからできたこと。今度はその次。自分の足で動きだすのに、ちょっと立ち止まって、考えてみたかった。

 場所について。
 だれかとなにかをともにする時間について。

  今まで、わたしにとっての場所というのは、実際にそこに<ある>場所だった。長年勤めた造形教室もそうだったし、にちようびのアトリエも。わたしがそこへ出向いて、場をつくる。

 この数ヶ月、怖さをぐうっと抱えて部屋にいた。外に出なければ安心だったから。すこしずつ日常が戻りはじめても、外出することへの怖さは自分のなかにしっかりと根を張っていた。
 だから今、出かけた先や、出会う人とのあいだに、つとめて安心をみつけようとしている自分がいる。そうすれば、その場所も自分の部屋とつづいてるような気がしたからだ。んん?ちょっと待って。ってことは、もしかしたら、わたしにとっては安心が先にあって、その安心が自分にとっての場所をつくっているんじゃないか。

  先月のzoomアトリエのあとに感じたのは、実際の場でなくても、べつの場をつくることはできるんだな、ということ。そして、そのべつの場所をつくっているのは、わたしが主体ではないということ。それをつくっていくには、大切なものはしっかりこの手で知っておかないといけない。さて、<場所>は、現実的にないといけないわけではなくなった。そしたら、その場所は、これからどこにどうやってつくっていけばいいんだろう?

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 こどもたちのアトリエについて考えたとき、10年前に訪れたクレーの美術館でみた風景が真っ先に浮かんだ。そのときの写真を見返していたら、スイスへの旅で訪れたいくつかの場所が、自分にとって「心地よい場所」をめぐる旅だったんだなと気づいた。あのとき感じた「心地よさ」を、10年ぶりにゆっくりほどいてみたい。旅の記憶と、今思う「安心」を行ったり来たりしながら。
 まだ「これ」とは言い切れないから、「これは違うんだよね」という言い方でしかできないでいる。でもいつだって、どこにたどり着くかわからないまま、「これじゃない」「こっちも違う」って歩いてきたんだ。こどもがさいしょに放つ声だってそう。まだことばをもつ前のこどもは、「イヤイヤ」って否定することから。そこからしか、その子の声は生まれてこない。



 スイスの旅で訪れたもうひとつの場所。
 レマン湖のほとりにある、ル・コルビジュエの「ちいさな家」。

 この頃は、休みになればヨーロッパへ出かけて建築をめぐっていた。コルビジュエといえば…のサヴォア邸も、ロンシャンの教会にも行ったけれど、それは今から思えば「教科書に載ってる」旅だったと思う。雑誌や建築案内を片手に名だたる場所を行きつくしてようやく、わたしはそこからはずれた場所を自ら選んで行くようになった。(と言ったって十分有名なところだけれど。) 

 「ちいさな家 —Villa Le lac」はスイスのローザンヌにほど近いヴヴェイという街の湖のほとりにある。向かう電車の右側の車窓には湖が広がり、左側にはブドウ畑の斜面が広がる、そんなのどかさ。
 行ってみたいな、と思ったきっかけは、コルビジュエが両親のためにつくった家だったということ。そしてなによりも、名前が<ちいさな>家だったということ。その数年前に訪れたロンシャンの教会はたしかに素晴らしかったけれど、そういった<おおきな>場所とはちがうものへのまなざしが、すこしずつ自分のなかで育っていた。パブリックというよりはプライベート、装飾というよりは生活、直線というよりは曲線。そんなほうに惹かれはじめた頃だった。 

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 「ちいさな家」は、湖の岸辺に沿ってつくられた細ながーい家だった。そしてほんとうに、ほんとうにちいさかった。湖にむかう壁一面に窓が並んでいる。まぶしくて、目を細める。ここに住めば、湖とともに起き、過ごし、眠る、それだけで事足りる。ほかは、きっといらなくなる。
 あちこちに椅子があり、テーブルがぽつんとあった。ひとつひとつに座って、その場所から湖をながめる。壁の淡い水色。さっきとちがう場所にある陽のかたむきと雲の位置に目をむける。朝の陽で目が覚め、水面に陽が映る昼を過ごし、しずかに眠る夜を想ってみる。ひかりにゆらぐ湖の水と部屋がゆるやかにつづいていた。 

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 庭に出ると、湖は目の前。
 一歩踏みはずしたら、ちゃぽん、だな。
 湖を切りとった窓。
 この場所からも、窓のむこうの湖をながめた。

 見学していたひとはたくさんいた。それぞれが湖のほうにまなざしをむけて、ぼんやりと座ったり立ち止まったり歩いたり、していた。それぞれがひとりでいられる。この場所がひとをそうさせてくれる。あるのは、しずけさ。

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 ここが、大切な家族のためにつくられた場所であること。
 日々に必要なものがある場所。
 そこにはひかりのうつくしさや湖のゆらぎもふくまれていること。

 たったひとときでも足をふみいれれば、そこでくらしている気になってしまう。場の親しさ。温もり。くらすひとの息。真冬の部屋をつつむストーブのようなあたたかさが、今も余韻としてこの場所にあって、心地よさをつくっていた。 

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 旅の記憶をたどっていると、10年も20年も前に必死になってなにかを追いかけていたわたしが、こうして今のわたしの背中をせっせと押してくれているのに気づく。だから今度は、あのときかたちにならなかった思いをときほぐして、ことばに色をつけて贈ってあげる。「イヤイヤ」とか「そうじゃない」しか言えなかった自分へ。遠い、対話。

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