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あの日は今より10kg重かった

3月11日は日本中が偲ぶ気持ちや、防災意識を改めて持つべくあの日の不安や恐怖を思い出さざるを得ない日となりました。

もう12年前になるのですね。

こんな日に不謹慎かもしれませんが、あまり暗い話題ばかりでもと思ったので、今回は私があの日に体験した気の抜けた出来事をお話ししようと思います。

箸休めにこっそりお付き合い下さい。

私は当時、大学卒業を控える肉盛りの女子大生(神奈川県在住/リーマンショックの波に呑まれて無職ほぼ確定)でした。

あの日は自室でチャップリンの映画を観ていました。

私の他に家にいたはFF(ゲーム『ファイナル・ファンタジー』の略称)にエターナル・フォーエバー熱中している弟(男子高校生/陸上部で焼けた肌がコナンの犯人くらい黒かった)でした。

父は仕事で東京に、母は入院した祖父や足腰の悪い祖母のお手伝いをしに福岡へ帰省中という子ども2人の状態でその瞬間がやってきました。

よくある横揺れの地震が長めに続き、そのあとにドン!という縦揺れの衝撃がきて、そのあとすぐに大きめの揺れが縦横に続きました。

大きめの揺れが続くまで、私は普通にチャップリンの映画を観ていました。その集中力をなぜ就職活動に活かせなかったのでしょう。

あまりに長く大きめの揺れが続くので「これはチャップリンどころじゃねえ!」と思い、居間で長いことFFに勤しむ弟の様子を見に行きました。

そこには、あり得ない勢いで揺れるダイニングの照明、耐震ポールに支えられながらも揺れる台所の棚、フラワーロックのように揺れるテレビ。

そして、テレビの前で固まる弟。

私はひとまず揺れるテレビを抑えながら、弟に「大丈夫!?」と声を掛けました。すると弟はこう言ったのです。

「俺の2時間分のFFがあああああああああああああああああああああああああ!!!!!!」

自室のノートパソコンでチャップリンの映画を観ていた私は、このとき初めて家が停電していることに気がつきました。

そして、弟がこまめなデータセーブを一切せずにFFを進めていたことも。

彼はこの2時間を相当調子よく進めていたのでしょう。ちょっと壊れてベランダに向かって「おぉぉぉう…!もっと揺れろよぉぉぉぉ…!」と言っていました。

弟はあれ以来、こまめなデータセーブをするようになり、社会人になった今でもこまめなデータ保存をするようになったとかならなかったとか。

地震と弟が落ち着いたあと、福岡に帰省中の母から電話がかかってきて、そこで私達はこの地震が大規模な東日本大震災であることを知りました。

そして、家の外を確認しに行ったときに同じマンションの方々から停電はこの地域一帯で起こっていることも教えてもらいました。

ひと通りの情報収集ができた頃、父から「交通機関がダメになってしまったから会社で一泊する」との連絡が入ったので、この日は私と弟の2人で過ごすことになりました。

携帯の充電器を求めて真っ暗な街を歩いてみたり、出掛ける前に作っていた伸び伸びのカップ麺をモッサモッサと食べたり、手持ちカード20枚から始めるUNOで遊んでみたり。

部活漬けなうえ、お年頃でツンツンしていた弟とこんなに時間を一緒にするのは久しぶりだったような気がします。

停電が復旧したのは20時頃。

日中にフラワーロックのように揺れていたテレビをつけて、私は初めて今回の地震がどれほどのものだったかをこの目で知ることができました。

震源地は福島、福島であの揺れ、そしてこの規模。

日本は地震大国だと何となく聞いてはいましたが、そのことをしっかり認識したうえで暮らしていかなければいけないなと強く思った1日となりました。

私はあの日以来、今日が来るたびに当時テレビで流れていた心無い現地リポートを思い出したり、今日を振り返るための特集を見て悲しみに打ちひしがれそうになったりします。

そんなときは不謹慎ながら、母が「なんか地震すごいみたいだけど大丈夫~?」とイタリアンかメキシカンくらい陽気に電話をかけてきた声と、弟がちょっぴり壊れたあの瞬間、停電中に弟と頭のおかしいルールでエンジョイしたUNOのことを思い出すようにしています。

今年もまたこの過程を経て偲ぶ気持ちを胸に、防災意識の再確認と携帯の充電やデータセーブはこまめに行うことを心に誓い、明日からも生きていこうと思いました。


サポートいただくと明日がちょっと愉快になるとかならないとか。