【短編小説】8時5分の恋
毎朝8時5分。
前から来る自転車は、歩道を歩く僕の傍をすり抜けていく。
僕はさりげなく目をやり、僅かに振り返るだけ。目が合ったことは一度もない。
ショートヘアにパンツスーツ。黒いミニベロ、朝は北に、夕方は南に向かって走る。
僕が、彼女について知っていることは、たったそれだけ。
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1週間の仕事疲れで瞼の奥がキリキリ痛む金曜日の朝。
青信号を急ぎ足で渡り終えた僕が、ふと顔を上げると、そこには赤信号に引っかかった彼女がいた。
高鳴る鼓動を抑えて、僕は半歩だけ近づく。
「今日もいい天気ですね」
初めて向かい合えた嬉しさから、自然と言葉が出る。チャンスの神様の前髪は逃してはならない。
彼女が戸惑う前にすぐに言葉を続ける。
「・・・毎日すれ違いますよね?」
「え?そうでしたっけ?」
「ほら、パン屋さんの前あたりで」
「あの時間っていっぱい人がいるから」
「そうですよねぇ・・・」
キョトンとした顔も可愛い。
期待した答えではなかったが、それほど警戒はされていないと思う。
初めて声を聴けた嬉しさに勇気を出して言葉を続けた。
「・・・ところで、突然ですけどバイクって好きですか?」
「ん?バイクですか?」
「ええ、バイクです」
この唐突な質問に、彼女は少し戸惑ったようだが、初めて僕に対し、或いは僕の質問に対し興味を持ったように思えた。
「・・・どうして・・・ですか?」
「あの・・・なんて言うか・・・すれ違うときにそう感じたんです、きっとバイクが好きな人だろうって」
彼女は小さな顔を少し右に傾け、横を通り抜けたホンダのバイクを目で追いながら言った。
「えー、なんでわかったんだろ?」
「やっぱり!」
横断歩道の信号は赤から青に、そして再び赤に変わる。
「学生の頃からずっと興味はあったけど、乗り始めたのは3、4年前くらいかな・・・でも不思議。どうして分かるの?」
「バイク乗りの周りにはバイク乗りにしか分からない風を感じるんです。なんとなくですが・・・」
「すごーい、職場でも気付かれてないのに!」
彼女は僕に笑顔を向ける。なんて可愛いんだろう。
--バイクしか趣味のない僕は、いつかやってくるであろう、そうまさに、この時のために、彼女とのこの会話を何十回もシミュレーションしてきたのだ。
そして今それが現実となり、シミュレーション通りに会話が進んでいる。
これまでずっとすれ違うだけだったのに。目を合わせたこともなかったのに。
何より目の前にいる彼女はバイク乗りだった。風が教えてくれた通りだ。
僕のシミュレーションにはまだ続きがある。
「せっかくお話しできたから、明日の土曜日、一緒にツーリング行きませんか?」
「え、いいんですか?・・・でも足手纏いになるだけかも」
「全然大丈夫ですよ」
「よかったー!じゃあ是非お願いします」
「待ち合わせは、そこの公園の角にある噴水の前で。朝10時にしましょう」
ちょうど信号が青に変わる。
僕は少し大き目の声で言った。
「行きたい場所があれば、明日までに考えておいてくださいねー!」
よし、シミュレーション通りに言えた。行き先もルートもこの日のためにたくさん用意してある。
「ではまた明日!」
「はーい!それでは!旦那の後ろに乗って行きますねっ!」
・・・
僅かに目を逸らしてしまったから自信は無いけど、今日一番の笑顔だったような気がする。
彼女はミニベロのサドルから軽く腰を浮かせ、歩道の段差を乗り越えて北に向かって走り去って行った。
そしていつの間にか瞼の奥の痛みは消えていたけど、僕は目頭を押さえながら南に向かって足を進めた。