「失態」を書いた動機

「失態」https://note.com/7mi7nana/n/n94e79222d0f6

 「失態」を書いた理由?

 楽しそうだったから。以上。




 いや、待ってくれ、冗談だ。だからブラウザバックするのをやめてくれ。
 「失態」を書いた理由はそんな単純な理由ではない。作者のエゴをごった煮にした作品であるから、楽しそうだなんて一言で表せる動機じゃ決してないんだ。
 「失態」を書いた理由というのは、それでも一言で無理やり表すことはできて、それは表現したいものがあったから、というとても陳腐なものだ。重要なのは、私が表現したかったもの。これについて今回は作者の特権、エゴ暴露を行っていく。
 「失態」のあらすじは、ある人間が友人である桐葉カエという女性の借りているアパートだかマンションだかの一室を訪れるところから始まる。そこには桐葉カエ以外に、見知らぬ人間の、脳漿が弾け飛んだ死体が在った。その状況に対して、桐葉カエは弁解、状況説明をする、というもの。
 さて、私がこの作品で表現したかったことは、一人語りの引用文学。本作はおおよそが桐葉カエという登場人物の一人語りで進行する。この特徴は太宰治の「駈込み訴え」や、ベルンハルトの「昏乱」の”侯爵”の段などにみられるものである。この一人語りの語り方というのは、かなり有用な効果を持っている。その効果というのは、語る人物の主観”だけ”の投射である。当然のことながら、一人語りする、ということはその語る人物の知る情報しか語られない。あるいは、彼の視点での世界が語られる。したがって、そこには語る人物の世界観しか表現されない。例えば、単純に一人称視点の、地の文が主体な小説はどうだろう。これは割と語り手以外の世界観が混入する場合が多い。それは語り手以外の人物の発言が語られることによったり、もしくは、語り手が”説明”を筆者に余儀なくされ、比較的その小説世界での常識を語ることを要求されたりするからだと思う。これに対して、一人語りの引用でなされる文学はこの両方のことを無視して行うことができる。だからこそ、詠み手に与えられる情報は、語り手の独りよがりな主観だけにすることができる。この興味深い特性を表現したいために、語りをいわゆる「話の通じるようでずれた感性を持ち、なにより諸般に狂人と分類される人物」にやらせた。こうした常識とかけ離れた世界観を持つ人物のその狂気性を初めは隠しておき、あとで登場させていくことをしたいのであれば、こうした一人語りの、引用文学は有効な表現方法だと思う。ぜひぜひこうした文学が増えればうれしい。
 

 私がかの作品を書いたのはエゴであって、それ以外のことは籠もっていないのかもしれない。これは失敗であって、あるいは失態と表現すべきかもしれないが、それでいい。桐葉カエは、結局失敗から二つの失敗原因を学び、反省した。だから私もこの失敗からなにか学ばなくてはいけない。それでいい。

 失敗したなら何かを学べばよい。次に生かせばいい。それだけの話であって、「失態」というエゴ小説もつまるところ、それだけの話である。


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