「失態」

「いや待ってくれ。ちょっと待ってくれよ。そんな変な顔で見つめないでほしいな。いやはや、そうだね。うん、え、あぁ、そうだ、明らかにこれは失敗現場だもんね。失敗してしまった人に対して呆れてしまうのは別に変なことではないか。うん、あはは……。あの、何か言ってほしいな、もしもーし? えっと君は僕の知り合いで、なんなら友人という立場にいる人だと思ってたけど、もしかして友情を感じていたのは僕だけなのかな。え、ほんとに、僕と君はただの顔見知りだったってことなのかい。おい、おいおいおいおい、それは困るぜブラザー。先週だって一緒に遊びに行った仲じゃないか! えっと、あー、そう! 近くにできたドーナツ屋さん! いやぁあそこのドーナツはおいしかったねぇ、ね? あの、えっと、う、弱ったな。睨まないでおくれよ、なあ。うぅむ、そんなにこの失敗が気になるのかい? いや、うん。はいはい。二度とこんな失敗しないようにしますよ。いいじゃないか、一回くらいの失敗で僕たちの友情が! 崩れるはずないだろう? あぁ、それとも僕の足元に寝っ転がってるこの人が、誰なのかが気になるのかい。あぁそりゃそうか、そりゃあ訝しむよな。うんうん、ごめんごめん。そうだよな、何の用かはちょおっと分からないけれどもお、うん、僕の部屋に? 家に? 来てみたら君の見知らぬ人が部屋に居たんだもんねぇ。しかもその人は何故なのか分からないけれども、横たわっていて動かない! あぁ失敬失敬、親しき中にも礼儀ありって偉い人が言ったらしいし、うん、確かに何の説明もしないのは良くないよね。あぁ、僕はかくも気付けない人だよ。失敗続きの人生だ。う、うん。えっとね、そうだ、説明ね、説明だ、そうそう、説明説明。この状況の説明でしょ。えっと、まず、断っておきたいのは、僕もなぜこんな状況になったのかよく分かってないのよ、へぇ。だから曖昧な、感覚与件的な言い方になろうし、或いは、説明不足になるかもしれない。でも、落ち着いてほしい。そんな大変なことじゃないんだぜ。うん、そう、最初に説明すべきはこの人はどんな人かということだね。この人は僕の恋人だよ。かっこいい人だろう? 顔も黄金比に近いし、あっ、君のところからは見えないかな、この綺麗な顔が! こっちに来てみてくれよ、来て、見てくれよ! え、嫌だって? そうか、うん、もはやこの顔も、こっちに来たところで見ることができないもんね。そもそものところを間違えてしまった。失礼。で、それでえ、このかっこいい素敵な男性は僕の恋人なのだけど、付き合い始めたのは去年のことだったかな。うん、去年だ。いやいや、なにも僕は惚気話をするつもりはないよ、うん、毛頭そんなつもりはない、だけどしょうがないだろう、この人が誰か――延いては、僕のこの失敗を説明するにはこうした話をしなくっちゃいけない。そう、この人は僕の幼馴染でね。君と出会った時、だから僕と君が大学の同級生になったときには、およそ親交は無かったのだけれど、去年再会したんだ。幼馴染と言っても小学校とかそのくらいの年齢の時の話であって、中学高校と、それからは学校も違ったし、疎遠になるのは当然の話だよね。でも、幼い時もとても仲は良かったから、きっと、仲が良かったと思うんだけど、たぶん、傍から見たら僕とこの人は仲が良いという感じだったと思うんだけれども、いや、だからこそ僕の心の奥にはこの人のことが魚の骨のように残っていたんだよ。でも、去年の夏、僕とこの人は再開したんだよ。えへ、あの時は驚いたなぁ。うん。偶然だよ、示し合わせなんかしていないのに、それでも街の中、この街の中で声をかけてもらったんだ。よくもまぁ僕だと分かったものだ、うれしかったね。それだけでうれしかったよ。最初は、質の悪いナンパだと思ったんだ、よくこの時代にナンパなんかするものだなと思って不機嫌にもなったよ。でも、そう! 彼の名前を聞いたとき! 僕の胸の奥につっかえていた魚の骨はとれたんだ。なんて運命! それからはあっという間だったね、その夏の内に何回も出かけて旧交を暖めて――そうして難もなく僕らは恋人関係になった。僕ら、いや君もそうだけど、二十代も半ばだぜ? ちょっと恋ってやつを夢見ても良かっただろう? そういうこと。付き合ってからも問題は起きなかったよ。変わらない。僕も、この人も、幼いころの純真さと、少しひずんだ性格のままで、関係は良好だった。うん、きっと、良好ってやつだった」
 絶え間なく言葉を紡いでいた桐葉カエはそこで言葉を詰まらせた。彼女は足元に寝ている彼に視線を移して、黙った。数秒間の沈黙が、私と彼女との間に生まれる。この部屋は静寂に沈んだ。部屋はカーテンも閉まっていて、明かりもついていない。しかし、昼間ということもあり、カーテンの隙間から差し込むわずかな陽の光でほの明るい。窓も開いていないようで、カーテンがはためくこともない。ほの明るい。ほの暗い。数秒の沈黙。沈黙。沈黙を破ったのは私ではなかった。訊きたいことは山積しているが、それでも惚気られた後とは思えないくらい重い空気に上唇は動かせなかった。カエも、口を開かない。静寂を破ったのは、彼女の部屋の冷蔵庫。ブウウンという音だけが部屋に。
「あぁ、冷蔵庫か」
 彼女はそこで、意識がその肉体に舞い戻ったかのように言葉を漏らす。そして、言葉を続けた。
「えへへ、感傷に浸っていても仕方がないね。話を続けようか。えっと、確かこの人が誰なのかは話したんだったよね、そう、僕の恋人。かっこいい、僕の恋人。優しい僕の恋人。次に話すべきは、そうだな、失敗について。この失敗について話せばいいのか。そうすればきっと君の作った顔も、いつもの静かな顔に戻るだろう。まずは、うん。動機ってやつか。動機ってやつを話そう。僕がどうしてこの行為に至り、かくも失敗を喫したのか! 動機はきっと君も理解できるよ! だって君もそうだろう、君もきっとそう思うだろう、そういういわば、なんというかあ、あのう、そう! 普遍的な、或いは人間的な感情ってやつが動機だからね! そう、根底はそういうところ、いわば? すなわち? えぇっと、相手を、その、り、理解したいなぁって、いう、き、気持ちだよ。えへへ、なんだか照れ臭いな、声に出すのが恥ずかしいな、もう。でも、そういう気持ち。だって僕はこの人を心から、そうきっと心から愛していたんだ、ううん、愛しているんだ、これは今も変わらないし、これからも変わらない。失敗はしちゃったけど、僕はこの人が好き。この人も、きっと今も僕のことを愛してくれてるんじゃないかな? 結局確かめられなかったし、もはや確かめられないけど。でも僕が試したかったのは、この人が僕を愛してくれてるかっていうことだけじゃない。好きな色、好きな食べ物、好きなスポーツ、好きな画家、好きな音楽。僕の好きなところ、好きな僕の手料理、僕の身体に触れて一番心地良いところ、僕が抱き着いたときに思うこと。僕はこの人の全部が知りたかった。この人のすべてが知りたかった、理解した、かった。理解して、それで、あれ、どうしたかったのかな、僕は。いや、どうしたいとかじゃなくて、僕はこの人の全部を知りたかっただけ。純粋な気持ち。だから僕は確かめようって思ったんだ。見てみようと思ったんだ。見てみたら分かるかなって思ったんだ。うん。この人の心には触れられないけど、あぁ、うんだって心はどうやったってその人だけのものでしょう? 心っていう物体は存在しえない。でも思考なら、思考だったら脳の活動であって、物質的じゃないですかあ。だから、思考だったら、僕たちは観測できる。例えば、脳波ってやつがあるじゃないか。あれって脳の活動を読み取れるんだよね。でもさ、脳波の観察って、あれは機械を通して、あくまで検知されたものを間接的に見ているだけだ。直接脳の動きを知っているわけじゃない、でしょう? ああ、いや、うん、僕は生粋の文系だから、詳しいことは知らないけど、きっとそんな感じだったはず。脳波、というものを僕たちの五感で直接感じているわけじゃない、少なくとも、きっと、そのはず。だから、僕は直接知ろうと思ったんだ、この人の、愛しいこの人の思考を、脳の思考を。見てみれば、触れてみれば、嗅いで見れば、舐めてみれば、聴いてみれば、きっと機械で測るよりずっと深く正確にこの人が考えていることが分かると思ったの。で、失敗したってわけ。もっと丁寧に割るべきだったよね。手持ちの、というか手っ取り早い、というか、或いは典型的な、王道の道具であるとはいえ、金槌を使うべきじゃなかったなぁ。思ったよりも、人の質料ってもろいんだね。もう少し硬いものかと思ってたのに、だから力を籠めすぎちゃったのかな、失敗原因はたぶん、道具と力加減だね、これからは、まぁ、次は無いかもしれないけど、もし、次があったときには、その辺を改善します。うむ、うむむむ、もう一度振り返ってみると、その二点だよなぁ、失敗した原因は。だって観察対象が、僕の足元を見てくれれば分かると思うけど――飛び散ってしまった。これじゃあ脳は機能しない。飛び散ったら、そりゃ、もう駄目だよ。有名な彫像だってさ、一部でも壊れて破片が散ったら、もう彫像としての価値は機能しないでしょう? それと一緒。僕の愛するこの人の脳は飛び散ってしまったので、ううん、僕が飛び散らせちゃったので、機能しなくなりました。ブラックボックスです、あぁ何たる悲しさ! 付き合って一年間、この人の言葉からこの人の思いを間接的に知ることができたけれども、ついぞこの人の真意を知ることはできなかったんだ。ふふ、でも用意周到な僕は、この人の証は残したんだよ。失敗を前提に行動するのは良くないけど、僕の愛はこの人の容姿だけに向けられている訳じゃないけど、顔は残したかった。だから、先に剝いでおいたんだ、包丁で。見たいならさっきから音を立てているそこの冷蔵庫の中を見るといいよ。薬剤に漬けてはいるけど、この人の綺麗な皮が在る。うん、僕はこの人を縛り上げて、顔の皮を剝いで、金槌で頭の骨を割って、脳の思考活動を確認しようとして、そうして力加減等々をミスして、このような状況に至ったの。ああ、やっちまったな、って思ったよね。お顔の保存のための準備は周到だったのに、肝心の骨を砕くところで失敗するなんてさ。でも、褒めてほしいのは、そう、いや、褒めてほしいというか、感心してほしい、のは、僕はこの人の顔を別の顔にして、その上頭部を惨憺たるものにしてしまったけど、僕はまだ、この人を愛している! 大好きが止まらないよ。えへへへへ。だから、僕が本当に好きだったのは、僕のこの人への愛の核心は、容姿なんかじゃなかった、やっぱり僕はこの人の内面が好きだったんだよ、僕が、僕の経験と彼の言葉で創り上げた、彼の人格が甚だ愛おしいよ。きっと、僕の知る彼と、本当の彼は一致していたはずなのに、でも確かめたくなっちゃった僕の弱さで、本当のところは闇の中、僕の中の彼と、彼自身とが符合するかどうかは分からないね。脳だけじゃない、彼は、もう動かなくなっちゃった。失敗しちゃったのは、えっと、大体三時間前かな。それから呆然としたり、皮の保存作業をしたり、そうこうしているうちに君がお家に来たから、恋人がいるってことは君には隠していたので、ちょおっと気まずいなぁと思いながら、そう、君を部屋に入れた。そしたらいきなりぼけーっとして、そうして僕を睨みつけるんだから、あははは、弱っちゃったよね。でも、安心して。この人は動かなくなっちゃったけれど、僕の中にこの人は生きている。僕の知るこの人は僕の心で生きている、再現される、死ぬことはないね。あれ。あれれれ、じゃあ、うん、あれ、あーっと、僕の子の足元の“これ”は? 僕の中にあの人が生きているのなら、この足元のこれは一体なんだ? わかんないな、邪魔になったな、なんで僕はこの、ただの形骸に、ふふ、まさに形骸に! あの人の影を見ていたのかな? おかしいな、へへ、そうだ、これはただの物体、気味が悪いな、なんだこれは。本当の彼は僕の中にいる。だからいい。問題ないよね? ところで、僕は顛末を話したわけだけど、君はまだ怒った顔のままだね。えぇっとさぁ。なんで? 少し憐憫も入っているのかな、その目は。理解できないな、僕はこれでも反省しているんだ。さっきも言ったでしょう?次はもっと方法を変えて成功するって。だから、反省はしているよ? それに僕の恋人は僕の中に生きている、僕の心で笑っている、えへへ、だから、何も、君がそんな顔をする必要はないと思うんだけど。おかしいな、さっきも言ったけどさ、僕は君に友情を感じているんだ。付き合いも大学以来! 長いじゃないか。でも、僕は君がそんな顔をする理由がよく分からないよ。通じ合っていたはずなのに。おかしいよ。ああ、そうか、うん、そうだった、あは、気づかないものだ、そうでしょう?」
 冷蔵庫の音が止む。
「君の思考を確かめればいいんだ」

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