『昏乱』における引用の効果

序文

 今回の投稿は私が大学で書いたレポートをもとに一部修正及び加筆した考察文です。したがって、この投稿の、大学の課題レポートなどへの剽窃行為は当然禁じます。万が一、剽窃行為が行われた場合、私は一切の責任を引き受けないことを断ります。

本文

トーマス・ベルンハルトが著した『昏乱』(原題は『Verstörung』)は、他のベルンハルト作品と同様に引用が多用されている。これは作品が一人称視点の語りでありながらも複数の人物の視点や主観で語ることを可能にする効果があると考察する。『昏乱』の語りは「ぼく」という人物の一人称で書かれている。その語りの中で「ぼく」の父やザウラウ侯爵といった人物の発言が引用として語られる。その引用部分は父や侯爵など視点で物事が書かれている。この引用の部分は一人称視点の語りでありながら語り手以外の視点を作品に導入する効果があると考えられる。
なお、以下の『昏乱』からの引用はいずれも参考文献の日本語訳に準拠し、括弧内はその訳本におけるページ番号である。
『昏乱』の語り手である「ぼく」の語りの手法は、「ぼく」の視点で物事を語ることと、「ぼく」以外の人物の発言を引用することの二つに分類できる。
『昏乱』の大まかな内容は、医者の「父」とその息子である「ぼく」が様々な怪我、病気の患者を訪問し話を聞いていくというものであって、特別劇的なイベントは無い。前半部分は宿屋での殺人事件の現場に行ったり、老い先長くないおばあさんのもとへ行くなど、複数の患者が出てきて、それぞれの境遇や思想が、「ぼく」を通して、患者や父の言葉の引用という形で綴られる。後半部分は「侯爵」という段であり、ここでは「ザウラウ侯爵」が自らの思想や経験を延々と語っているのを聞いた「ぼく」がその語りを引用して記述しているという形式である。「侯爵」は一見理性的でありながらも、その実、話を聞けば聞くほど精神に狂気を孕んでいることが明白になってくる。後半部分において、「父」や「ぼく」の発言や考えはほぼ存在していない。このように、語り手がいながらも、「引用」を用いて小説は進行しているのである。
さて、本題である。
「ぼく」の視点で語られるものは、例えば次のような部分である。


『クレーヴの奥方』だ、とぼくは考える、(中略)このひとはどういう人なのだろう、この人の夫はどういう人だったのだろう、と考える。(31ページ)


ここでは語り手である「ぼく」の一人称視点で、彼が状況を描写し、エーベンヘーという人物に対して考察をしている。引用はされておらず一般的な一人称視点の語りである。また、地の文の主語は「ぼく」であり、この点から語り手が「ぼく」であり作品が一人称視点で語られることが分かる。
「ぼく」以外の人物の発言を引用する方法は、例えば次のような部分である。


旅館の亭主というのは、と父は言った、生まれつき粗暴な犯罪者なのだ。(14ページ)


 この部分では、語り手である「ぼく」が彼の父の言葉を引用して語っている。ここでの父の言葉は、彼が旅館の亭主に対して判断を下しているものであり、したがって引用部分に限っては父の主観の下での言葉となっている。すなわち、父の視点で物事が語られているのである。このように、引用の言葉は引用元の人物の主観で語られている。そのため『昏乱』のような語りが一人称視点の作品であっても、その語り手が別の登場人物の言葉を引用することで、複数の視点や主観を作品に導入することができる。
 「ぼく」以外の人物の発言を、「ぼく」が引用する方法おいて、引用部分の言葉がさらに別の人物の言葉を引用する場合も『昏乱』には見受けられる。例えば次の箇所は引用部分が別の語りを引用している。


「(前略)自分が初めて理論的なことを実践しているのだと気づいた、と息子は書いています」と侯爵は言った(157ページ)


 ここでは、語り手である「ぼく」がザウラウ侯爵の言葉を引用しているが、その言葉の中で侯爵は侯爵の息子の書いている言葉を引用している。この部分の語りは侯爵の息子の主観で語られている。すなわち、理論的な実践をしていると気づいたのは侯爵の息子の主観の下で判断され、ここでの語りの視点は「ぼく」ではなく侯爵の息子である。前述の「ぼく」が父の言葉を引用した箇所と同様に、作品の語り手ではない人物の視点が、引用の言葉によって作品に導入されている。前述した父の言葉の引用と異なるのは、語り手である「ぼく」が引用しているのは侯爵であるのにかかわらず、引用部分の言葉は、息子が書いている描写を除いて、直接的な引用元の侯爵ではなく、「ぼく」にとって間接的に引用された言葉の語り手である侯爵の息子の主観で語られている点である。すなわち、語り手が引用した言葉に、引用元の人物だけではなく他の人物の視点も含まれているのである。これにより、「ぼく」にとっての侯爵の息子のような、語り手が直接関係しない人物の視点を一人称視点の語りに導入することが可能になっている。この手法は、「ぼく」の直接関与しない人物を作品に登場させることで、登場人物同士の関係の網を広げると同時に、その人物がどのような思考する人物で、どのような状況に置かれているのかを引用という形で示し、物語に広がりと詳細さを与えていると考えられる。

 以上のように『昏乱』において、語り手である「ぼく」は自らの主観で語る場合と、他者の言葉を引用して語る場合の二つの手法で語っている。また、他者の言葉を引用して語る場合には、引用している言葉の中でさらに別の語りを引用する入れ子構造のようなかたちをとる場合も存在している。
 『昏乱』のような一人称視点の語りでの引用の多用は次の二つのことをもたらすと考えられる。一つは一人称視点でありながら複数の視点を作品に導入することである。もう一つは引用の言葉の中での引用により語り手から直接関係のない人物について語ることができることである。
複数の視点を作品に導入することで、語り手だけでは知りえない情報や考えも読者は知ることができる。語りの手法が神の視点である場合は、主人公以外の人物についても詳細に語られるため主人公の知りえない情報を読者は知ることができる。これに対し、一人称視点の作品は語り手が知覚したものや語り手の考えだけが書かれる。ここで引用を多用することは、一人称視点でありながら複数の主観や視点を作品に登場させることができる。例えば、ある人物Aに対して語り手の評価を描くと同時に、他の人物による評価を引用することで、人物Aに対する見方やその人物の情報を読者に知らせることができる。この手法と神の視点での語りの差は、読者と、語り手という作品内の登場人物の持つ情報が一致させられるということである。神の視点では登場人物の知りえない情報も読者は知ることができるが、一人称視点での引用の多用については、引用する以上語り手自身が引用する情報を知っている必要がある。このように、引用の多用による複数視点の導入は、あくまで読者の知りうる内容は語り手に依存しながらも、同時に、複数の視点で読者は物語における状況やその描写を知ることができる効果を与えると考えられる。
引用の言葉の中でさらに引用することで語り手から直接関係のない人物について語ることは、複数の視点を作品に導入することをより容易にしていると考えられる。一人称視点での語りでは、物語は語り手の知覚したもの以外の情報を語ることが出来ない。ここで、引用中での引用により語り手が直接関係を持たない情報の語りがなされると、引用の中で引用された語りを行った人物についての考え方といった情報が物語に与えられる。これらのことによって、複数視点の導入を語り手の知覚できる範囲を超えて行うことができる。こうして、語り手が知らない事件についても、語り手の引用元と、引用中の引用元という複数の視点で語ることができるのである。これは語り手が物語で語ることのできる事件の範囲を広げる効果があると考えられる。なぜなら、引用中の引用によって、より語り手から離れた事件についても作品内で、複数の視点をもって語ることができるからである。
このような引用の効果が、引用の多用によって『昏乱』にもたらされていると考えられる。


『昏乱』における引用の多用は、一人称視点での語りでありながら複数の視点の導入を可能にし、語られる事件や、登場人物の考え方の情報を増やしていると考えられる。
 


参考文献
Thomas Bernhard. (1967). Verstörung. (トーマス・ベルンハルト 池田信雄(訳) (2021)  昏乱 河出書房新社)


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