七海七々とは〜季節の妄言を添えて〜
ななみななななとは
初めまして、七海七々(ななみ なななな)と言います。
現在は、日本は京都府にあります、京都大学という学び舎の、学部は文学部の1回生として生きています。
研究したいことは多岐に渡っていまして、ふらふらとしていますが、第一に哲学を出来たらと思っております。
普段はTwitterにてお絵描きをしています。良ければプロフィールから飛んでご覧になってくださいね。
さて自分語りというものはどうにも苦手でして、私はこれと言って自己を紹介することができないのです。更に正確に言えば、自己紹介とは「自己にまつわること」を話すべきと思いますが、私は「私の内部世界」を語ることは出来るのに対して、「私にまつわること」を語れないのです。すなわち、現実世界でどんなことをしてきた(どこそこのボランティアに参加しました、など)ということはどうにも記憶あるいは意識に浮上しないのです。私が意識として認識できる意識へと浮上しないことは、語れません。
反対に、語るにあたり意識下にひょこひょこ歩いて来てくれるのは私の内部世界、いわば私の思想、思考、感情になります。これらがいわば「私の内部世界」にあたるものとなります。
思想という言葉はとても便利でして、なんだか、カッコイイ。(カッコイイ!)
しかしながら、蓋し、付随するイメージとは異なり、単に人間存在が「思ったこと、考えたこと」はその時点でその人を彩る思想なのです。だから、思想とは大仰なものでは無いと勝手に思っています。
このような「勝手に思ってます」も、思想なのです。
あるいは、「つぶあんより、こしあんの方が優れている」ということも思想と言えましょう。これは過激な思想ですが。
少し自己紹介に戻ると、私はこうした思想というものを生命生活の至上としているのです。思想を持っていない私、その私は屍であって真に生きていないとすら思えるほどに。視点を変えて表現するのであれば、何も考えずに、自己の価値基準を持たずに、他者に流されながら生きている時、私は「私」として存在していないと思われます。あるいは、思想を思考という言葉に置換しても良いかもしれない。
アイデンティティという言葉があります。日本語にすれば自己同一性。実績や経歴、所属しているものにこれを置く選択肢も、大いに歓迎します。
ただ、私個人に限っては、これの置き場所は思想という、底も見えない大きさも分からない沼なのです。常に形も大きさも、色も手触りも変わる、思想という概念自体に私のアイデンティティがあります。
ひとつの問題は、アイデンティティが思想を形成するのか、思想の下にアイデンティティが生まれるのか、ということ。これは互恵的であるとしか言えません。ある思想によって「私というアイデンティティ」が担保され、私というアイデンティティの範疇で「私の思想」が創出される。鶏と卵に過ぎません。
他の問題として、自己を自己あらしめるアイデンティティの置き場所が、思想という変幻自在のもので良いのかということ。これには、論理を欠きますが、良いのです、と答えます。つまり、私の持つ様々な思想や思考だけが私を保証するのでなく、「私が思想を持つこと自体」が私を形作るのです。そうした思想なのです。いや、大仰ですね。そうした気持ちなのです。
つらつら書き連ねた通りに、私の場合、アイデンティティが「思想」という、存在において内部性の高い位置に置かれています。だからこそ、外部によって経験的に与えられる「私にまつわること」というのはどうにも意識下に浮かびにくいのでしょう。
結びとなりますが、私は思想の持ち腐れを恐れています。せっかく持った思想です、減るものじゃないし私が死んで同時に思想も死んでしまったら! もったいないじゃないですか!!(とてももったいない!)
だからこそ、私は描きます。
だからこそ、私は書くのです。
だからこそ、私は生きるのです。
表現という手段が唯一、肉体が消え去ったあとも私の精神を生かす方法なのです。
(以上の一切は、あくまで個人の思想、意見に過ぎません。思想は自由たるべき)
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