恋愛の真理性と概念としての空虚さ

恋愛は十分に真理であると同時に、自体的に空虚である。
自由恋愛の価値は我々に膾炙するものである。右を見れば恋愛小説、左を見ればラブソング、正面向いても恋愛話、という具合である。
恋愛について語ること、愛自体が形而上学的にかなり重いものを主題とするのであるから、それはかなり高度な内容となる。
本稿ではあえてこれに挑む。その練度は大したものとは言えないだろう。欠陥は多いだろうし、批判されることを避けられない。しかし、恋愛という概念が広く知られ、そしてそれが信仰される現状においては、これを語らずに宇宙をも語ることに同意することは悪徳である。実際眼前で語られ、かつ自身が経験することについて、それを全く無視して宇宙を語ると言うことは不義である。それ故本稿では我が哲学における当座の答えとして、以下に恋愛に関する考えを述べるのである。
結論は冒頭に示した通りである。恋愛は実際のところ真理としての機能を持つ。一方で、その概念自体を分析すると、これは他の重要な概念と衝突し、そこにおける効果の比較の下で空虚な概念だと判断されるのである。これは決して恋愛の概念を貶めるのではない。実際、それが例え錯覚としてのみ現れるものだとしても、恋愛が我々の行為に影響を与えるがごとく振る舞っている限りでそれは真理かつ善なのである。しかし、これを盲信するということは、実際のところ他の人間精神に重要な要素と衝突する。それは我々が自由意志と呼ぶものである。恋愛を受け入れるには自由意志という信仰を踏みつけコケにしなければならない。私が提示するのはこうした物語である。そして、その上で諸君が自由意志を部分的にでも放棄すると言うのであればそれは私の与るところではない。しかし、自由意志を、それが実際仮初で世界は決定論的に変化するとしても、認める方が我々に与える効果は大きく、また我々の持つ情報の連合に対して最大限の保持を許し、最小限の修正で済むのである。


概要

本稿では恋愛の概念、そしてその実際的効果について分析し、その内容を主張するものである。
本稿の最大の目的は、これを通じて恋愛という概念や実際的な効果についての分析を読者に促すことである。その必要性と根拠は第一に恋愛は人口に膾炙した概念であり日常において言及されやすい話題である一方で、その実際的効果やその様態についての分析は言及の度合いに比べて乏しい、それゆえ各人の宇宙論の形成において空白が存在し、問題が生じていると言えるからである。また、恋愛が謳われる際には、その実際的効果についてどれほど明確であるかが不明瞭であるからである。最後に恋愛についての分析は愛の哲学に対して貢献するからである。
本稿では五つの節を設け、恋愛に対する分析を行う。
第一節では愛及び恋愛に対する特徴づけを行う。愛の特徴とは、主体が対象の利益のために最大限行為することを厭わない旨をそれとする。ここでは恋愛は愛の特殊例として扱い、恋愛は愛の特徴を満たし、特に次の特徴を満たすとする。つまり、主体が対象に好かれるように、あるいは忌避されないように、最大限行為することを厭わないようなことである。これらの特徴づけを以て以下の節では分析を行うことを約する。
第二節では自己と他者に関しての論考を示す。なぜなら、恋愛の特徴づけとして主体と対象といった言葉が使われるが、それがどのようなものか分析するには自己と他者について述べるべきであるからである。自己と他者について分析することで、主体と、その外の対象についての特徴を導くのである。ここでは、私の哲学の重要な要素である情報のネットワークの考えや純粋経験を発展させた純粋情報の考えが登場する。実在はすべて情報として存在しており、それは本質的に連続的であるが作用によって同時に体系化され連合性を示すというものである。これに基づいて自己を分析すると、自己は情報ではなく特定の作用の総称であり、存在者でないことが示される。これを踏まえて他者を分析すると、それも自己同様に作用として現れうるが、自己の作用によって他者を認識することはできないことが示される。なぜならば自己の認識作用は自然の側の身体にある官能に依存しており、それによって観念の連合や他者を示す作用は認識されないからである。故に、主体が他者の精神を認識すると言うときには、それは措定された情報であり、事実対応性に欠くことが示される。なお、その事実対応性の有無は実際的に違いが認められないとし、真理性と善性を損なうものではない。
第三節では恋愛が錯覚であり、その実情報として空虚であることを示す。それは恋愛の特徴づけとして示される、対象に好まれること、忌避されないことということのために行為するということの不可能性によって述べる。それは主体が他者の精神やその作用について認識することが不可能であるからである。故にそうした他者による感情という作用に基づく行為は不可能である。これを以て恋愛がその情報が錯覚であり、空虚なものであると示される。一方で、恋愛の情報を所有する主体はそれによって実際の行為を変化させることは事実的であるから、それによる実際的効果は認めるべきであり、その点で恋愛は真理的かつ善であることは担保する。
第四節では恋愛と自由意志の衝突について述べる。恋愛はその過程において、措定されたものであっても他者の作用を自己の作用において再現する様態がある。そのとき、その自己の作用は、つまり対象がどのような感情や思惟をするか、と主体が考える作用は自己と言える一方で、他者のそれとも言える中間的な作用である。故に、絶対的に自己の統制下にある作用においてなんらかの意志を生成することを恋愛は認めない。これは、主体の十全な統制下において意志が形成されるという特徴を持つと言えるだろう自由意志とは矛盾はせずとも衝突するものである。従って、恋愛と自由意志は衝突すると述べる。その上で、この衝突の解決として三つの方法を提示する。一つは衝突の調停の方法で、それは絶対精神を想定することで自己の作用すると認める範囲を広げる方法である。これは立場によっては直観に反することが十分に考えられるために、より容易な方法を次に示す。それは恋愛と自由意志の二者択一である。そこで恋愛を保持する方法と、自由意志を保持する方法を提示し、そこにおける実際的効果の差を述べる。これを以て恋愛と自由意志の衝突の分析を終える。
第五節は結論である。以上の内容を要約した上で、自由意志と恋愛衝突において、二者択一をするときどちらを採択するのが良いかについて現時点の私の考えを補足する。そこでは自由意志を保持することを主張する。なぜなら、自由意志を棄てた場合の実際的効果は、人権を始めとして多くの約束的な情報を阻却するものとなり、主体の実際的な行為が夥しく変化するためである。これを避けて自由意志をあえて保持する理由は、主体の認識や、その情報の連合の作用の仕方として、新たな情報の獲得をした際には最大限現状を保持して、最小限体系を修正する、という傾向性があるからである。これに則れば、自由意志の棄却による実際的な変化より恋愛の棄却による実際的な変化は小さいと示されるために自由意志の保持を主張する。恋愛の棄却の際の実際的効果は、恋愛で説明される内容を他の愛と自己への利益で説明すればよく、これら両者の説明は実際的に差がないために主体の性向によって選ばれるものであるから、主体の情報のネットワークの修正は最小限で現状は最大限保持されるだろう。こうして結論を終える

愛に関する特徴づけ


我々はまず愛について特徴づけるべきである。あることについて実際的な意味を断ることは不必要な論争を避けることができる。それは例えばリスの周りを走り回っている人が本当にそうであるのか議論するときに、リスの東西南北を行けば回ることになるか、それともリスの正面、両側面、背面を連続的に目視できるように移動すれば回ることになるのか、と実際的な問いの意味を考えれば議論がすぐに収着するのと同じである。
愛とは「ある主体がある対象の利益の為に最大限自ら行為を働きかけることを厭わない」心的状態を指す。
この利益という観念は価値のことであるからその背後にあることは宗教的経験である。しかし、それについては以前にnoteにて簡単にではあるが論じたため、ここでは深く立ち入らないことにしたい(https://note.com/7mi7nana/n/ncfd54a026071)。ここでは要するに、利益というのは社会的な秩序や道徳心からくるものを簡単に想定してほしい。しかし、この利益というのをこうして一言に示すことは余り良いとは言えないだろう。まず、ここで指す利益というのは精神的なものを含む。つまり、対象が精神を持つような――あるいはそう措定されるような存在であるならば、その対象が快楽を獲得することは基本的に利益となる。もし、対象がその宗教的経験を以て、あるいは特定の観念連合を保持していることによって一般において苦痛とされていることを対象が求めているのであれば、その苦痛を獲得することは利益である。したがって、精神的な範囲において、つまり対象の心的状態に影響を与えるという面について、利益は確かにあり、それは対象が求めることを主として、大半の事例については快楽を以て利益とする。次に、物質的面である。これは間接的に精神的な利益となることもある。まず、これについて想定できることは、その対象の身体を傷つけないことである。もちろん上述した精神的利益の内、対象が苦痛を求めるのであればこれに起こる対象の実際的利益を勘案して、実際利益を与えるように振る舞うときは選択を行うことになる。しかし、基本において身体の破壊は情報の破壊であるために(それは宇宙論上は変化的である点で善になりうるが今回は愛についての論考であるために一先ずその善性は脇に置くこととする)、対象を損なうことになり、従って対象の動性、活性をも損なう正に損害となる。故にこれは利益とは言えないだろう。物質的利益として他に挙げられるのは、何らかの物質の獲得である。これは例えば対象が別の物質を持つこと、付帯することで実際的利益が生じるときに言われる。つまり、所有の利益である。想像しやすいことは、金銭の獲得である。実際のところ金銭は単なる延長であったり、帳簿にある文字であったり――それもまた単なる色彩と延長であるが云々、価値が内在するものではない。価値の基体ではない。しかし、我々の多くは社会という神話、経済という神話、そうした背後に全く確固とした正当性のない一種の宗教的な物語を信仰することによって、単なる延長に価値を「感じ」、ある主体はそれを利益という観念に結び付けるのである。その点で彼にとって金銭は利益の物体となる。同様にして様々な物体は利益となる。身体の生が信仰されるために、食料の所有は利益である。物質的利益は大まかに以上となる。利益としてもう一つの種類をここでは挙げておく。それは関係としての利益である。ある存在が、それ自身も含めた何らかの存在との関係性が存在するとき、それが利益となるのである。これをあえて挙げるのは、上述した精神的利益や物質的利益と重複しつつも、包含される内容でないと判断したからである。関係としての利益は、情報の結びつきによる利益である。例えばここにA氏を呼んでこよう。彼は文明社会、特に具体化すれば現代日本などに住んでいることを想定しよう。A氏は超有名企業の重役に若くしてのし上がった鬼才である。A氏の友人には同年代でありながら未だに就職せず、親に養ってもらいながらも、更に家事手伝いもしないB氏がいる。さて、彼らの情報はこの文章上でも、そして現実の彼らとしても(この現実は飽くまで仮構ということになっているが)情報として結びつきがある。まず第一に彼らの身体の情報はなんらかのかたちで接触しただろうからその点で情報の結びつきがある。次に、彼らは互いに互いのことを知っているのであるから、その点で結びつきがある。そして彼らは友人関係としての結びつきがある。こうして、彼らを構成する情報は互いに結びつきを持っている。まず第一に利益があるのはこの友人関係である。友人関係は、その通り関係性である。この関係性は精神的なものでもなければ物質的なものでもない。結果として我々がこれを知るのは観念としてである。しかし、関係性はそれ自体存在する。我々が一定の対象同士に対して表象を行うことで関係性を知る以前から、その対象同士には関係性が存在している。その関係性というのは、我々は表象によって観念としてしか理解できない。だが、ここには我々の知りえない関係性が存在している。これはなぜか。端的に言えばこれはC. S. パースの言う第三性であるからというので十分である。私の言葉で言えば、これは情報のネットワークとして連合しているから、である。ここで深く論証をするのは本題から逸れるため避けるが、この世界では情報が実在しており、それが連合することで、世界が構成されると私は考える。なにか存在は一定の情報の連合がその存在としてまとまって現れてくるときに存在と言える、と主張する。このときネットワークを構成するための情報同士の結びつきが実在として、関係性として現れているのである。仮にこの関係性が実在でないとした場合、我々各人が人として存立するのはなぜか。我々の構成する身体、細胞云々がそれ自体としては延長として、色彩として、運動として、固有の質を持っているのにもかかわらず、一定の存在としてまとまり在るのはそれを実際まとめる統一者があるからである。それは超越論的な神であっても良かった。しかし、実際的なことを重視するならば、我々が観念として獲得できるような、表象可能なような、一種知を獲得できるような対象がその統一者として認めるのが節約である。そして我々は実際何か複数の対象を認識した際に、それを心的領域において関係性を感じる。これは実際に外部のその対象同士が――あるいは自己とその対象とが――情報として結びついており、一定の連合を為していて、まとまっていると、統一性をも感じ取るからである。統一性は当然、その要素同士の結びつきが前提となる。故に、簡潔ではあるが、ここに情報同士の結びつきの実在性が説明できたと考える。話を戻すと、こうした関係性は存在しており、それが一定の利益になるという話であった。情報同士の結びつきは存在していたが、それが必ずしも一つの関係の質に解釈されるとは限らないし、複数の質の関係を存在同士が持っていても問題はない。上の例で言えば、A氏はB氏に対して社会的に優位であると言う関係性を持っている。これは社会的価値としてA氏にとって利益となる。もちろん、そのときは友人関係が真に成立しているかは疑われても仕方ない(この二関係は両立可能ではある)。このように、関係性というある実在の利益もある。
さて更に本題に帰ろう。当座の題は愛の特徴づけであった。再掲しよう。愛とは「ある主体がある対象の利益の為に最大限自ら行為を働きかけることを厭わない」心的状態であるとした。この特徴づけの利益については以上に十分に示せたはずである。一定の価値づけに基づいて、様々な存在、実在を所有したり獲得したり、認識することである。他に説明が必要なのは主体や対象、行為、「厭わない」だろうか。主体や対象については以下に別の項目を立てて自己と他者について考えるときに深く説明したい。それゆえ、とりあえずは主体とは各人、何か考えたり、意志を持ったり、それに従って行為をしたりする、ある存在を考えてほしい。具体的には、人間を考えれば十分である。対象は何かある存在を考えればよい。それは何か石ころでも良いし、他の人間でも良いし、あるいは本人でも構わない。少なくとも、主体が何らかの方法で――たとえ厳格であっても認識可能であることは要請されたい。ある人が全くあずかり知らぬクマのぬいぐるみに愛情を抱くことなどできるだろうか。行為は、主体が心的ではなく外的に、身体的に、自然においてなんらかの操作を行うという程度の説明にしておく。一定の因果を発生させるとしても良い。少なくとも、行為という概念は形而上学的にかなり重いものであるから、確定的な特徴づけをここで喧伝することは憚りたい。しかし、少なくとも主体が、自然の側の情報に対して何らかの影響を与えることを行為と呼ぶことは直観に反しがたいと考え、こうして特徴づけておく。最後に厭わないということである。これは主体が既に持っている情報のネットワーク、特に心的な情報のネットワーク、観念連合に対して、件の行為に関する観念が実際的な行為以前に主体の心的領域に現れたときに、それらへ矛盾することなく整合的に――たとえ矛盾などするにしてもその軋轢は限りなく小さく、すぐさま修正される程度に――そのネットワークへ結びつくことを示す。即ち、件の行為を行う意志が主体の心的状態や性向に対して矛盾が起きない、あるいは起きても無視できる程度のものである、ということである。
括弧の外にあり、再三登場した「心的状態」という語については、当座では大まかに心の状態、として思い浮かぶものをそのまま考えれば十分である。
こうして、愛の特徴づけは大まかに内容を含め説明できた。これを踏まえれば、愛と我々が言うとき、その種類は様々あれど、それらそれぞれの特徴を踏まえることができているだろう。この後で、友愛と言うときには友人関係という特殊な関係性が必要になる云々と、我々が区別するそれぞれの愛に必要条件を負荷していけば、各々について説明や分析ができるだろう。

恋愛の特徴づけ

本稿では恋愛について語るのであった。従って、上記の愛の特徴づけに加えて、他の愛――友愛、隣人愛など――と恋愛との異なる項目を考え分析し、本稿における恋愛の特徴づけをしていく。
翻って、上に記した愛の特徴づけを特徴Lと呼ぶことにしよう。これは便宜のためである。
話を戻す。恋愛の特徴づけは次の通りである。
恋愛とは、「特徴Lを満たす心的状態において、対象から忌避されることを主体は最大限避けるように行為し、かつ対象から何らかの愛の対象となるように最大限行為する、ということを日常の行為の規律として支配することを受容し、実際そのように行為することを厭わない」という特徴を持つとする。
特徴づけの文言が長いため、この特徴づけは特徴Rとしておこう(適訳かは怪しいが、恋愛に対応するromantic loveの頭文字である)。少しずつこの特徴づけを分析しよう。
まず、恋愛は愛であるからLを満たす心的状態であるのは明らかである。
次に対象から忌避されることを主体は最大限避けるように行為する、ということである。まず、これが満たされるには、対象に精神があり、かつ主体がそのことについて確信している必要がある。なぜなら、そうでなければ対象が「忌避する」という心的状態をもつことはありえないし、そうしたことを想定する愛を主体が持ちえないからである。これは恋愛というときの我々の直観にそぐうだろう。もちろん、これに合わない恋愛を持つ人も十分に考えられる。彼らを「恋愛」から排除する気は毛頭ない。本稿で対象とする愛とは射程が異なると言うことであるにすぎない。あるいは、もう少し特徴づけを弱めることは可能である。つまり、忌避するとまで行かずとも、対象と何らかの関係性、例えば接触関係や容易に出会える関係性などを保つことが不可能になるということを主体が最大限避ける、というようでも良い。これであればより広い範囲を恋愛として認めることができるだろう。しかし、本稿においては上記のRのままで進めていく。というのも、後述において、そもそも精神性の存在が実は恋愛に必要ないということが明かされるからである。しかし、認識の問題としてこれは留意しておくべきであるから、Rに示したのである。しかし、認識においても、混ざり合う他の愛の様態によっては精神性を元から排除するような、上述のような特徴づけの弱化も可能であると言うことは断っておく。
さて、問題は、対象から忌避されることを主体は最大限避けるように行為するということである。忌避するというのは、関係性を断つことである。実際のところ、自然の、「この」宇宙の歴史として一度関係性が生じたなら、情報の結びつきが生じたならばこれを断つことは存在者には不可能である。それが断たれるのは偶然に依存するしかない。しかし、それ以上の情報の結びつきを拒むことは可能である。二度と出会わない。二度と文通しない。二度と、云々という具合である。これは対象の意志が十分に関わることが考えられる、そうでなくとも偶然、あるいは物理的な必然性として、こうした断絶が行われることは想定できる。ここでいう忌避すると言うのは、対象が意志を以てこうした断絶に向かう行為をなすことである。これを主体が最大限避けるというのは、恋愛の特徴として十分に考えられるだろう。
次に対象から何らかの愛の対象となるように最大限行為するということだが、これは説明不要であると考える。要するに、愛について対称性を持つことである。ここではまたしても対象が何らかの精神的なものを持つことが前提されている。これを弱めるのなら、何らかの経験において、主体が、多少が主体を迎えてくれる、という経験を継起的に獲得可能であるということにできよう。
以上の二点のことについて、日常の行為の規律として支配することを受容し、実際そのように行為することを厭わないことがRにはある。これは上の二つの行為基準が彼にとっての価値の基準になっているということである。忌避されないように、かつ愛されるように、そのための行為を実際為すことが善であり、それに反することは悪で、主体にとってはそれこそを忌避するのである。
こうした愛を本稿では恋愛という。どれほど諸君の恋愛観にそぐうものであったかは分からない。断っておけば、愛、更にromantic-loveの概念分析をする哲学は未だに決定的な論説があるわけではない(robust concern theoryなど有力説もある)。それゆえ、愛や恋愛の特徴づけはかなり難しいことであることは理解してほしい。しかし、少なくとも本稿では、そして私が「恋愛」と言うときには特徴Rを満たす心的状態を指すものと理解してほしい。私の言葉で言えば、Rに合わない愛は、私の言う恋愛とは異なることもあり、それはそれ自体として尊重される重要な愛の形であると私は存している。もちろん、そうした愛がどういう様態をしているのかについては分析を都度すべきだと思う。それゆえ、諸君の持つ恋愛観には各人で、どれほど私のと一致不一致しようと、分析をしてみることを勧めたい。

以上で本稿における愛に関する特徴づけを終える。


自己と他者に関する簡潔な論考

我々は愛するときには特徴Lからわかるように主体と対象が必要であった。そして誰かが愛する、と言うとき、その主体は自己として考え、対象は他者となるだろう。そして、我々は当然のように――まさに「我々」にも含意されているが――自己を措定し、他者をも認めている。ここで言う他者と言うのは何も人間存在に限らない。自然に対して十分に用いる語である。ここで、自己に対する、他者に対する存在論上の疑いを掛けたいのである。

まず「自己」は存在するかについて考える。我が哲学の立場を示せば、自己は存在ではない。自己とされるのは一定の情報のネットワークを指す。情報のネットワークは自己の範囲である。実際の自己とは非存在の位置である。自己とは作用である。それは一定の範囲の情報のネットワーク、一般に心的領域とその身体的領域のそれぞれが持つ情報のネットワークの結びつきや、その各情報を活性化するその作用が自己である。自然には身体の情報がある。それは微小な粒子から大きく器官や部位とされるが、それらは一定の情報である。情報の質は延長であったり、色彩であったり、運動であったり、そうした情報を持ち、それらが共同したり、結合したりという物理的な意味で情報が結びついている。その情報の連合の小規模を取り出して、その結びつきについて活性化作用が起きるときに、その連合は認識や意志、あるいはそれに基づく行為と言われるようにして情報を生成したり、情報を新たに結びつけたりする。その小連合が自己の範囲であり、まさに、一定の連合に対する作用が自己である。我々はあたかも自己を存在者かのように扱うが、実際は実在者の立場にない。ただ実在しているのは情報だけであって、それに作用が為される時、自己を示すような――実際にはそれは仮構であり、実在でないが――そうした情報が生じるために、ここに自己があるかのような振る舞いや認識が起きているのである。我々は自己を存在者とするが、自己それ自体を認識できるのか。内省の対象は常に記憶や観念と言った情報であり、その連合である。そして、それらは外部の情報と結びついており、我々が自己とする範囲に限定された連合ではない。例えば、花の観念は、外部のある花の情報と確実に結びつきを持っているが、その外部の花は自己とはされないのである。自己とは何を指すのか、どこまでが範囲であるのか、それは常に不明瞭である。
一定の記憶を持つ対象が自己であるのか。しかしそれであれば自己の正体は記憶である。それは即ち一定の情報の連合である。では、その自己はそれ以上情報と結びつかずとも自己と言えるだろうか。すなわち、記憶の情報にあらたな経験の情報が結びつかずとも、その連合が自己と言えるのか。これは否である。それが肯定されるならば、死者は生者と同一となってしまう。これは直観に反するだろう。故に、単なる記憶情報の連合が自己とならない。そこには情報が付加される必要がある。そして付加されるのは情報の結びつきの作用である。そして、これ無くして記憶は自己の位置を持たない。故にこの結びつきの作用こそが自己においての肝要である。さて、この結びつきの作用が単独であったとき、それは自己が生じるのか。これは肯定される。なぜならば、一定の情報を記憶として生じさせるように結びつきの作用が単独でなされたときには、それは記憶の連合を生じさせるのはその特徴上当然のことであり、それは即ち赤子の原初記憶の作用のようなものである。故に、こうした記憶における情報の結びつきの作用は、常に自己の部分の核心にある。したがって、この点で自己の本質は結びつきの作用である。これは意志のような他の自己とされる対象についても同じことが言えるだろう。意志について取り上げよう。主意主義という立場のあるように、自己を言うときに意志が本質とされることすらある。意志とは、ある行為に向かう情報である。それは実際に行為されることを必要としない。洋食を食べる意志があっても、何らかの強制力などによって実際は和食を食べることは十分にあるだろう。意志とは、一定の運動を引き起こす予期をする情報である。自己の本質が意志だと言うとき、意志の本質は何か。それは情報の結びつきの作用である。なぜならば、意志はまず発生において結びつきが必要となる。他の知識とされるような情報と、心的領域の外部の情報とを結びつけることで認識が起き、そうして発生するのが意志である。外部の情報と既存の知識なしに意志は生じない。魚を知らぬ者が魚を見ずに、魚を食べたいと思うだろうか。そして、その時には知識と外部の情報は結びつく。かつ、意志とされる情報はその両者と結びつく。なぜなら、知識の情報によって価値が外部の対象に与えられることなくして意志は生じえず、かつ向かう対象無くして意志はありえないからである。意志は外部の向かうべき情報に対して運動を促すと同時に、それ自体対象を見失うわけにはいかないのだから、情報として結びつきがあるのである。一方で、こうした結びつきが起これば、十分に意志の情報は生じうる。なぜなら、既存の価値の情報とそれに適する外部の情報――対象とがあり、そこに結びつきの作用がある場合には、意志の情報は十分に生じるからである。価値の情報は、ある対象に向かうこと、避けることとを潜在的に含む。それに結び付けば、十分に意志は生じるだろう。故に、必要かつ十分であるから、意志はこうした結びつきを背後に持つ。意志とはこの結びつきの作用が一定の仕方で起こったときに発生する情報に過ぎない。意志を自己の本質とするときには、それ故自己を自己たらしめるのはこうした結びつきであり、結びつきの作用は自己の本質と言える。この結びつきの作用無くして同時的に意志はなく、その時には自己も同時的にないからである。
一方で、結びつきの作用ではなく活性化の作用が自己となることもなる。それは所謂連合的態度という意味に限らない。命題的態度であっても私の考えでは連合をとっているのであるから、情報のネットワークであるから、十分に一定のノードが活性化し、周辺の結びついている情報をも活性化させることはありうる。それは例えば、ケーキを感覚知覚し、それによって刺激され生成された心的領域でのそのケーキの観念が、情報が、既存のケーキの情報と結びつくことで活性化し、その周辺のおいしい、やイチゴ、ケーキは甘い、といった情報をも活性化させるがごとくである。この活性化の作用が自己であるとはどういうことか。それは活性化無くして自己というものはないからである。それは自己と言うときに我々は一定の認識能力を要求するからである。認識とは、前述の結びつきの作用だけではなく確実に活性化の作用が働かなければならない。認識は三つの段階に分けることができる。それは知覚、予握、判断の三段階で、これらはこの順番に起こる。知覚とは、像の情報が心的領域という一定の情報連合に結び付くことである。像の情報とは言わば感覚与件の状態の情報である。それ自体何か命題化されている情報ではない。外部の情報から感覚を通して観念という情報の様態を示したときの原初の「なにか」の状態である。それは視覚でも聴覚でも、どのような感覚器官を通したものでも、純粋な像が存在する。それは依然として他の心的領域にある情報に負荷されていないものであり、ただ心的領域の記憶の連合などに結び付いているだけである。その結びつきの作用の後に、予握という段階に移る。それは単なる感覚与件であった像の情報を命題や単語の様態の情報にするものである。それがいったい《何である》かの情報を像の情報に負荷するのである。その感覚与件的な情報が既存の記憶の連合や知識の連合になにか符合するのであれば謂わば具体化された情報へと書き足される。解像度が上昇するのである。もし符合するものがないのであれば、それは像の情報のままであるか。これは否である。もし符合する者が無ければ、類似を以て措定がされる。それも不可能であれば、謎のものだ、というように存在の情報が書き足されるのである。これは何であるのか、というときに性質だけを示しても良い。例えば、赤いものだ、という情報でも良い。少なくともこの段階で情報の負荷が起こるのである。その後に判断という段階になる。そこではその何であるかを措定した情報に更に情報を付け加えていく。つまり、それがどこにあって、どういうもので云々の情報を負荷するのである。それはつまり単に情報が書き換わるのではなく、同時に既存の心的領域の情報の連合に合った観念と、知識と結びつくのである。そして、結びつくと同時に情報が書き換わると言うのは、件の情報は他の情報に負荷されているのである。無関係な情報によって、情報の連合によって、それに沿ったように書き換わることがいつの認識にも起こると言うのは奇跡であり、最早神秘的現象であり、語りうる対象ではない。しかし、我々は十分にこのようにして認識について説明することが可能である。認識についてのこれら説明の実際的効果の違いはあるだろうが、私の主張するようにすることは直観にそぐうものであり、かつ我が哲学の体系において整合的であり、他の現象について説明することも実際的に可能にするために、私は上のように主張するのである。そして、実際我々が目の前に外部にイチゴのショートケーキを見つけたとき、初めはぼんやりとした像に見えるが、すぐさま我々の知識と符合してイチゴのショートケーキだと予握し、その上でどのようなものであるかを少しずつ情報をそれに付加していく。甘そうだとか、とちおとめが使われているとか、という具合である。さて、このとき確かに結びつきの作用が認識に不可欠であるかのように語られているが、ここでさらに不可欠と言いたいのが活性化の作用である。それは負荷が起こるときに生じる。まず、ここで何が起きているかと言うと、ケーキなどの件の観念としての情報、ここでは対象と呼ぶことにするが、それと既存の心的領域の情報とは負荷と言うときには上述のように結びつきの作用が為される。そして、同時的に活性化の作用が起こり、対象の側では情報がアップデートされ、心的領域の情報連合の方では、対象と結びついている情報とさらに結びついている情報たちが活性化され対象の情報と結びつこうとするのである。これが正に予握と判断である。予握での負荷は何であるかをアップデートするのであった。それは、像の状態であった対象の情報は記憶と連合していたが、連合の結びつきを通して、記憶の連合だけでなく知識の連合まで行き着いても良いが、そうしてある別の情報を活性化させる。それによってその既存の観念たる情報が対象の情報と結びつきを得る。それは活性化された、した、という事実によってでもあるし、そもそも認識の段階として結びつきを得るのである。そうでなければ、像は永遠に単独であり、何のアップデートもされない。これは我々の事実に反する。結びつきを獲得することによって、同時的に対象がケーキの一種である、などというように情報が上書きされるのである。これはすなわち、像の側の情報が、既存の知識によって活性化されているのである。つまり、動的になっているのである。それは情報が変化していることを考えれば必然である。このとき、活性化の作用が無ければどうだろうか。そのときには、他の情報と結びつきを全く得ないときと同様に、謎のものだと言う観念とも結びつかないときと同様に、アップデートがされず、情報は常に感覚与件的であるにとどまるのである。そうであれば、我々は如何にしてかく文字を読み、意味を理解することが出来ようか。故に、予握の段階では活性化の作用は不可欠であり、結びつきの作用とともに、それ自体で予握を示すのである。では判断についてはどうか。判断では対象の情報と結びついた、それが何かを示す情報と更に結びついている情報が活性化し、それらが対象の情報と結びついて負荷するのであった。これは予握と同様に考えれば結びつきと活性化の作用が不可欠であることは明らかであるだろうから、詳論しない。ただ、違いがあるとすれば結びつく情報の数と、対象の情報からそれに結び付く情報との結びつきの線の数の違いである。つまり、予握のときよりも多くの情報に活性化されることで対象の情報はかなりアップデートされるし、情報が離れていないためにより速く活性化されるだろうことが言える。こうして、予握、判断ともにそれ自体が結びつきの作用と活性化の作用でしかないことが示される。そして逆にこのような情報の連合と、ある情報、そしてこうした作用が行われる時には、それは認識となるである。それは上記に示したように、二つの作用が認識に不可欠でそれ自体であることから言える。ところで、知覚は単に情報を記憶という情報のネットワークに結び付ける作用に過ぎなかったことを確認する。故に、認識とは情報の結びつきの作用と活性化の作用でしかない。しかして、認識能力の本質は作用である。ゆえに、認識能力を自己の要件にするならば、彼は作用が自己であると言っていることになる。
他の自己の心的領域で発生する一切の能力や存在はすべて、情報それ自体を除くと、作用でしかない。ここでは詳論しないが、例えば同一性を持つことは結びつきの作用でしかない。感情を持つということはそうした情報を活性化させたり、結び付けることに行き着く。そしてそうした能力は結局のところ、この二つの能力に還元されるのである。故に、簡潔な説明ではあるが、自己とは作用であることが示される。従って、自己とは一定の現象であり、存在者の位置にない。
ところで、情報を生み出す作用についてはこの節の以下で説明している。
こうした自己観には十分に依然として反論が考えられる。というのも、一定の情報の連合の方を自己と見做し、その連合が作用に先立つことが考えられるのである。これはつまり少なくともある観念とされる情報の連合が自己であるということである。これは棄却されるべきである。なぜなら、それが観念という様態をとっているのは認識の作用によるものであり、本来は物質的な情報と、情報として同質であるからである。ある情報が心的か、自然的かは、主体の認識の作用によって「観念」という情報に結び付くかどうかである。情報はおしなべて情報に過ぎない。なぜなら本来、情報に事細かな差異は存在しない。そこには純粋な情報しかない。ただそこには本来価値はない。情報同士に優劣はない。ただ情報は存在し、一方が優先されるいわれもない。それはいわば純粋経験のようなものである。そして、これは、ここで名付けるに「純粋情報」、それは全体的である。しかし、同時に現存する全ての情報を持つ情報である。故に、そこに一定の体系が存在する。それこそが連合である。そして、そこには何か作用が働くことが上記のことから明らかである。それは結びつきの作用であったり、情報生成の作用であったり、活性化の作用だったりと複数考えられる。純粋情報という一種の情報の体系は、集合は、それ自体すべてが連続的である。結びつきの作用によって、遠く離れていてもいつかは或る情報は別の情報に間接的に結び付いている。そして全体としては純粋情報としては一体となっている。だからこそ情報は連続的で連接的である。それゆえに本来的には情報は連合的であると同時に非連合的である。それが連合とされるのもまず、認識の作用によるものである。特定の情報が、純粋情報の一部においてそれが上記のような結びつきや活性化の作用が起こることによって「観念」の情報と結びついたり、他の質の情報と結びつくことによってそれが一定の情報の「質」を持っているというように情報が上書きされたり、その上書きされたような情報が生成されるのである。ここで、もし自己として一定の連合が作用に先立って情報として存在するのであれば、矛盾が生じる。なぜならば、本来あらゆる情報は連続的であり、非連合的であったのが、作用によって連合的に、体系的になったと言う情報が生じると言うのに、それに先立って――作用に先立って連合があると言うことになるのだから、それは明らかな矛盾である。それゆえに、作用が自己とされるような記憶などの情報の連合に先立つこととなり、作用によって自己が確定し、その上、上述の通り作用こそが自己それ自体となるのである。
では、作用とはどういうものか。それは二つの特徴を持つことになる。つまり、関数と習慣である。習慣は大きな体系にも、小さな2情報同士にも適用されることである。それはあることが繰り返し経験されることによって、その経験がより起こりやすくなるということである。ある情報と別のある情報が結びつくことが頻繁にあるのであれば、例えばある外部の対象と内観のある観念が頻繁に結びつくのであれば、それはより思い出しやすくなるように、作用は傾向性を持つことになる。初めてピアノを弾いた時より、10年弾き続けたときの方がよりピアノの技術を獲得するだけではなく、内観と音階、鍵盤との情報の結びつきは強固で、より結びつきやすくなっているだろう。活性化もそうである。ギターを毎日弾いていれば、ギターの観念はより意識に昇る――つまり活性化されやすくなるだろうと言うことである。自己はこうした作用の特徴を持っていることは上の例えからも分かるだろう。この習慣というものは「自己」外においての作用にも適用される。それは運動などもそうである。一定の情報が他の情報に干渉する、結びつくことによって、運動が発生する。その運動はその運動の内容が作用者被作用者ともにアップデートされたものとなる。その運動の仕方は個別的なものでも、大きな物体一般に対してでも、それは習慣によるものである。C. S. パースが説明した通り、「ある」宇宙の原初は偶然しかなく、私の説明においても情報が少なかった為に偶然が支配していたものだった。しかし、繰り返し一定の値や振る舞いを情報がとることによって法則性が生まれた。法則はそれ自体傾向性であり、即ち習慣である。自己には――あらゆる作用にはある情報(たち)についてそれが発生するときには、それは習慣によってどう作用がされるかが決定されていくのである。丁度正に自転車の乗り方を覚えていくように。
関数とは一定の体系を支配する法則である。我々は重力子を存在と言うが重力の法則や定数をそれ自体存在とは言わない。それと同様にして、関数もここでは存在者とは言い難い。それは力であり、支配する流れである。この法則自体も習慣によって一定の形態をとるようになったことはパースの説明や、物理学的な発見によって分かることである。関数が習慣とあえて区別されるのは被習慣的作用であるだけでなく、体系が前提となるからである。それはある情報単一であったり、2情報間だけでは現れない。関数はまずある情報が存在するとき、その存在が活性化や別の情報と結びつきの作用が起きる際、更なる別の情報を生じさせたり、件の情報を書き換えたりする、という特徴である。作用が起きたときには、必ず何らかの変化や生成があるということである。それは上記の認識などを見ても分かることであろう。端に結びつきが起きたときには「結びついた」という情報が、これはいわば歴史的な、世界の記憶のようなものだが、そうした情報が生じるのである。活性化についても同様である。活性化については殊、他の情報に影響を与えるのだから情報の変化をもたらすのは明白である。これが体系を無視できないのは、体系を参照することでこの作用の特徴が現れるからである。「リンゴを見て、食べたいと思い、手を伸ばす」ということを考えよう。精神情報のネットワークは何らかの方法、例えば脳という器官を通して物体的な身体の情報のネットワークに干渉可能であるから、これは十分に考えられる事態である。ここでの関数という特徴の顕れは、リンゴの観念を獲得し食べたいと言う観念を生み出すこと、そしてその観念と身体の情報を結び付くことで身体に運動の情報が与えられる、と言う点である。前者はまず価値の体系が必要である。リンゴに対して意志が生じるには価値が必要であるから、その価値を示す宗教的経験を中心とした情報の連合、つまり体系が必要となる。もし体系が無ければ、よしんばリンゴという観念を獲得できても、ただそれが結びつくだけで呆けるだけである。なにかしら体系が参照されることで新たな情報が発生するのである。これはそもそも認識だにそうであった。もちろんこれには例外もある。それは「偶然の法則」というものだが、それはいわば完璧なる天からの啓示だと考えればよく、それは本稿の議論するところでは関係しないため無視する。たとえそれを考えても、それは純粋情報が原初に情報として発生したのと同じ原理であり、ここでいう作用の範疇ではないだろう。なぜなら、それは作用以前の、情報以前の生成だからである。次に、意志によって身体に運動の情報を与えることだが、これも体系なしには不可能である。それは、身体の情報の体系、ネットワークである。つまり、筋肉の情報、細胞の情報、電気信号の情報しかじか、そうした情報の連合が前提になる。この事例から見てもやはり関数には体系が必要なのである。ここであえてこの特徴を関数というのは、一定の情報が、あるいはその集合が、別の情報を生成したり、書き換えたり、と言うところが、ある集合が別の集合へ飛ばされる考え方に近いからである。
ここで、前節でおいておいた「主体」についての話ができる。この上に述べた通り、自己は作用であった。自己はゆえに習慣と関数の特徴を持つし、それらを持つゆえにも作用とされるのである。では、主体は考えたり、行為したり、認識したりする存在であった。これは一部自己に当てはまる。なぜなら、考えたり、行為したり――行為とは外的な自然的物体を運動させることであるとしておこう――することはまさに自己という作用の顕れである。しかし存在ではない。存在者ではない。作用は特徴を見れば分かる通り、法則や習慣、生成することであって存在をしていない。故に、自己とは主体とは言えないことになる。それどころか、あらゆる存在者、つまり情報はそれ自体としては自己ではなく、体系化され、自己という作用が習慣化されなければ思惟や認識ということに関係しない。では主体は何を指すべきか。これは自己と区別されて、ある自己という作用のはたらく情報の連合の範囲を指すことにする。情報は本質的には連続的であった。しかし、習慣の考えをもってすれば、自己のはたらく範囲を特定し、その情報連合を指すことができる。それは実際情報であるから存在者たりうる。重要なのは、それ自体は決して自己ではなく、それ自体だけでは自己たりえないと言うことである。その連合が思惟などの作用を自己によって働かれることでその間だけ確かに主体と呼ばれるのである。こうすることで実際主体について説明することができるし、こう考えることは我々の直観にそぐうことだろう。なぜなら、寝ている間の自分は精神的な自己が目覚めておらず、あたかもその間この世に存在しないように思われたりするからである。実際、気絶していたりすれば、その間を生きていなかったなどと形容したり感じたりするだろう。主体は精神の連合だけでなく、身体の情報連合を含めても良い。それは身体を重視するか、精神を重視するか、という自己に対する哲学の気質によって解釈をすればよく、実際それぞれによって実際的効果は異なるのだから議論されるべきことである。ここではとりあえず自己とは精神の情報連合にして、もし身体も含めるのであればそう断ることにする。私の考えではそもそも身体や精神という区別は存在せず、あらゆる情報は連続するのだから、概念や現象を説明するたびごとに自己の範囲を説明すればよいと言う立場である。
前の節で残したのは行為と対象であった。行為について改めて説明するなら、精神だけ、あるいは身体も含めて、自己の作用する情報連合―つまり主体―で情報が身体において書き換わったりすることで、自己になっていない別の情報に対して変化を与えることである。対象とは、話にあがっている特定の主体とは別の情報である。対象が主体の性格を持っていることは問題ない。なぜなら少なくとも件の主体にとってはその対象は自己の作用しない情報であるように思惟されるからである。ここで思惟されると言うのは、情報が本来全て連続的であるために、絶対精神を考えることができるからである。これについては侃々諤々たるだろうから深く言及しないことにするし、ここでの議論にはとりあえず関係しない。
以上で愛の特徴づけに関しての用語上の疑問が解消されたと思う。もちろんこれは不十分である。情報に関する考えについてはさらに詳論したいところであるが、最低限以上には説明できただろうし、例えも用いて理解可能なように書いたつもりであるから、これまでに本稿では留めておくことにする。
さて愛については対象、即ち広い意味での他者が必要となる。これが人形を集めることが好きだ、のような趣味的愛などであれば他者に主体性が必要になることは無い。そこでは偏に外形や質感といった情報を必要とするだけであってその内部に精神が必要となることは絶対ではないのである。しかし、恋愛や友愛、家族愛――そうした愛に関しては対象の主体性が措定されているように思われる。精神無き対象への恋愛などもあるだろう。実際私はそれを認める。その対象から干渉を受けるように、そして受けられないことを避けるように行動する、その対象が無精神の対象であったとしても、それは一つ愛であり、恋愛や家族愛を持ちうると考える。しかし、人口に膾炙している意味ではどうやらこうした愛の対象は人格、つまり精神性を持っていることが前提となっているようである。少なくとも持っていたという事実が要請される。これについて考えていきたい。つまり、広義の他者の精神性についてである。そして次の節で言及する恋愛についての論考は結果として、精神性の有無の如何に関わらず、Rに相当する愛を持つのであれば十分に適用できる議論となるだろう。

他者

主体性を持つ他者とは何か。それはある主体とは別の情報の体系が、また異なるような習慣づけをされた作用である別の自己を持っているというとき、その情報の連合を言うのである。このとき、議論すべきはこの対象の存在論的な性格ではない。なぜなら、純粋情報において、ある主体が存在するのであれば、その別に主体たる体系が存在することを排除する方法はないからである。故に、ここで十分にある主体は別の主体を措定することができる。つまり主体は別の主体が存在するという観念を獲得可能であり、これは他の経験的に獲得された観念に特別反さない限り、つまり独我論者でない限りはこれを保持することができる。ここで重要なのは愛をする際には、少なくとも対象を認識する必要があることである。Lを顧みてほしい。もし対象を認識できないときには、その対象の利益を考えることができるだろうか。ある主体がその思惟に係る作用をする際に、そもそも結びついていない情報を以てその情報に関する利益という情報を生成することは考え難い。宇宙のどことも知れぬ知的生命体の特定個体の利益を今考えよ、と命じられて地球人に即座に回答できるものはいないだろう。それゆえ、愛をするには、恋愛を含めてそれは主体が対象を認識することが必要となる。更に、相手の利益というのだから、相手の持つ価値の基準をある程度知る必要がある。それゆえ、主体は対象の持つ価値に関する情報の体系の一部を、その観念連合に所有する必要性がある。そのためには、やはり主体は対象を認識する必要があるだろう。故に、愛について他者を考えるのであれば、少なくともここでは、それは存在論を語るのではなく認識に関して言うべきである。以下ではあえてこれを認識論と言う。現代ではもちろん認識論と言えば知識に関する哲学を指すことが専らかもしれないが、認識論には認識とは何か、という問いなども含まれていたために、かく呼称していく。
ここで喫緊の問題が、まず主体は他者を認識可能であるのかという問題である。その問題を明らかにするためには、その問いの実際的意味を明らかにする必要があるだろう。
一つの意味は、他者とされる情報のネットワークを認識可能かということである。これは少なくとも部分的には可能である。例えば網膜から感覚し、対象の延長や色彩を知覚、予握、判断していくことは十分に可能である。敢えて部分的と断った理由はその認識の対象は対象の観念連合には及ばないと言うことである。なぜなら我々の五感の捉えるのは、感覚器官に結び付くのはそれぞれに対応する情報であるが、それに観念は含まれないのである。我々が視覚するのは対象の意志か。否、単なる身体の運動である。我々が聴覚するのは対象の思惟か。否、単なる振動である。そこで感覚される情報はすべて、結びついた情報はすべて対象の観念連合、心的領域ではない。偏に自然の情報である。そして我々の認識は外部の情報を認識する際には神的体験を除いて、全てが五感に依存する。我々が心的領域の連合に観念の情報を作り出し外的対象と結びつきを獲得するのはそれら感覚無くしては凡そ不可能である。故に、情報のネットワークを我々が認識できると言っても、それは五感の関知する限りであって、他者であっても観念連合などの別の質を持った情報は獲得しえない。いわば、我々は対象の脳を掻っ捌いたとて、真に対象の観念の連合を認識することは無いのである。脳波やテストで確認できるのは間接的な情報である。それは延長や色彩、振動、運動といった自然の情報に過ぎない。ここで問題とされるのは観念それ自体である。それについては脳波もテストも手が届かないのである。
もう一つの意味こそ、ここで主体性ある他者を考える上で重要な解釈、すなわち作用としての他者を認識可能かということである。これは不可能である。先に述べた通りに、脳波や潜在連合テストといったものであっても、それは一定の延長など自然の情報を示すのみであって、観念を示すのではなかった。同様に、作用自体を我々はそれ自体として認識不可能である。五感の対象に作用は含まれない。五感はすべて情報に関する。すなわち存在者を相手取るのである。ところで作用は存在者ではなかった。故に五感の対象に、件の対象の自己は当てはまらない。では、如何にして我々は作用を認識可能か。情報はすべて連接的であった。しかし、自己の作用する範囲は主体として定まっているのだから、その作用は別の作用が作用したと言う情報と連続的であったとしても、決して作用の範囲に及ぶことは無い。もし及ぶのであれば、その時はその自己は他者の情報連合に触れており最早他者であるか、世界の記憶という異なる体系に触れているかのいずれかであるが、我々は神秘的な体験などを除いて、少なくとも認識に関しては個別的であるから、これらは阻却されるべき内容である。更に、我々は作用自体を認識できないという根本自由もある。我々は作用が働いていることを自然の情報を以て認識可能である。リンゴが落ちるのは、まさに重力作用の表れと言える。一方で、作用自体は認識できない。それはそれが情報でないからである。五感以外に認識能力を持っていたとしても、我々は作用自体を認識できない。情報でないということは、それは示すものがないのだから。あるのは、それが作用した、作用する、といった二次的な情報であり、それ自体を認識することは無いのである。以上より、主体性のある他者のその主体性の要件である対象に及んでいる「自己」が認識不可能であることが示される。
しかるに、我々は主体性のある他者それ自体を認識することはできない。我々は対象の観念連合を認識できないのだし、あるいはそれに及んでいる作用である、或る自己を認識することができないからである。我々が対象について認識しているのは一定の自然の情報である。延長や色彩、運動といったものに過ぎない。そうした特定の情報連合だけを観念として我々は認識し心的領域に保持するのである。しかし、我々は他者の精神を理解するように振る舞う。そのような情報が生じるのは、それは習慣に帰着する。一定の運動などをした対象の背後にはこうした作用や観念連合があり、それに対してはかく行為すべし、という情報を習慣によって獲得し、より活性化しやすくなっているだけである。主体の観念連合にあるのは他者の精神や自己それ自体に基づく情報ではなく、他者の自然的情報を抽象したような、それらから生成した、措定された対象に関する体系に過ぎないのである。これはだからと言って問題があるわけではない。他者それ自体からであろうと、措定されたものであろうと、実際的に行為することは変わらない。同様に「こう思っているんだ」と思惟する時点では、両情報に差はないのである。故に、かく暴いたからといって直接的な欠陥が生じることは無いのである。しかし、殊認識の話、愛の話となると実際的に問題が生まれる。なぜならば、このとき他者の利益というものをどれだけ主体が理解できるのかということである。主体が獲得できるのは自然の情報から獲得される限りの、対象の情報である。それは確かに対象の観念連合と類似することもあり、上記の通り欠陥が生じることはないようである。しかし、価値の観念連合を絶対的に獲得することが約されることは無いのである。なぜならば主体が異なれば、そこに結び付いてる情報の内「神聖」の強度であるものは異なるからである。ある主体にとっては神聖であっても、別の主体にとっては些事であることもある。その違いは理解可能であろう。しかし、真に神聖に結び付いている体系を主体の心的領域で再現することは不可能となりうる。故に、利益が重要な要素となる愛については、この他者の認識不可能性は重大な問題となる。
しかし、これを回避する愛もある。例えば、単に物体などへの執着する愛である。それはその様態や延長に関して利益を考える、つまり傷つかないことを利益とすれば良いのだから、観念連合や作用が認識不可能でもなんら問題がない。問題となるのは精神を必要とする愛である。本稿では、次節でこの問題を中心に恋愛への分析を語る。その結果、恋愛が錯覚であることが示されるだろう。

錯覚としての恋愛

恋愛は錯覚である。
このように書くと陳腐な言明のようであるが、しかし諸君の考えるものとは意味内容が異なるだろう。
まず確認すべきは精神がないとされるような対象への恋愛と、あるとされるような対象への恋愛の差であろう。結論から言えば、それはない。なぜならともに認識しているのは自然の情報であり、いずれも相手の利益となるようなこと、避けられないようにすべきこと、好かれるようにすべきこと、これらはすべて主体の内観において生成された、措定された情報やその体系に過ぎないからである。その措定された体系によって行為の情報が制しえされるよう自己が作用する。しかるに、恋愛である限りにおいて対象に精神があるか否かは実際的に差が生じない。
単に愛である場合と恋愛に限る場合では異なる。単に愛であるならば対象の利益を考え、それを享受させるよう最大限行為することを厭わないだけである。それは前提として確かに対象の利益を認識する必要があり、措定が前提である。しかし、この措定自体はいかなる愛であっても、措定でない経験由来の直接的な観念と実際的効果に差はない。愛に重要なのはそうした行為を厭わないことである。もし相手の価値の体系を直接主体の連合に結び付けることができてもそれにそぐう行為を行うかは別の話である。たとえ親が子の利益となることを知り尽くしていたからと言って、そのすべてをするとは限らない。しかし彼らは可能である限り厭わないのである。故に家族愛を持っているのである。そのとき、価値の体系が措定されたか、あるいは認識によって直接獲得されたかは問題ではない。少なくともその内観と行為には実際的には差がない。内観において厭わないのであれば、そうした情報や作用の傾向を獲得しているのであれば、十分にLを満たし愛たりえるのである。その点でLを満たすような対象は十分に実際的で錯覚ではない。恋愛もこれを満たしているために原初は錯覚ではない。恋愛が単に対象の利益を措定しそのままに行為することを最大限厭わないのであれば、その観点では実際的である。ここで錯覚とは何を指すかを確認すべきであろう。錯覚とは措定されたような、事実と非対応な観念に基づいて生成された確信ある別の観念である。愛が錯覚ではないのは、その指し示す利益というものが偏に精神を要求せず、延長や運動を保持、あるいは損害することをも含めているからである。それは対象にとってより変化をもたらすものであり、可能的にも、実際的にも変化的である点で、実際的な効果を純粋情報全体にもたらすのであり、それゆえ対象の利益に帰着するのである。実際的な効果を持つということは、それが善であり真理であるというのが道具主義の立場である。整合説や対応説も吟味されるべきであるが、プラグマティックな私の思想的立場においては、この道具主義を採用することは吝かでない。閑話休題し、愛は実際、対象の利益となることを為しうるということであり、その為の価値の体系は事実と対応することを十分許容する。また、単に価値の体系を言うのであれば、それは部分的に観察によって獲得することもできる。もちろんこれは対象の精神であるから完全に主体が所有することはできない。しかし、あの野球のグローブが欲しいと言う人間に対して、そのグローブを買い与えることは利益を与えることであり、事実と対応した価値の体系を言明によって獲得しているのである。そうでなくとも、ギターに打ち込んでいる人間に上質なギターを贈ることは、たとえ言明されておらずともギターを弾き続けている姿を見ておれば利益になるだろうと考えられることであり、実際十分に対象の利益となることであり、その点で事実対応的な対象の価値の体系を部分的に獲得しているのである。それゆえ、精神それ自体を要求しない、部分的な価値を――もちろんそれは可謬的かもしれないが――対象について認識できるのであり、その点で錯覚ではないと言えるだろう。もちろん、その価値の体系も完全には事実対応的ではない。いくら野球に打ち込んでる少年少女が実際には野球の価値を棄却している可能性もある。しかし、実際的に利益を与えるように対象に係る価値の体系を主体が形成しているのであればそれは十分に愛である。そして、もしそれが誤謬の体系であれば、それは錯覚というよりも愛の基準を満たしていない。なぜならば対象の利益となるようになるように行為することを厭わないのが愛だが、その利益を誤謬しているならば、それを行為することを厭わずとも対象の利益となるようでないからである。いわば、その時には「愛が足りない」のである。そして愛に関してはなにより、厭わないという情報自体を主体は実際的に獲得し、それを価値の体系に結び付けることができるのだから。
では、恋愛はどうか。恋愛は上記の愛を基盤として、簡潔に言えば他者に好かれるように、そして避けられないように、そのように最大限行動することを厭わないということであった。これは厭わないという情報自体を、そうした意志自体を価値の体系に結び付けること自体は可能である。しかし、これは決定的に錯覚である。というより、その意志は無に向かっている。なぜならば、他者に好かれるべく、そして避けられないように、ということが錯覚に違うことない情報だからである。それは主体が他者の精神を自己の心的領域に事実対応的に所有できないからである。まず、前節で確認した通りに、主体は対象の観念連合、即ち心的領域や他者の自己という作用を認識できない。可能なのは自然的な情報の認識に過ぎない。そこから形成される観念としての主体の所有する対象の精神は不完全である。不完全であるというのにどうして好かれる、避けようとする、といった意志や感情を類推できようか。それは上述の通り「恋愛」が足りないのか。否、それとは事情が異なる。なぜならば、愛が足りないときには振り返って価値の体系を改訂すれば愛の条件を満たすように振る舞うことが可能である。なぜなら、その時問題になっている利益についての十分な事実対応的情報をそれによって所有できるからである。一方で恋愛が足りないときには、修正や情報の追加をしたところで、対象について完全に理解したことにはならない。相手はこのときこう思うだろう、ということが対象の言明によって否定されたからと言って、それは対象の一部の精神に関して事実対応的な情報を獲得するだけで完全ではない。恋愛を満たすには、対象のあらゆる好むこと、忌避することの項目を網羅する必要がある。そうでなければ、そのようにすることを厭わないことを自覚不可能であるし、実際的にさく振る舞うことはできない。
ここで、一緒に過ごしていくことで少しずつ互いのことを分かっていく、それが恋愛なのだという反論をする者も諸君にはいるだろう。この反論は意味をなさない。なぜなら、ここで定義された恋愛の内容にそのことは含意されないからである。しかし、そうした内容も恋愛には多分に含まれるかもしれないから再反論をここで試すことにする。それは、少しずつ分かっていくというのが終着するところは完全な理解ではないということである。相手の好むこと、忌避することを可能な限り認識していくことができたとしよう。しかし、都度対象が主体を好むか、避けるかは別の問題である。なぜなら主体が獲得しているのは好き嫌いの情報であり、作用それ自体ではないからである。他者の自己という作用が如何に振る舞うかは都度の文脈にも依存する。これは利益にも言えたことかもしれない、しかし利益に関しては宗教的経験という神聖な強度での結びつきを持った体系があるのだからその文脈依存の傾向は弱いだろうからここでは無視可能なものとする。一方で感情や意志についてはその時点ごとの外的情報によって作用され情報が形成されるのであるから、文脈依存する。いわば通時性の強度の問題であった。そうした文脈依存の情報について、少しずつ理解していくにしても網羅することは可能であるだろうか。ロマンチストは可能だというだろう。私もこの時点では完全に網羅不可能だと言表できない。それゆえダメ押しの一手を指す。それは潜在的態度の存在である。それは粗雑に言えば無意識と換言してもいいかもしれない。正確には潜在的態度には複数の解釈があるから一概に無意識と換言してよいかは踏みとどまるべきである。いずれにせよ、顕在的に言明されたりすることでは現れない、心的領域における自己の作用が働きつつもそのうちの意識の領域に結び付かない情報連合はあるだろう。それはIATなどによって明らかになっている。もちろん、IATなどで示されるのはその情報の示唆であって、潜在的態度それ自体でないことは確認する。そのテストの結果は単に文字などの延長や色彩などである。しかし、それによる情報が、潜在的な態度自体の情報が対象の精神に対して事実対応的であって偽でも錯覚ではないことは認められよう。そしてそれは主体において無自覚的である。故に対象が、他者がいくら好き嫌いを言明し分かっていったとしても、ただでさえ認識不可能な対象の観念連合や作用の中でも、対象自体が意識に結び付けることのできない情報を如何にして獲得できるとは考えられない。もし経験的にそれを獲得してその情報が事実対応的でも、顕在的な言表によって否定されたらどうであろうか。どこまでいっても主体は対象の精神に事実対応的だと正当化した情報や体系を獲得不可能である。そしてそれが文脈に依存するという。どうして対象の好むところ、忌避するところの情報についての観念が錯覚とならないのだろうか。利益ほどの強度を持った情報でない情報を対象とするのであるから、恋愛の扱う情報は錯覚とならざるを得ない。たとえ事実対応的なようである情報を獲得しても、それが顕在的意識と潜在的意識との齟齬がないことを認識することは不可能である。少しずつお互いのことを分かっていく。確かに分かっていくように振る舞うかもしれない。しかし、それは確信されるものでもなく、実際的に成功することが担保される行為を導く観念的情報ではない。単に錯覚であるか、少なくとも錯覚ではないかと疑義を絶対にかけなければならない情報である。そして恋愛としてその振る舞いが成功するほどに認識を網羅することは不可能であろう。
錯覚に向かう意志、つまり好まれ忌避されないように行為することを厭わないということはしたがって実際的な、事実的な情報へ向かうものでも、そうしたものに基づくものでもないのだから、有ではなく無へと向かう意志である。無へ向かう意志とは何か。それは実際的な対象を持ちえない意志である。皿の上にないカレーライスを、あるかのように誤認して食べようとするのと同じである。その意志の情報は確かに存在する。故に恋愛自体が情報として棄却されるものではない。実際、恋愛者は恋愛をしている、といった恋愛に関する情報を獲得する。しかし、その実、それは本来的に空虚な情報である。なぜならば指し示す情報の前提が偽であるからである。論理的に偽の前提からは結論を導くことは認められない。含意関係であれば前件が偽であれば論理式全体は真となるだろう。恋愛はこれらに近い。推論に類比されて、全体として無となり、含意関係に類比されて恋愛全体の情報は存在が認められる。内容が空虚な情報である。穴だらけの情報である。
しかし、ここで補足するのであれば、恋愛は実際的効果を持つ。それはまず、恋愛を所有しているということによって振る舞い方が変わることである。それは主体において実際的効果を持つのである。故に、恋愛の情報は真理性と善性を持つ。一方で空虚でありながらも、その情報を連合に保持することで実際的効果を持つのである。というのも、恋愛は空虚であっても情報である限りなんらかのことを指し示すからである。そしてそれが価値の体系にあれば、何らかの更なる意志や行為、身体の運動を引き起こすだろうことは十分に考えられるのであるから。いわば、恋愛はそれを行うことやそれに身をやつすことは本来的に不可能であるが、その観念を所有することは十分に善であるということである。そして恋愛の最大の実際的効果は失恋のときに主体に現れる。そのときになって他者を理解不可能であることを突き付けられるからである。つまり、恋愛の本来的な不可能性の情報を所有できるのである。振られてしまっても次がある。振ってしまうほどであっても次がある。次があると思っている間は恋愛の実際的効果を真に獲得できていないのである。対象の観念連合を認識できない。その情報を獲得できずに錯覚に陥ったままであるなら、事実を経験していないのと同義である。それは真理的でも善でもない。失恋による他者理解への絶望をすることが最大の実際的効果であり、それを踏まえた上で如何に他者へ行為し振る舞うかを思惟することにこそ重要性がある。事実を直視し、経験から事実を認識し、その上で宇宙論や人生の在り方を思考していく。プラグマティストとしてはこれをすべしと言いたい。それゆえに失恋の実際的効果を理解せよと言うのである。
蓋し、恋愛は概念分析をすればこれは空虚である。それは恋愛が恋愛としての情報である限りには空虚であるのである。しかし恋愛の情報に結び付いて、それを価値の体系に置いていたとしても、主体が飽くまで愛の特徴づけの範囲に収まる限りの思惟や意志、認識、行為をする限りではそれが空虚であるとはいえない。恋愛は愛である。故にLに収まるのであれば、そのときは恋愛の情報が活性化していたとしても、実際的であり空虚でない様態である。また、恋愛はそれを主体が持つとき、持たないときに比較してその主体の行為や意志などを変化させるのであるから実際的効果を持ち、その限りで真理的で善である。
故に恋愛とは空虚であるが真理的である。これはいわば概念として考えれば情報としては常に空虚だが、実際性として考えれば情報として真理性を持ちうるということである。
ここまでは凡そ恋愛の概念分析を行ってきた。しかし、重要なのはその実際的効果である。恋愛による実際的効果を獲得した主体に他の問題はないのだろうか。
そこに生じる問題が自由意志との衝突である。
次節では恋愛の情報が活性化した際に主体に訪れる効果と、自由意志との衝突とを確認し吟味していくことにする。

恋愛と自由意志との衝突

恋愛の実際的効果とは何か。先に見たように精神への実際的効果は失恋のときに実際現れる。主体は「他者の精神の情報を事実対応的に観念として獲得することは不可能である」といった情報を獲得し、それこそ事実対応的な情報であるから、その後の主体の自己の作用に影響を与えるだろうし、情報の結びつき方にも変化があるだろう。そしてそれは実際的である。これ自体は自由意志とはなんら衝突しないことである。むしろこれは後述する自由意志との衝突からの解放でもある。
恋愛が、その情報が活性化している状態、すなわち主体が恋愛をしているという情報を所有しそれに従っている様態にあるとき、その実際的な効果はどうなるのか。それは恋愛の特徴づけに立ち返れば分かることである。つまり、錯覚であれど対象に好まれるように避けられないように、自らに形成した対象の持つだろう価値の情報の体系を以て思惟、意志、行為するようになるということである。相手の好むような容姿になろうと努力をしたり、相手が嫌う性向を出さないようにしたり、といった具合である。しかし、こうした実際的効果こそが自由意志と衝突する最大の要素なのである。
自由意志とは、決定論的世界観を拒み新奇的なものが形成可能であるということだと言われる。これについては、上記の作用に基づく情報の生成が当てはまるようである。しかし、実際のところ情報の生成と言うのは決定的でないと断言できるわけではない。作用が更に大きな情報――純粋情報によって統制されるものである可能性は捨てきれない。故に、情報の生成が必ずしも自由であるとはならない。むしろ私の考えでは基本的に作用は決定的である。それはそこに実在する情報が決定されているためである。しかし、完全に何らかの情報に作用が統制されるわけではなく、パースの思想に基づきながら、そこに偶然が存在すると主張したい。そうでなければ原初の――あるいは初期の純粋情報の生成が考えられないからである(もちろん純粋情報に端があるものかはさらに吟味するべきである。しかし少なくとも連続性を持つものではあるだろう)。即ち、ここには偶然の法則とでも言うべき作用が現れることが考えられるのである。それゆえに完全な決定性に世界が支配されているわけではないのであろう。これを踏まえた上で、自由意志とはどういうことが言えるかといえば、それは情報である。つまり、ある主体の観念連合やあるいは身体の連合に存在する、その連合が他の連合の作用に――つまり他者の自己の作用によって被作用しないという情報である。この情報は我々の自由意志に対する直観にそぐうものとなろう。自由意志と言うときには、他者に支配されていない意志を創造する。それは自己によってなされた意志であることを否定することはないだろう。実際のところ、これは不可能である。なぜなら情報は本来的に連続的であるからであるからである。しかし主体という連合を認める限りにおいては、これは作用の仕方の傾向性を示す情報として確かで実際的である。我々が意志を生成するとき、それが他者の作用によって生成され自らの作用に一切依らないとどうして考えるだろうか。それゆえ、自由意志と言うときの必要条件の一つは他者によって生成されたものではないということである。
これが如何様に恋愛と衝突するのか。まずは愛と自由意志との関係を吟味しよう。その上で恋愛が自由意志とどのような関係を持つかを考える。
愛はそれ自体、自由意志と衝突しない。なぜならばそこには一切他者の作用が措定されたものであっても完治するものではないからである。愛は主体が対象の利益となることを最大限行為することを厭わないことであった。ここに作用はない。措定された価値の体系は情報であり、作用があることは無い。いわばそれがどれほど事実対応的であれなかれ、実際のところそれは死んだ他者と言うべき、自己無き作用無き連合である。故に、愛はその特徴づけの上で一切自由意志と衝突しない。自由意志は他者の作用によって主体の意志が決定されないことであった。そして愛には他者の作用がそれ自体にない。故に共存可能だと言える。これは例えば主体が他者の価値の体系を自己の観念連合に結び付けており、他者がから揚げが大好物だと知っているとしても、それを作ることを行為することを最大限厭わないと言っても、それをするのは他者の意志によって唐揚げを作るのではなく、偏に尽きぬ愛によって喜んでほしい、彼が喜ぶ表情の情報を獲得したいといった情報の下で選択するであるから、決して他者の作用が介在するような自己の作用ではないのである。むしろ一切は他者の作用から離れ、全て自己の作用によってなされる意志であり自由意志と呼ぶに十分値する様態である。同様にしていけば、愛というものは自由意志と衝突しないものであることが分かるだろう。従って、ただLに則った情報である限りでは自由意志と衝突するようでないことが示されるのである。
愛はそれ自体自由意志と衝突しない。では、その中でRをも満たす愛である恋愛は自由意志と衝突しないのだろうか。実際のところ、これは衝突するのである。まず第一に、恋愛は対象に好まれること、忌避されないように最大限行為することを厭わない様態である。これがいくら空虚な概念であっても実際的効果を持つのであるから、その影響による意志は十分に考えられる。恋愛の情報が活性化しているために生じる意志は、その特徴づけからも明らかなようにあり得ることだろう。重要なのは、ここで措定されるのは他者の精神であるということである。そして、実際のところそれは単に観念連合を指すのではなく、好む・忌避という言葉からも分かる通り、他者の作用をも主体の観念連合に情報として結び付け、かつ都度そのたびごとにその作用を再現するかのように主体の自己という作用が振舞うことをも指すのである。そうでなければどうして主体は他者の好む、忌避する、といった意志や感情を前提として意志や行為、思惟を形成することが出来ようか。もし対象に好まれ忌避されないようにするのであれば、それを為すための前提となる情報が必要となる。無から必要な情報だけが主体の観念連合に発生するということは無い。凡そ必ず作用によって形成されなければならないだろう。これは措定されたものである。それは前節を見れば明らかであるが、主体は対象の観念連合や作用の仕方について事実対応的に、完全性を以て認識することが不可能であるからである。錯覚とも言うべきその再現された連合や作用の仕方は――結局再現されたような、主体における他者の作用は主体の範囲においてなされるのだから自己の作用に過ぎないのだが――自己の作用に影響し、意志の形成を統制するだろう。そうでなければ恋愛とは言えない。そうでなければ最大限厭わない、という特徴づけに反するからだ。そして実際これは現実にそぐう者であろう。好かれるように行為しようとするのであれば、かく行為する場合相手はどう考えるか、と心でシミュレーションをしてから行為するだろう。習慣化されればその行程は省略されるかもしれない。しかし、第一にはシミュレーションが介在するはずである。そうであるならば、それは対象の精神の情報の連合を措定し、その作用さえ措定して想像しているのであるから、上記の私の説明は十分に恋愛の様態を説明するものであろう。そしてここに自由意志との衝突する要因がある。なぜなら、そこで起きていることは、措定された、もしかしたら非事実対応的なものかもしれないが、確かに他者の作用なのである。前節で、それゆえに恋愛の概念は空虚だとした。しかし、それが実際的に主体の情報に影響を与えるときには、確かに措定された他者の観念連合と作用が自己において働いているかのように振る舞われるのである。そうであるならば、決して完全な形で矛盾することではないが、自由意志と衝突することは考えてよいだろう。何故なら、そこで生成される意志はまがい物であっても他者の作用によって生成されたものだからである。少なくとも、措定された他者の作用が自己の作用の一部であっても、完全にそれが純度十全であるような自己の作用だとは言えないだろう。少なくとも他者の作用が介在するかのように振る舞っているからである。他者がこう考えているだろう、という考え自体が自分の思惟と認めることは直観に反するものでなくとも、他者がこう考えている、と考えているとき、その「こう」を考えるのは主体と他者の連続間のどこかであると認めることが直観にそぐうだろう。
そうであるからこそ、恋愛は自由意志と衝突するのである。自己とも他者ともつかないような、非自己的作用によって意志が形成されているというのに、それが完全に主体の統制下にあるような自由意志であると言えるだろうか。
少なくとも、恋愛を完全に肯定するとき、自由意志はその権威を消失し、自己の要件に、ここで言えば自己の作用の仕方の一端に、含まれなくなってしまうだろう。一方で自由意志を完全に肯定するならば、他者の感情や意志を第一にする恋愛を、恋愛の過程の様態において確実に実際的に自由意志はこれを認めない。
例えば、職場で自社商品を売る際に、相手からの印象を好くして、うまく売ろうとすることなどは、他者の感情を措定して行為するのだから恋愛と同様に自由意志と反するのか、という反論が考えられる。これは自由意志と反するものでない。なぜならその意志の生成は自己の利益が前提にあるからである。つまり、自己の利益の為に他者の感情を措定し、そうして行為するのである。これは他者の感情を措定する必要性は必ずしもない。例えばマナー、と言って特定の手順を踏むことで利益を得られるというのであれば、そのとき彼は感情を都度措定するだろうか。多少なりとも印象を考えるとしても、本来的にはその主体は対象から好まれることや忌避されないことを意志しているのではない。彼の情報で活性化しているのは自社製品を売ることである。その活性化によって、その情報と結びついている相手の機嫌を損なわない方が良い、という情報が二次的に活性化されているのであって、それ自体生成される意志は他者に支配されるものではない。それは単純な愛のときと同様で、利益を考えているだけであり、愛の対象が主体自身となっているだけである。他者の感情などを措定しているとはいえ、そこに向かっておらず、利益さえ得られるなら嫌われようがなんだろうが本質的には良いのだから、この事例は十分な反論にならない。恋愛の場合は好かれ忌避されざることへ意志が向かうのであって、好まれ忌避されずに済むということが達成されない場合、それは恋愛の失敗である。上記のビジネスの話とは根本的に内容が異なる。好まれる、忌避されない、ということの実際的な効果と実際的な内容が両者で異なるのだから、これらを並べ立てて自由意志との衝突を語ることは成功しないだろう。実際、ビジネスにおいて自由意志は損なわれないのだから。それはそこでの情報の活性化は主体の利益の話であり、他者の感情や思惟、いわば身体の背後の精神が如何様であるかはどうでもいいからである。
恋愛がかくも自由意志と衝突すると言うのはそれが第一にあるところが、特徴として逃れられないことが、他者の精神や作用によって自己の意志に影響が確かに与えられるところにある。それでは、この衝突の解決方法はあるのか。まず、調停することは不可能に近いと考える。実際の恋愛の様態を考えれば、Rから逃れることはできないだろうし、自由意志を特徴づける際に自己の統制下でないということは直観に反するだろうからである。もちろん手立てがないわけではない。自由意志が超自己的、つまり純粋情報に立ち返って情報が連続的でることに回帰し、自己と他者の作用を区別しないようにすればよい。しかし、このときには、その愛は確実に自己愛に帰着するものであろうし、もはや主体も対象もないものであるということである。これは十分に認められる方法であるが、諸君の宇宙論や主義に反することも十分に認められよう。
故に、ここで提示するのは短絡的な方法である。それは二者択一の方法である。ここでするのはその選択による実際的効果の違いについての説明である。それによって諸君がいずれかを選択し考えを深めてくれれば十分である。
第一に自由意志をとる場合である。この際には恋愛は棄却される。自己の作用する範囲での他者精神のシミュレーションは、全て二次的でありそれが行われなくとも良い。これは他者を単に感覚可能な限りでのみ認識し、その背後の観念連合や作用について主体では情報としては思惟されるがその活性化の傾向性が低くなる。それはいわば自然に観察的であり、事実に向き合っているのであり、科学的ともいえる。一方で愛自体は棄却されないから、他者への温かい感情も担保される。しかし、それが真に対象の利益となるのか、対象が嫌悪しないのか、ということは関知されない。これの究極は独善である。もちろん、自由意志をとる場合でも、他の要素を併せることで独善を回避することができるかもしれない。しかし、自由意志と恋愛だけを比較する場合、恋愛を棄てると独善に走ることは十分に考えられる。なぜなら、彼は好かれることも忌避されないことも、共に些事だと考えるからである。また、このとき恋愛とされてきた内容は錯覚であり、偏に他の愛であるか、自己の利益に帰ってくる、とすれば十分である。それと恋愛とは実際的な効果が異なることは無いことは、上記のビジネスの例を鑑みれば説明されるだろう。故に、恋愛を考えるか、自己の利益と他の愛として考えるかは気質の違いであり、もし恋愛を棄却するなら自由意志を妨げないままにこうした考えを採択すれば十分である。
第二に恋愛をとる場合である。この際には自由意志が棄却される。自己の作用に、実際は自己の作用と認めることができないような作用が含まれることを厭わず、されど対象の精神をシミュレーションしようとするのである。これは感覚的でない情報に対して観察的で思惟が深く、実際それによって対象の振る舞いを確認し情報を獲得しているのだから実際的な効果や利益がある。それゆえ、確かに本来的に、完全なシミュレーションなどは不可能であるが、一方でその過程における、理解をしようとするような振る舞い、そしてそれに基づく実際的な行為と効果があるのだからそれは善である。しかし、自由意志の棄却は直観に反する。もしここで自由意志を棄却した場合、例え本質的には自由意志などなく約束の情報としてあるだけであったとしても、これに基づく他の約束や情報に関してもそれを崩壊させることを覚悟すべきである。まず、権利などというものは過去になるだろう。それは実際の我々の振る舞い方に変化を与えるだろう。しかし、それが自由意志の棄却こそ現実に即しているとするならば、自由意志を認めることの方が不義理であるのだから、これには善がある。
まとめるならば、自由意志をとれば現実に対して観察的であるが独善的になり、恋愛をとれば自然の背後に観察的であるが、自由意志に基づく他の利益を齎す情報を崩壊させ得る、と実際的効果が異なる。これを踏まえて諸君は立場の決定と反論の思考をすべきである。本稿では偏に自由意志と恋愛を並べて比較したが、この世界の情報はこの二つだけではないのだから他の情報の影響もまた十分に勘案されるべきであるのだから。

結論

恋愛は概念として空虚であった。それはその特徴づけから前提が錯覚にならざるを得ない点で本質的に不可能的であり、情報としては内容が無いに等しいからである。しかし、それは実際的な主体の行為に変化をもたらすのであるからそれは道具主義的に考えて真理であり善である。概念と実際的な効果の勘案によって恋愛はこうした性質を持つことが分かる。
加えて、恋愛は自由意志に衝突するのであった。なぜなら恋愛はその実際的効果において主体の統制から離れたかたちでの意思の形成をするからである。そして両者を調停することは難しいものであり、一方を選ぶときには実際的な効果の違いがある点で侃々諤々すべき論題であるということであった。
結論付けるならば以上である。
最後に私の考えを簡潔に示す。もし自由意志と恋愛を二者択一の場に放り出すのであれば、自由意志をとるべきであると考える。なぜならば我々の思考の改善というのは、最低限の修正と最大限の保持を要求するからである。我々の観念連合が新奇な情報と結びついたときには、連合全体を最低限の修正にとどめ、最大限連合の結びつきや情報の内容が変化しないようにするのである。そうして少しずつアップデートされていくのである。この事実に則るのであれば、自由意志をとるのが良い。なぜなら恋愛をとった場合には自由意志に係るあらゆるものを修正する必要があり、それは夥しい数である。一方で恋愛を棄却するのであれば、ただ好まれるように、忌避されないようにという様態は錯覚に過ぎないとするだけで、本質的には自己の利益に帰ってくると認めればよいだけである。それは比較して最低限の修正であり最大限の保持である。なぜなら、それは上に示した通り、気質の違いであり、自然への認識の決定的変化ではなく、見方を多少変えるだけであるからである。故に、私見としては自由意志を採択し恋愛を多からず少なからず棄却すべきであるとしたい。
本稿で扱った問題は十分でないことは明らかであろう。故に諸君に要請するのは、まず愛の哲学をせよということである。そうでなければこの問題をより詳細に語れない。単に慣習として恋愛をせよと言うのでなく、実際的効果を考えた上で確かに恋愛をせよと言うのであれば、この問題に取り組むべきである。また、恋愛を経験したものこそこの問題に取り組んでほしい。恋愛と言っても諸君らの経験は私の経験とは異なるであろうし、それゆえに異なる考えを実際的に示せるだろうからである。
私は諸君に期待を寄せて本稿を結ぶことにする。


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