価値の認識

偏見ではあるが、多くの人間で顕在的に宗教への意識を向けるような人は多くないように思う。というのも、科学の席巻によって宗教的なものの価値は少しずつ錆びたものになってきたからである。今でも熱心に信仰を行い、それを第一にする者は多い。そしてそれ自体が絶対的に貶められるような対象ではない。しかし、こと科学を重要視する「近現代」社会においては宗教的価値は全体として後退せざるを得ない。宗教的価値の撤退は単に科学によるものではなく複合的な事由を以て宗教は日常から顕在性を失っている。ここで提起したいのは、宗教的なものが人間精神から真に切り離されうるものであるのかという問題である。エリアーデは人間を「宗教的人間」として人間を特徴づけた。これは自然本性上人間が宗教から切り離されない対象であることを示すが、それは何か人間概念に確実に宗教性が付帯するような、抽象的な、形而上学的な説明をしているわけではない。それはむしろ認識や存在の様式上不可分であるという主張であった。人間はおしなべて聖なるものを軸にしなければ時間も空間も認識できないというものであり、それ以前は無秩序の混沌であるのだという。本稿で私の主張するところは、ここまで徹底したものではない。しかし、宗教性なくして人間は価値に関する認識が不可能であると主張したい。我々が価値を語るときには、一種正当性をどこか欠いたような、「信じる」ことを基盤にすることを余儀なくされるのだと。

科学は元来宗教的なものを排したがる。なぜならそれは観察不可能なものであり、科学の仕方では正当化できない対象だからである。大きいところで言えば、聖変化は科学の見方をすればそこに変化はない。科学的な知見から言えばそもそも物体に変化は、少なくとも「聖なるものになる」ような変化はないのである。変化と言えばせいぜいパンと空気の接触に関するところで唯物的な変化である。小さいところで言えば、宗教的な個人的経験も、それは科学の言葉では沈黙しなければならない、あるいはそもそも認めるところのない対象である。神秘主義的に神的対象と自己との連続性を感じる絶頂感は普遍的に観察されるものではなくまさに個人的な経験であって、決して科学的文脈に落とし込めるものではないだろう。いずれにしても、神的対象をそれ自体として科学の文脈で語ることは難しいように思われる。これは科学の正当化の方法が観察によるからである。つまり、実証的でない対象はすべて排除する性格のために、宗教は、宗教的経験は、神的対象は、神聖なものはその範囲から追い立てられている。これは何か科学哲学などに通じた者ではなくとも、少なくとも科学についてある程度の印象を抱いている者であれば直観される内容であると思われる。
ここで問い質されるべきは、科学それ自体に宗教的性格があるのかというところである。科学は実証規則によって正当化するのであった。従って科学が科学自体を科学たらしめるにはその正当性が観察されるべきである。これはつまり、実証規則自体が実証されるべきであるということである。リオタールに触れたことのある者であればきっとここで何を言おうとしているのかが分かるだろう。つまり、実証規則が正しいと言うことは、「この」宇宙においてそれが正しいということは実証されえないのである。どうやら観察されることを一定の真理とすることは現代において知識と言える対象である。しかし、それが実際真理であることは「この」宇宙が終わるときに振り返ってみて初めて分かることである。それまでは、たまたま今どうやら真理らしく思われているだけで、もしかしたら数日後には実証規則の正当性など崩れ去るかもしれない。太陽は常に東から昇るが、明日は昇らないかもしれない、という典型的な杞憂は、この実証規則に関する問題では単なる杞憂としては認められないのである。科学は近代以前においては啓蒙思想などによって支えられ、近代以降は自己正当化すると言う筋書きはリオタールのものである。この妥当性がどこまで正当化されるかは保留するにしても、実証規則による科学の自己正当化は、当座の宇宙において、我々によってなすことでは、現在不可能なものであるといえる。
では、科学の内にあるものが科学的であっても、科学それ自体が科学的でないのなら、科学それ自体はどういう範疇にあるのか。本稿では端的に宗教的対象と認める。科学は信念を生み出す。この信念は人間生活に実効的な影響を与える。しかし、その信念の正当性は実証規則からきていた。その実証規則は真に正当化されず、科学を正当だと考えるものによって正当と認識されているだけであって、このとき宗教的教義と作用に違いがない。故に科学的信念は宗教的信念と同様の特徴を持つ信念である。宗教的経験とされるものと科学的な経験とされるものに差はない。石灰水と二酸化炭素の入った、密閉された容器を振って混ぜると石灰水が白くなる、という実験は科学的である。これを科学的と感じるとき、これは聖変化と何が異なるか。目に見えるから聖変化と異なるのか。しかし目に見える、つまり観察できることで正当化されるということは実証規則の第一のことである。ところで実証規則はそれ自体正当化されない。故に目に見えることは何かこの変化を科学的とするだけで、真理とするものではない。その点では宗教的真理とこの信念は何ら変わりない。では、化学式などで表現でき、そこに正当性があるから聖変化と異なるのか。化学式は何に正当化されるか。それは実験である。すなわちその根拠は実証規則に依存する。従ってこれは同様に宗教的信念とその様式は変わりない。いずれにしても、科学として正当化される限りにおいてその信念の一切は実証規則によって必ず正当化される。故に、その正当性の根拠自体が科学において正当化されるものではないために、従って科学の内部の信念は科学的に正当性を持つのであって真に普遍的な正当性を持っているとは言えない。それを経験することは聖変化のような宗教的経験と直観では異なるかもしれないが、実際のところその信念の様式は同じものである。科学的な信念や経験は、科学を、実証規則を信じている限りにおいてそれが真とされ正当化される。石灰水が白くなったことについて科学的説明をするのと、聖霊の奇跡であるとするのは本質的にその正当化や論理において大差がない。
とはいえ、大半の宗教的説明より科学的説明の方が説明において優れているように思われるのは確かだろう。なぜなら、そこには超越的対象は存在せず、我々の知りうる自然の対象だけで十分に説明するからである。それはまさに実証規則の正当化の恩恵である。その点で無根拠で信仰的な正当化であっても、我々にとって「優れた」正当化である。実際、現在のところ科学が失敗していることはない。それはマッドサイエンティストや事故が存在していないことを意味するのではない。科学は現在に至るまで、実証規則の正当化を傷つけられることはないのである。観察され、それを真理として間違ったことは無い。例えば当時の科学的説明が後代になって否定されることはある。ニュートン力学と相対性理論、光のエーテル理論と波動理論、粒子理論などを考えれば良い。これらは実証規則自体を傷つけるものではない。科学に言わせれば観察の仕方やその解釈の誤謬、包括であって実証規則自体が誤っているわけではない。総じて、科学は自己正当化はできないが、科学の範囲にある信念や経験は「当座において」十分に正当化された真理とされているのである。その信念の正当性は普遍的でない。飽くまでその「信仰者」が実証規則を信仰する限りにおいてそれは十分に正当化されているのである。その限定的な正当性も、実証規則の正当性を自己正当化できないために、いつ崩壊するかもわからない。もちろん、それは「この」宇宙において初めから終わりまで正しい規則かもしれない。しかし、それが正しいことを観察することは我々には不可能であり、例え啓示されるとしてもそれが明かされることを待つことは、来世の審判を待つことと同じことである。
重要なのは真に正当化されていない対象を利用したり信じたりすることが悪ではない、ということである。実際に科学を信じて利用している我々はそれで日常が有益なものになっていることを実感している。それをどうして悪と言えるだろうか。もちろん科学には倫理的な問題も散見される。しかし、科学それ自体を信じることは悪とはならない。正当化されているだろうことを十分に信じることは悪ではない。たとえそれが実際のところ誤謬であったとしても、それが正当化されて真理として振舞っている現在においてはその営みを自体的悪とすることは、一層正当性のないことである。いつか誤謬が明らかになったときに、顧みて悪とすればよい。なぜならば現時点で科学が誤謬であるかどうかさえ真に我々は認識できないからである。どうやらうまくいっている。これが事実である。
そしてここで主張されるのは、科学が宗教的性格を持つということである。科学における神聖なものとは何か、それはまさに不可侵たる実証規則と言えるだろう。では科学に神はいるのか。神的対象は存在するのか。この問いについてはその問いの実際的意味を調べる必要がある。不動の動者のような哲学的神、救済者としての人格神、こうした神がいるのかということであれば、科学に神はいない。科学は神聖不可侵な実証規則を掲げるが絶対者の存在を確定的に、盲信するように、言及することは無いだろう。一方で、科学の神らしき対象が、絶対的な法則の絶対性から感ぜられる限りでは、つまり、我々の側が解釈する限りでは神は存在すると言える。科学の世界においては、実在はせず、しかし心的に神を存在させることは可能であるだろうと言う解釈である。これは「高度な」アニミズムである。実際、重力定数は絶対的な対象であり、これは「この」宇宙においては少なくとも不可侵で、我々の行為を支配し、しかし我々に支配されない。これはある意味で神的対象と言える。なぜなら、その根拠自体は不明であるのに、実際的な利益の為に信じていて、そして実際的に有用であるからである。これは寺社仏閣から賜ったお守りや破魔矢と同様である。しかし、こうした神的対象は、主体がそれをどこまで「神」というかは別にしても、実際有用である点で善いことであるし、意味のある対象である。
畢竟、科学は神的対象自体の如何はその科学の成員各人によるとしても、神聖なものは存在し、かつその性格は信仰的である、宗教的である。上記においてこれは類比のようであるが、それは他の宗教と科学が同一の宗教的という枠組みにあるからであり、決してアナロギアの作用ではない。同一の枠組みの下で本来成り立っている者たちの構造を比べれば、それは同様の構造を為しており、一見類比に見えるのは当然のことである。
もちろん、科学が宗教的であると言うことを棄却することは可能である。例えばこうした反論はできる。それは、科学の正当化を外部に依存する方法である。つまり、科学の文脈で科学を正当化するのではなく、全く異なる文脈を以て科学を、あるいは実証規則を正当化するのである。これは上記の根拠づけに対する決定的な反論である。なぜなら、以上で科学が宗教的であるということは概して科学が自己正当化することから導出される特徴を基にして主張されているからである。故に、この反論が十分に論証され、実際的にも成功するのであればこうした科学に対する考えは打破されるだろう。再反論としては、次が言える。それは、その科学を正当化する外部の文脈が宗教的なものを一切排しているのか、ということである。もし宗教性を帯びるものであれば、その文脈に包摂されて正当化されるであろう科学も宗教的であることになる。近代以前に啓蒙主義が盲信されそれによって科学が正当化されてきていたことを考えれば、外部依存ということが一概に非宗教的正当化であるかは疑うべきことである。
科学が自己正当化できないために、こうして宗教の様態を示すと言うのはさほど真新しい主張でもない。しかし、これから主張することにおいて重要な要素であるために以上で確認した。

本題に入ろうと思う。
本稿で語ることは宗教的なこと、神的対象なくして価値認識は可能であるのか、ということについて否定を突き付けることであった。
まず認識するということがどういうことかを、少なくともここで何を意味するのかということを示す。認識するということは、ある情報が別の情報と結びつきを獲得することでそれら自体とは異なるが、その情報を構成する単位をある程度継承した異なる情報を生成し、かつその新しい情報がもとの二つの情報と結びつきを獲得する、ということが認識主体とされる一定の作用と情報のネットワークを持った領域に対して、あるいはこの領域において行われるということである。これは余りに私の言葉が過ぎるため―あえてこうしたのは初めからこれから行う換言した説明を提示すると、却って誤解を招き得るからである―以上の言葉を念頭に置きつつ、別の言葉で説明を行う。まず、ここで必要なのはある主体である。認識をする際には認識をする主体が要求される。この主体をここではあくまで特定の特徴を持った情報のネットワークだとしている。簡単の為に言えば、単純に人間を想定すれば十分である。認識には認識対象も必要である。この主体と対象があるときに、なんらかの結びつきを両者が行う。それは例えば感覚による結びつきである。これは認識主体――人間とその外在物とで起こる認識である。例えば外在物と人間の身体が接触する。そして触覚器官に触れた場合、電気信号が神経を通して脳に情報を伝達する。そしてそのとき、脳に心があるのか云々のことはおいておいても、人間主体がその情報を受け取る。このとき、いわばある人間の精神が外在物の感覚を受け取り、知覚をすることになる。そしてその知覚の際にその都度新たな情報が生じる。それは主体を中心とした情報であり、主体がその時生み出す、心的な情報である。即ち、信念などである。知覚以前には「この」宇宙に外在物とその主体との関係とを記述する情報自体は「客観的に」存在していた。しかし、当の知覚に際して新たに心的に情報が生じる。そしてその情報はこのときの外在物の情報を一定程度継承することになる。リンゴを知覚するとき、それによって生まれる観念、信念が当のリンゴと無関係であるとき、それは認識だとは合意できないだろう。また、主体の情報も新たに生まれた情報は継承する。なぜなら、第一にその主体が知覚したということ、という情報が組み込まれているし、ある程度認識を経た主体においては、その認識の際にそれ以前の知覚による負荷を受けるだろうからである。記憶による負荷と考えても問題なく、それは所謂潜在バイアスと俗でも、あるいは心理学の用語でも呼ばれるものである。そして、その情報はもとの情報すなわち主体と外在物と結びついている。それは新たに生じた情報が両者に依存していることもあるし、特に主体に対しては、主体の心的な他の情報、例えば記憶、信念、知識といったものと結びつき、一つのネットワークの構成員となるからである。これら一連の流れで認識は行われると考えることにする。もちろん、これはかなり欠陥のある説明である。しかし、認識することとは何か、そして知識とは何か、主体とは何か、それらと宇宙との関係性とはどのようか、ということは本稿の趣旨とは異なる。本稿では認識と神的対象、宗教性との関係を述べるのであるから、概略として以上を認識の特徴づけとしたい。
この認識にどうして宗教性が関係するのか。端的に言えばそれは価値の認識において絶対者として関係するのである。認識によって生じる情報は、その質において異なる。例えば、価値に関する情報、外在的事実を記述する(しようとする)情報、美醜に関する情報、などである。このとき、宗教性が関係し、支配するのは価値に関する情報である。価値とは何か、といえば、ある主体にとって重要なものであり、その主体の意志、行為に負荷を与える情報である。価値の情報は大まかに正負があると捉えてよい。あるいは0から1までと考えても良い。負であると示すほど、その情報と強く結びついたり、表示したりする情報を重要視せず、それにまつわる行為や意志を主体が否定するようになる。反対に、正であると示すほど、それにまつわる情報を重要視し、そうした行為や意志を積極的にとるようになる。そして、価値の情報の度合いは連続的であると考えてよい。少なくとも単純に二値とするものではないのは直観で分かるはずである。ある行為に向かおうとするとしても、例えば食べることと寝ることとでは、その積極性に差異が生まれることは想像しやすいだろう。この価値というものはまた文脈によって変化するものである。それは社会的なものや文化的なもの、時代的なものといった大きい文脈でも、個人的な状況や気分といった小さな文脈でも良い。空腹な時と苦しいくらい満腹な時では食事をとる、ということに対する価値は変化するはずであろう。都度変化する価値の情報は何によって規定されているのか。それが正に宗教性や神的対象である。第一に我々が価値を感じるとき、それはただそれに向かえという情報である。幸せになるということに価値を感じるとき、その情報はただ幸せに向かうことを示唆する。そしてその根拠づけは何もない。ただそこに価値を感じそこに向かう。空腹であるときには食べよと向かわせられる。それは我々が特定の状況や出来事、概念といった情報を認識することにより、価値の情報を生み出すことで起こっている。幸せという概念を認識したとき―それは反省でも、あるいは文字を読んで理解した場合でもいい―その情報を認識して、主体において結びつきを得たとき、同時にその結びつきによって価値の情報が生じる。それは正の価値であり幸せに向かわせる情報である。価値の情報は認識によって生じて、かつその価値の情報は認識されるものである。もちろん、これは顕在的な認識か、あるいは潜在的な認識かは問わない。我々の意識の下に現れない、浮上しない価値の情報は実際にある。ある立場としての潜在的態度がまさにそうである。ところで、この価値の情報は文脈に支配されるのであったが、これが生み出される認識の際にこの特徴をなすのか。これは十分に特徴を反映している。なぜなら、認識の際には認識主体の情報を一定程度継承しているのであった。これが文脈として解釈されるのである。空腹を感じているという情報が引き継いでいるために、(今)食べよ、とするような価値の情報が生み出され、主体はそれを認識する。文化のような大きな文脈でも、その文化を主体が享受しているということで、外在の「文化」にまつわる情報が主体に文化の情報が存在しているため、その主体の情報が負荷することになる。それゆえ文脈はここで妥当に説明できる。こうして価値に関する情報の認識の仕方を示した。これはどうやら主体にのみ生じるようである。認識はある主体において行われるのであるから、価値の情報が生じるのは主体の心的領域でのみであるかのようである。これは私の考えでは正しい。社会的価値、文化的価値――あらゆる普遍的価値は実際のところ発生するのは或る主体、すなわち個においてである。それは上記に示したように、周囲の情報、社会や文化と言えるような外的情報を継承した、主体が保持する情報の負荷によって価値の情報が生み出される。これが我々の言う文化的価値云々である。ここで、文化的価値が生み出され結びつくのは主体の心的領域である。加えてその情報は他の主体の持つ、同様の「文化的価値」の情報とは異なるものになる。なぜなら、認識には各人の、記憶といった個的な情報が負荷するからである。また当然この情報はその価値の示唆する、向かわせる対象についても結びつく。もちろん、こうした普遍性が実際のところ個的なものである立場をとらなくても価値の情報の認識の仕方は理解できるはずである。もちろん、それは認識の仕方に対する上の特徴づけについて十分に理解をする限りにおいてではある。
こうした作用において、件の宗教性や神聖さ、神的対象が価値の情報を規定するのである。価値の情報を認識する際に、その認識に最大に負荷し、あらゆる負荷する情報を最も遡行したときに行きつくのが宗教的なもの、神的なものである。神的なものは価値において軸となり、柱となる。もし、神的な情報を心的領域に持たない主体を考えるならば、彼は価値の情報を生成する認識を行えるのか。これは不可能である。確認すべきは、認識における負荷について、これが無限遡行に陥ること、最終的に行き着くものがないこと、まっさらな状態を考えること、これらを否定する必要性はない。例えば事実を記述する認識については、生まれたての赤子、もしくはもう少し情緒の育った幼子でも構わないが、彼らは十分に負荷するほどの情報を持っていない、あるいは十分な情報同士の結びつき、連合を持っていないが、認識が可能である。一方で、価値の認識となるとこれは無限遡行が不可能である。価値とは行為へ向かわせるだけでなく、ある主体における対象の重要さの度合いの情報も持つのであった。このとき、重要さの度合いは、重要さに関する他の情報という基準をなくして生まれえない。ある一定の基準があって初めて重要さのグラデーションが生まれるのである。もし価値に対する一切の情報をもっていないとき、つまり基準を持っていないとき価値の情報を生み出すことができるのか。それは完全な暗闇にあるのにただ材料を渡され、そこで道具も持たず一から松明を作るようなものである。光を知らないときに、光を為すものを思いつくだろうか――それがいくら微々たるものであったとしても。その暗闇に突如現れた雷と、それによって燃え広がる草木たちを見て始めて、我々は松明の発想を眼前の光によって得た材料から獲得し、今に製作し、それを草木の火に当て光をその手に所有するのである。この雷が正に神聖な対象である。神聖な対象は我々にとって強烈な度合いで認識される。その強烈さが最も鮮明であるのは個人的な宗教的経験、神秘的ともいえる経験によってもたらされたときである。そうでなくとも、ある程度形式化したものであっても、宗教性を持つものは個人がそれを獲得したとき強い経験を与える。教義によって、教育によって――経験の種類は問うことなく、我々に強い経験として神聖なものは現れる。なぜか。それはそれ自体価値の情報を前提にするからである。外在物でありながら、かつ何らかのそうした現象やものは自然にあるとき価値を言わぬと言うのに、我々がそれを認識したとき、絶対的にあたかも元からそうであったかのように価値の情報をもたらすのである。それは主体が価値について白紙であってもである。何故なら、彼らは我々自体に対してこう示す。信じよ、と。それは我々という情報が持つ関数がそう構造しているのである。神聖なものを、宗教的なものを帯びた経験は、そうした情報は、そうした認識は常に信じよと言う。価値の情報を与える。つまりこのとき、その主体にとっての原初の価値の情報となる。そしてこれは論証しきれるものではなく、もはや第一原理とでもしたいのだが(あるいはエリアーデらの主張を参照してほしい)、そうした経験は最高の強度の情報である。価値として第一に現れるものであり、その基準となるにふさわしい強度として、そうした情報は主体に結び付く。その宗教性には、神性さには、感じ取る神的対象にはなんら背後に根拠はない。しかし、それが事実経験されるときに主体に与える効果は存在する。それ故この対象は実際真理とされ、善となる。真理や善と認めなくても良い。しかし、重要なのはこの神的な情報が鮮烈な強度で我々各人の情報のネットワークに結び付き、認識されるということである。そして、信じよという情報は、示した通り、価値の情報であるから重要性を持つ。この重要性が基準となって他の価値の情報の重要性が形成される。時に、主体はこの鮮烈な情報さえ忘却するかもしれない。しかしそのときには十分に、他の価値の情報を認識可能なほど価値の情報を保持しているだろう。そうでなければ鮮烈な経験と自己の他の情報との結びつきを弱めることなどできないからである。他の価値の情報がより主体を突き動かさなければ、第一の「信じよ」に対する反逆はできない。用済みになるまでその神聖さは保持されると考えるのが妥当である。
こうした第一の価値の情報は宗教性を持つと言ったが、それは我々が宗教と俗にいうものに限らない。上記に示したように科学でも構わない。それは親や社会によって善性が説かれ、信じよと迫る。そして実際、何かを観察したとき、それを真と見做すことが、実証されることで真とされることを「信じる」とき、彼は顕在的にでも潜在的にでも科学の信徒となり、そうして科学に「信じよ」と同時に情報が与えられる。科学という、あるいは実証規則という―上記で示したように実証規則というものは神聖なもののひとつであった―ことを認識したとき、これはまさに真理を示しているとして我々に「信じよ」という鮮烈な経験をもたらすのである。宗教的なものと言えば依然として仰々しく思われるかもしれない。しかし、もっと小さなものとしてもいい。親を信じること。これも一つ宗教的と言っていい。親は、その子である主体に親として現れるとき、ただそれは「信じよ」と示す。親は幼子にとって世界の中心、導き手であり、まさに神である。それは神的対象と言える対象、彼のなす教義、信徒たる幼子があり、そして親は「信じよ」として鮮烈に幼子には認識される。これは小さな、小さな宗教性である。賤しくも大人になった我々が捨て去った、かの「信じよ」である。構造はまさに宗教的である。そして幼子は、この世界において導かれていく。それが社会において悪に向かうものであっても、幼子はただ別の社会的価値を知るまで信じて親の導くままに向かっていく。彼が経験を経ていくうちに、親の「信じよ」を捨て去るかは彼の意志による。親以上の鮮烈さや、それを弱めるほどの多くの価値の情報を認識したとき、彼は改宗するか、信仰を捨て去るかを決断するのである。それは科学であったり、制度化された宗教であったり、あるいは個人的な神秘的な経験を中心としたもの、宗教的経験だったりと別の宗教は用意されている。あるいは、同時に複数の宗教的なものを価値の基準となるように鮮烈さを保持させ続けることも可能である。多元的に、複数の観点からある対象への価値の情報を都度認識することは十分に考えられる。死者を見るとき、科学を十分に信じるものが科学的に考え死体に対して無機質に対応することもあれば、科学を価値の中心にするように生きている主体も死者を悼み、霊魂を信じ、例えば死者の極楽浄土、天国での安寧を祈るかもしれない。そして祈ることについての価値の情報は、科学的な負荷と霊魂信仰的な負荷で拮抗しつつ生成され主体に認識される。これは二つの「信じよ」を保持しながら両者による負荷を受けたそれぞれの価値の情報の認識を主体が行っているのである。そして彼はその上でなんらかの事由によって、例えば積極的に祈るのであればその霊魂信仰の強度が科学の「信じよ」を上回ったから、など、一方の価値の情報を選び、その価値の情報が示す行為へ向かうのである。宗教的なものと本稿では言うためにそうした対象が大仰なように感ぜられるかもしれない。しかし、この対象は日常生活に親和するようなものであり、ただそこで「信じよ」と迫り、我々が強度として「神聖さ」を認識し、実際信じるような対象である。そしてその構造が正に宗教的というのが妥当だと考えるのである。
以上の神聖なものはどうやら自己の経験によって神聖さを目の当たりにしないとならないようである。では、他者によって提示された「神聖なもの」は、指示された宗教性は価値の情報の第一者にはなりえないのか。実際のところ、こうしたものはなりうる。文化的価値、社会的価値とされるものは、そうしたものの例である。文化や社会も一種宗教的なものである。それらは確かに「信じよ」と言う。それぞれの持つ道徳というものは何か正当性が担保されるものではない。その文化や社会という情報のネットワークを信じている限りで、その主体においてそれら文化社会が支持する道徳たちの正当性が保証されるのである。米粒を茶碗に残すな、という文化的習慣、文化的道徳はそれを包含する文化においてのみ効力を持ち、その外においてはなんら正当性を持たない。これはその文化の中で一定の対象が神聖なものであり、その文化(あるいは社会が)一定の情報を「信じよ」として実際それによる効用が存在し、それゆえ主体がそれを信じているのである。文化的、社会的価値は十分に鮮烈な強度で主体に経験される。しかし、これは提示されることがしばしばある。例えば家庭内での教育、あるいは普通教育によってそうした価値や文化自体を認識し、主体はその情報を認識、保持していく。これは他者の提示なくして成立しない、というわけではない。文化を肌で感じる、社会を肌で感じることもあり得る。そうしてそこに何か侵してはならない神聖さを感じて信じることもある。しかし教育によって提示された、他者という構成概念――ここではその実在性について、存在については語るのを控えるが――によって突き付けられた文化、社会に対する情報を認識した場合もあるはずである。教師によって特定の文化の言表が主体に与えられることがあるだろう。当然このとき主体はその言表を、自らの情報のネットワークに照らし合わせながら認識する。そうして獲得した新たな情報が彼にとって真に神聖に感ぜられるのであれば、それは十分に文化的価値が彼の価値の第一者になるときである。例えば、その町に言い伝えられる教訓が彼の人生に深く刻み込まれたときなどである。提示された言表を基にした情報だからと言って、ある主体が宗教的な経験をしないとは限らない。それゆえそうした情報は十分に価値の情報の基準になりえるのである。

以上において価値認識における宗教性の必要性について説明した。もちろんこれは余りに不十分である。その論証は十分に哲学的だと主張することはできない。それゆえここでなされているのは飽くまで説明である。これを哲学的に説明するには更に認識とは何か、存在とは何か、自然とは何か、宇宙とは何か――そうした我が哲学の体系を、総体を提示する必要性がある。この宗教性の重要性もその体系に組み込まれた情報であるからである。木を見て森を見ずという。これの指し示す教訓とは異なるだろうが、森を見なければその木の生育条件などは理解できない。それと同様である。しかし、十分な納得や賛意までもは求めることを憚らねばならぬとも、一定の理解を求めることはできるはずである。総じて宗教性なくして価値認識は不可能であるということに対しては。
ここで重要なのは、実際宗教的なものなくして価値の情報の認識を主体が不可能であると言うのなら、それが真理だと言うのであれば、そうでない場合と実際的効果の比較をしなくてはならないということである。両者をそれぞれ信じる場合において実際的効果の差異がないのであれば、そのときどちらが真理かを考えることは不毛極まりない。実のところ、その差異はある。もし、宗教的なものに依らずに価値があるとすれば、それは論理的な正当性によって価値が決定されることだろう。そのとき、価値はあるか、ないかが確定される。もちろんそこには、これくらい価値がある、あれくらい価値がある、という具合にある程度の蓋然性を持つだろうが。その振るい分けは個人の領域に留まらない。論理的に価値が検証される、というときの論理は普遍的であるものを指す。故に、このとき複数の主体、特に遍く主体がその価値の振るい分けに参加し内面化する必要性がある。論理による正当性であるとき、その基準は一元的である。論理自体が論理として成り立っているか、そしてその論証が正しいか否か、こうした条件を満たすものは、いまどの論理が絶対的に正しいかは確定できないとしても、正しい一つが導かれるはずである。一方で宗教性を価値の基準に据えた場合、それは究極的には或る主体がその神聖さを強烈な度合いで認識することで成立するのであって、特殊的な基準である。これは認識という作用に依存する点で特殊的なのである。それ故このとき価値の基準は本来的に多元的になる。なぜなら価値の情報は各主体によって負荷するところが異なるために、それ自体も異なるからである。そして、一元的になることも許容可能である。それはあらゆる神聖なものが自然の側で宗教的なものとして確かに連合しており、一つのところへ向かっているときである。そして、こうした一元性、多元性の差異は、当然主体の持ちうる価値の情報に差異を与え、それが指し示す行為に差異をもたらす。このように、価値の基準を宗教的なものとするか否かによって、十分に実際的効果が異なると考えられる。それゆえ、価値の情報を認識するときに宗教性が不可欠であると言う主張は、この点において十分に真理である。

以上が本稿で述べるところである。


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