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『風に立つ愛子さん』日常と非日常


2023年11月19日
『風に立つ愛子さん』(藤川佳三監督)の上映会にお手伝いで参加させてもらった。「西千葉一箱古本市」と一緒に開催された上映会、前日まで雨続きだったから中止にならないか不安だったけれど、会場最寄りのみどり台駅(初めて降りた)の改札を出るとコートなんか着ていられないくらいに晴れていて、こういう日ってあるなと思った。自分ではどうにもならないことが良い方向に転ぶ日。古本市の会場は駅から徒歩3分程の公園で、参加者の方がミカン箱一箱分程の本をそれぞれに持ち寄ってフリーマーケットの形式で販売していた。出店されているお店ごとに本の並びに特色があって、出店者さんとの雑談は、選出された本から想像できる人柄や性格の答え合わせをしているみたいで面白い。上映会のお手伝いといっても、私ができることは会場の準備や受付などで、誰でもできることなのだけど少し緊張。それでも円滑に上映会は進んでいたと思う。


映画は藤川監督が東日本大震災の際に出会った愛子さんとの8年間のやりとりをまとめたドキュメンタリーだった。

震災以降、小学校での避難所生活と仮設住宅での一人暮らしを強いられた愛子さんの姿を映したその映画は、震災の悲惨さを伝える作品である以上に愛子さんという人がどのように生きていたか、という記録だった。そして、そこには否応無く降りかかってくる困難とそれでも続く日常に対する愛子さんの向き合い方が垣間見えた。なぜ震災直後の避難所の小学校で明るくいられるのか、なぜ進学せずに就職したのか、結婚せずに一人で生きるという道を選んだのか。その理由が「分かった」とはおこがましくて言えない、というか言ってはいけないのだろうけれど、考えていたいし、考えている。

愛子さんは「退屈」が嫌だったんじゃないかな。

退屈とは日常だと思う。だいたい同じような時間に起きて、食事をして、ある程度決まった社会のどこかで、同じようなことをする。そして、日常があるということは、「固定されている」ということだとも思う。社会的・経済的・精神的・(身体的)な拠り所をどこかに見いだせたというような感じ。それはその人を安心させるし、「幸せ」といわれるのはそういうことだったりする。でも、日常を得るということは同時に自由を手放すことでもある。例えば社会的な「固定」であって、日常の始まりである結婚を通して皆安心し、(ひとまず)独りぼっちではなくなるけれど、自由は制限される。愛子さんは、行きつく先が孤独だと知っていても、そういう選択がどうしてもできなったのではないかと想像する。
震災は最大限といっていいほどの非日常だ。そしてそれに伴う避難所での生活や、仮設住宅も「仮」という言葉がついているように非日常で暫時的。劇中で愛子さんが「あの津波は、私にとっては、幸せ運んできたの」といっている印象的なシーンがあるが、愛子さんにとって震災は不謹慎ながら日常から逃げて非日常の中に長い間いられるきっかけだったのかもしれない。それでも、不思議なことにそんな仮設住宅での非日常の生活も時間が経つと日常になって、愛子さんは結局一人になってしまう。結婚していない愛子さんはもともと一人暮らしの生活に元通り。その愛子さんの悲しそうな、でもどこかに決意が窺える横顔を私は忘れられない。非日常は、日常があるから成り立つのであって、ということは非日常を楽しむには日常をこなさなければいけないらしい。もうそれはほとんど呪いみたいなものだ。それでも、孤独を引き換えに自由と非日常を求めた愛子さんの気持ちが少しわかってしまう。これから岐路に立った時、愛子さんを思い出すことにしたい。


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