人生は常にこれから

致知10月号の対談やインタビューを読み終え、取り上げられている人たちにいくつかの共通項が見えた。そして、「人生は常にこれから」だと考えている人には次の3つのことがある。


1つは、先入観を持たず、好奇心を持って人生にのぞんでいること。
1つは、根底に「日本人」という自覚があること。
1つは、過去を肯定することで人生を開いていること。


今回、取り上げられている人物のみならず、これまでもそうだが、致知に出てくるような方は、総じて好奇心が旺盛である、ということ。
言葉に書くと簡単であるが、実は好奇心が旺盛であるということは、人生においてかなり重要な要素ではないかと感じている。
私にはまだ両親が健在で有難い限りであるが、二人を見ているといつも好奇心を持って人生を送ることがいかに大切かを感じる。
それは食の場面でよくわかる。
父は、新しいものに対してかなりの警戒心を持ってのぞむ。一方、母は、新しいものや変わったものがあるとすぐに試そうとする。そんな母を父はいつも軽くののしるのだが、私は心の中で、「親父の方がだめだよ」とダメ出しをする(笑)。
確かに新しいもの、変わったものに接した時の恐怖というものは私にはわかる。かつての私がそうだったからだ。しかし、「まずは、とりあえず試してみよう」を習慣にしていったことで確実に自分の世界は広がった。世界が広がると視野も広がる。視野が広がると見えてくるものが変わり、感じ方も変わる。それからというもの、億劫がらずに何でも好奇心を持ってのぞもうというのは、私の信条の一つになった。
世界を股にかけて活躍する人は、その根底に「日本人である」という意識が強い。デザイナーのコシノ氏は、対談相手から「日本の伝統的なお身体のままニューヨーク、パリに行っている」「どこか日本の香りがする」「日本の伝統的なものが確かに根底にある」と評されている。松下幸之助氏は、「ただ、俺は松下幸之助だ」という自己認識では成功するような人物は出ないと。「俺は、日本の松下幸之助だ」という者の中から成功者というのは出ていると言っている。真実だと思う。我々のアイデンティティの根底は日本人であるというものでないと世界に通用しないのである。
コシノ氏は、「未来を恐れず、過去を尊敬して生きる」と発言しているが、これには衝撃を受けた。
このことこそが、これからの人生を肯定していけるかどうかにかかっているからだ。
「人生、常にこれから」と問われれば、おそらく、ほとんどの人が「これから」について考え始める。そして、今よりも明日、明日よりも明後日と、よりよくなっている自分をイメージするはずである。しかし、みんながみんな、それができるわけではない。
その差が、この過去を尊敬できるかで変わって来るのだ。
我々のアイデンティティは、記憶によって支えられている。その記憶は肯定的なものだろうか、否定的なものだろうか。私たちにかかわってくれる一番身近な親の言葉かけは肯定的なものだっただろうか。それとも、否定的なものだっただろうか。
また、物心ついてから、自分で自分のやってきたことにオッケーを出してきただろうか。子供のうちは親のせいだとしても、ある程度、自分というものが見えてきた年齢であれば、自分で考えなくてはならない。さあ、どうだろうか。
しかし、このタイミングでこのテーマをつきつけられたことにとても大きな意味があると感じている。なぜなら、このコロナ禍において、その人の人間力が問われる場面が多々あるからだ。
コロナについては、人によって、あまりの反応の違いに驚くことが少なくない。
ある人は「コロナはただの風邪である」と言い放ち、外に出ることをなんとも思わず、今まで通りに生活をする人もいれば、コロナの騒ぎがあってからというもの、公共交通機関に一度も乗っていない、外食を一度もしていない人もいるという。
もちろん、どちらが良い、悪いではない。人それぞれの価値観があり、それに基づいて人生を送っているのだから、他人からとやかく言われる筋合いのものでもないし、言えるものでもない。
ただ、それぞれの価値観に基づいた選択が、自分以外の人に影響してくるのだとしたら、リーダーという立場にいる者は、自分のあり方について真剣に考えなくてはならない。
なぜなら、リーダーの判断によっては選択が180度変わるわけで、それに左右されるのはリーダー自身ではなく、リーダーにかかわっている人たちだからだ。
となると、これまで以上にリーダーとしてのあり方が問われてくる。
私は、とりあえず、3点挙げたい。


まずは、リーダー自身が生き生きとしていること。
先日、おもしろい記事を見つけた。
このコロナ禍で、多くの人が環境の変化にさらされていて、誰もが多かれ少なかれストレスを受けているが、こういったストレスの多い環境下でも、生き生きとしている人もいれば、そうでない人もいるという。この違いは何なのか、その記事は、3つ挙げている。
一つ目は、急な環境の変化や辛いこと、おもしろくないことがあっても、そこに何かしら意味が見いだせる感覚を持っているかどうか、という有意味感。
二つ目は、自分の身の回りで起こっていることは、だいたい想定の範囲内かなという感覚が持てるかどうか。全体のプロセスをざっくりと見通せるかどうか、という全体把握感。
三つ目は、今までの経験から言って「ここまでならできるけど、この先はわからない」ということが一瞬でつかめる感覚があるかどうか、という経験的処理感。
大雑把にまとめれば、どんな状況であれ、「なんとかなる」と思える楽観性と、「この状況で自分には何ができるのか」と自問自答し行動できる主体性が、とても重要な資質だと考えている。


 次に、人のせいにせず、自分の頭で考え、判断できる「主体性」を持っていること。
通常、学校には、国から県、県から市へという流れで通知が降りてきて、それに基づいて様々な判断を行なっている。では、100%、その通りにやらなければならないのか、と問われれば、ノーである。
細かなところは、その校長のリーダーシップに委ねられており、校長に任されている部分、つまり、裁量はかなりあるのである。
それなのに、「国や県、市からの通達通りやっていれば、何かあった時にいろいろと言われないですむ」と消極的な姿勢で、上から降りてきたものをうのみにすることで、場合によっては、そのことが教職員をより疲れさせることにつながっていく。
国や県、市から出されているものはあくまでも最低限のことであり、それに加え、自分が集めた情報をもとに、状況を判断し、最適だと思われる解を示し、行動に移す。それがリーダーにはできるのだ。もちろん、何かあった時には責任をとる覚悟が必要だが(笑)。


そして、最後は、感性が豊かであること、である。
みんながみんな同じ価値観を持っているわけではない。一人ひとりの状況も違う。そのことを踏まえた上で、一人ひとりに応じた声かけ、支援ができるかどうかが、これまで以上に重要である。今回のような状況であれば、強力なリーダーシップを発揮することも重要だが、一方で、一人ひとりの弱さにどれだけ寄り添えるかが問われてくるのである。
それには、相手のことを常に考え、相手のために何ができるのかを四六時中、考え行動することがリーダーとしてあるべき姿だと思う。実はこの姿勢が、一緒にかかわる人たちに安全・安心を提供していることをリーダーはもっと自覚すべきである。


「生き生きとしている」「主体的である」「感性が豊かである」
リーダーとしてのあり方を3つ挙げてみた。どれも重要だが、やはり、精度を上げなければならないのは、感性を豊かにすることである。
そのためにも、日ごろから、自分と違う考え方に触れ、「あっ、そっか」と気づくこと、その上で、気づきに基づいて実践することがなによりも大切だと考えている。
それは自分を成長させるためだけでなく、より多くに貢献できる近道なのだと思う。
心して、自分を磨いていきたい。

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