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悲しくはない

20代の頃、海の向こうでレイプと呼ぶのだろう目に遭ったことがある。性器を性器に無理やり挿入するというような行為だ。どうでも良かったが警察機構的なものに連絡はした。然るべき手段もとった。(妊娠したり病気をもらったりしてないなら)本当にどうでも良かったけど、どうでも良くないのだろう多くの「女性」のために。
えらいでしょ。感謝してほしい。ロマラブと貞操観念?処女信仰?に配慮してあげた。

何度か書いているが、私はノンバイナリー(無性)だ。他者に恋愛感情を寄せることはない。性欲を抱くこともない。男でも女でもない。ノンバイナリーは、「男か女か不確定」から、私のように「性別という考え方をインストールしていない」まで広く含む(らしい)言葉なので、そのいい加減さひとつとっても、私たちの存在が面倒くさがられていることも、理解されていないこともわかる。
「男か、女か、その時々によって不確定」と自分が同じ抽斗に入るだって?
その大雑把さからして、真面目に考えているとは思えない。「その他」の段に雑に放り込んであるだけだ。

私は彼ら曰くのノンバイナリーで、今のところアンチフェミニストだ。身体は女性。
理由は、表現の自由を何より尊びたいからというのと、「フェミニズム」のシスヘテロ中心主義にほとほと嫌気が差しているからだ。

インターネットフェミニズムは暴力的だ。時に「無関心」を「蔑視」の棚に入れる。
私は何も指向しない、偏愛しない、理解したいとも思わない、関わらないけど幸せでいてほしいとぼんやり思う程度の人間だ。そんな雑な線を引かれた時点で、何も指向しない人間、恒常的に何かを心に留められない人間(私は発達障害でもある)を切り捨てている。
「無関心」はゼロだ。ニュートラルだ。蔑視ではない。何も価値判断を下していない。
ノンバイナリー、アセクシュアル、ASDの私の実存をかけてそう主張する。

私の中にはそこそこ広い庭と家がある。家の奥の最後の一室には、自分以外の誰も入れない。それ以外であれば、10年つきあった旧友であれ、さっきそこで行き合った赤の他人であれ、分け隔てなく入れる。肉親と友人とその辺ですれ違う人に特に差はない。まず、そういう人間が存在するということを、事実として認めてほしい。無理かもしれないし、正直期待はしていないけれど。

僻地に生まれ育って、年頃になれば性愛をするのが当たり前だった。自分から何をするわけでもなければ、性器を挿入されることぐらいなんということもなかった。そんなもの私の聖域でも価値でもなんでもない。
本当にどうでも良かった。当然だと思っていたから、ある程度大人になり、アセクシュアルという言葉に出会うまで、友人の一人と思っている相手に執着され、所有を主張され、性交を望まれることなど、そういうものなのだと気にしたこともなかった。

自分に性別がある、ということが気持ち悪い。
腑に落ちない、と言い換えても良い。ジェンダーという言葉すら知らなかったけど、どんな服を着るかで「男」もしくは「女」に(対外的に)なってしまうことには十代のうちに気がついていた。女の装いをしたいわけではないけど、かといって男の装いをしたいわけでもない。身体はどんどん女になっていったし、事実私は「女らしい」装いがとても似合うアバターを着ている。
納得しなかったけれど、早々に諦めた。私は生まれた時から特殊な環境にいて、自分にフィットする言葉や器がないことに何も思えなかった。それに傷ついたこともない。少数者のことなど、「社会通念」が想定できないのは当たり前だ。自分が社会から無視されているからといって、私は全く傷つかなかった。そういう人間が存在すること、まず認めてほしい。
無理かもしれないし、正直期待はしていないけれど。

人に「こうあれ」と望まれると、まず「は?」と思う。

自分の嗜好(志向)に一致するなら特に気にしない。言われなくても、と思うかもしれないが。理解されるとは思わないけど、私は私の望まないことを誰かに望まれても、どうでもいいとしか思えない。利害関係がないなら、そんなもの聞く筋合いはない。利害関係があるなら、それは生きていくための手管だ。他人が私をなんと位置づけようと、私のなんたるかが変わるわけでなし。本当にどうでもいい。
通報されるような誤解を受けたら多分その時考えるけど、それは実害があるからであって、そのことで「私」がどうなるものでもない。

他人が思う私の像などコントロールできない。
しようとも思わない。
私はどこにも指向することがない、何にも渇望することがない生き物。
そういう人間のカテゴリがあること、事実としてまず認めてほしい。
期待はしていないけれど。

創作物が大好きだ。「人間」「現実」の代用品などでは決してないと思う。現実にないものを描くから素晴らしく、そこにあるのはイデアで、実存から解き放たれる世界だと思う。
でもシスヘテロの男女は、「人間」と関わり「人間」を欲したり性交したり子をなしたり?することを無批判に至上と思っていて、創作物を勝手に自分たちの劣化コピーだと思い込んでいる。
おとといきやがれと思う。

フェミニズム、本当にシスヘテロ中心主義である。シスヘテロ男性が好み、シスヘテロ女性が差別的だと感じるものは、それ以外の属性がいくらそれを好むと声を挙げても、「まずシスヘテロ男性中心主義を裁くのが先決」「刷り込まれているだけ」「シスヘテロ女性のために」という理由で取り上げられる。
あまりにも勝手だと思う。その多くの理路は、指向するマジョリティ同士のコンフリクトで、私たち少数者には何の関係もない。
シスヘテロ男性を想定鑑賞者としたかどうかなど、それ以外の属性には本当にどうでもいいことだ。
ずっと声を挙げているのに、華麗に無視される。
そんな「反差別」、どこにあるだろう。我々を差別してくるのはあなた方も同じだ。なんの作為もなく、自覚もなく。シスヘテロ男性の傲慢さと言われるものと変わりない。

「にくをはぐ」という、FtMを描いた漫画があった。
おおむね絶賛されていたけれど、「フェミニズム」からは非難の声が挙がった。曰く、FtMである主人公が自分の女性身体に何も思えず、それをYouTubeに晒して視聴者稼ぎをしたことが「ミソジニー」だというのだ。
冗談じゃねえと思った。「私の体は私のもの」とはなんだったのか。私は女性身体に生まれたばっかりに、私の身体の全てを愛しかわいがらないと「女性蔑視」のレッテルを貼られるのか?アンタら自分の身体にどうでもいい黒子とかついてないの?どんだけ傲慢なの?

私にトランスしたいという願望はない。「なりたい身体」のモデルがこの世に存在しない人間だ。いかにも女体らしい骨の薄い身体から乳房と生殖器を切り落としたからといって、それで「何者でもない」身体を獲得できるわけではない。だからFtMの気持ちが充分に理解できるなどとは言わないけど、割り当てられた不要な女性身体を無造作に扱ったら「女性蔑視」と言われるの、他人事ながら大概だと思う。
無関心はそれすなわち蔑視ではない。リソースを割き続けることこそが尊重だというの、あまりにも「指向しない」「興味が持続しない」人間への無理解に根差していると思う。
そもそも差別しないとか言っていない人間より、「差別に反対」と言う人間の高慢と偏見と無理解のほうが、5億倍醜い。

社会にカウントされていないからといって、私は膝を抱えたりしない。お前の存在を認めてあげるとかあげないとかくだらないことで議論されることがあっても、「お前が許可しようがしまいが私は居るからどうでもいい、思い上がるな」と思う。性に何の思いもないので、実害(怪我をしたり望まない妊娠したり)がなければ何をされてもどうでもいいと思う。それで私の何が変わるわけでなし。

私が泣き暮らさないからといって、私の権利が制限されていいわけではない。
私の魂が死なないからといって、性犯罪が裁かれなくていいわけではない。
私が腹痛を覚えたり、嘔吐しながらこの文章を生み出さないからといって、私の訴えが無視されていいわけではないだろう。

私は何も指向しない。何にもしがみつかない。想い続けることはできないけど、誰しもできる限り幸せに生きてほしいと思うし、要望を言葉で述べてくれれば、裁量の範囲内で考えたい。
それを「尊重」と認めてほしい。傷の深さに関係なく、「基本的人権」があるかないかで考えてほしい。でないと、傷つかない私は泣きながら訴えることができない。
「無関心」は蔑視ではない。「損害がない」わけでもない。そういう世界があること、事実としてまず認めてほしい。
期待はしていないけれど。

悲しくはない。でも、私の人権は回復してほしい。

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