「針千本」の駅前
「千の点描」 <第三話>
「針千本」は大都市の南側に位置するターミナルから、郊外へと足を延ばす私鉄沿線の一つの駅であった。真偽は定かでないが、地元の人が日本におけるスーパーマーケット発祥の地と言うだけはある大きな商業地域で、ウィークデー、日祭日を問わず沿線各地から驚くほど多数の買い物客を集めていた。大阪の天神橋商店街が直線に延びる世界最長のリニア型の商店街であるの対して、「針千本商店街」は、縦横に走る二つの比較的大きな通りを軸に、蜘蛛の巣のように四方八方へと複雑に延び広がっていた。
「針千本」の駅は、商店街のバックボーンとなる本通の入口部分に位置していて、商店街がまだそれほど大きくなる前には、駅舎の斜め向かいに駄菓子屋があった。木枠にトタンを張った粗末な看板には、白地に紺色のペンキで「安田商店」と書かれていた。駄菓子屋なので店は一間四方ほどの広さしかなく、小さな土間一杯に雑多な駄菓子や玩具をところ狭しと積み上げていた。商店街に集まる買い物客の目にも触れない小さな店だったが、近隣に住む私たち子供たちにとっては、日々通わずにはいられない駄菓子や玩具の殿堂であった。
私の家は、駅を挟んでちょうど商店街の反対側にあった。私の家の側の駅前界隈には、喫茶店やパチンコ屋、麻雀屋、酒屋、不動産屋、飲み屋などが並んでいて、まだ駅前商店街らしき風情を保っていたが、駅から少し離れると、すぐに商店は途切れ、普通の民家の屋並みに変化していた。私の住んでいた側には、子供の足で通える距離内に駄菓子屋がなかったので、私も近所の子供たちと同じように、母から貰った一〇円の小遣いを握りしめ、私鉄沿線の線路を越えて、ほとんど毎日のように「安田商店」に通っていた。昭和も三〇年代を迎えてしばらくの頃で、一〇円のお金は今の一〇〇円くらいの価値があったように思う。母は取り立てて毎日駄菓子屋に通うことに文句を言わなかったが、私たちが「ベロベロ」と呼んでいた寒天状の菓子の食紅による鮮やかな原色には眉を顰(ひそ)めることがあった。私は別にこの菓子が好きではなかったが、「ベロベロ」を食べている子供のおいしそうな顔に釣られて、時に衝動的に買うこともあり、その時は仕方なく帰宅する道すがら食べてしまうようにしていた。
私が「安田商店」に顔を出すと、店番の老婆はいつものように薄ら笑いを浮かべながら、決まったように私の手のひらを半ば強制的に開かせて、私の手の中の一〇円硬貨を素早く取り上げた。それは私がこの店に入るための通過儀礼のようなものだった。その儀式を済ませた私はようやく、買い物に取り掛かることができる。駄菓子や玩具、ゲームには、まさに子供騙(だま)しの他愛ない工夫が凝らされ、毒々しい色彩が子供たちの購買欲を刺激していた。私もまたそうした刺激に踊らされていた一人で、目移りする商品群の中から最善のものを選ぼうと必死に駄菓子や玩具を物色していた。いろいろ興味を感じる駄菓子はあったが、何分予算は一〇円だから、選択肢は広くない。やがて十分な時間を掛けて一〇円の予算に見合った商品を選び、「おばちゃん、これ!」と、選んだ商品を老婆に差し出した。ところが老婆は、いつものように少し困惑したような表情を作りながら、「兄ちゃん、これは全部で一〇円になるわ!お金はなんぼ持ってる?」と、芝居じみた顔で必ず私に聞き質(ただ)す。
一〇円のお金はすでに渡してあるはずだと、私が懇願するような目で老婆に訴えかけると、「兄ちゃん!ほなこないしょ。五円分だけ買うたらええわ!」と、訳のわからない妥協案を提示するのだった。「これでおばちゃんも五円損、兄ちゃんも五円損」と、いつも決まって同じ科白を繰り返す。いつも一〇円握って「安田商店」を訪れながら、使えるお金は五円。今日こそ一〇円で駄菓子が買えるようにと祈りながら一〇円分の商品を差し出すのだが、息子らしい中年の男が不在で老婆一人で店番している時は、必ずと言っていいほどこの展開になる。私はこの奇妙な儀式を変わることなく三年間も続けていた。いかに幼いとはいえ、この取り引きが強欲な老婆の子供騙しのような策略であることを十分以上に自覚していたが、自分一人で入れる店はここ一軒という気弱な私にとって唯一通い馴れた店だった。同時に物を買い求めることとは、こうした屈辱の上に成り立っているモノだと受け入れるしかなかったのだ。
なぜそのような雲行きになったのか、細かい経緯はもはや思い出せないが、何かのきっかけで私と老婆との不健康な取り引きの慣例は、少し強面(こわおもて)の高校生の兄の知るところとなった。私は自分の不利益は承知の上でも、穏便にこの店の常連であり続けることを心の中で願ったが、当然のことながら兄はそれを許してくれなかった。老婆の不正を知った兄はさっそく私を同行させて、「安田商店」に怒鳴り込んだのだ。二人が並んで店頭に立つと、老婆は即座に事態を理解したのか、怖ろしい形相で小動物の断末魔の叫びのようなギェッという奇怪な音を発しながら、口にくわえていた吸いかけの煙草を土間に落とした。吸い口が紙の円筒状で、その円筒部分が指で圧し潰されたように見える老婆の吸いかけの煙草が、いかにも往生際の悪さを象徴するように、土間の上でか細い一本の糸のような紫煙を立ち上らせていたのを今も鮮明に記憶している。
兄が抗議の口を開く前に、すでに老婆は「知らん!知らん!」と、うわごとのように叫びながら首を何度も横に振っていた。老婆は、怒鳴り込まれた理由が分かっているだけに、兄の激しい抗議に対して卑屈に歪んだ顔を背けながらも、最後まで不正の事実を認めようとはしなかった。
ただひたすら顔を伏せながら「知らん!知らん!」と、言い続ける老婆に、兄が「それやったら商店街のえらいさんに言うたろか!」と、怒鳴り声をあげると、老婆の動きが一瞬止まった。子供の私にも、兄の言葉が老婆にとって不都合なことだということが分かったが、兄にしてもたかだか高校生に過ぎず、とてもそれを実行するとは思えなかった。憤懣やるかたない兄は、「詐欺やないかババア!これから警察に行くからな!」と、口汚い捨て台詞(ぜりふ)を残して二人はそのまま「安田商店」を後にした。その日以降、私がこの店に行くことを固く禁じられたことは言うまでもない。店の前を通ると、大勢の子供たちがいつもように店一杯に溢れ、私は幸せだった昔を懐かしむように黙ってその姿を眺めていた。
私はその後、すぐ上の中学生の兄に、少し離れた場所にも別の駄菓子屋があったことを教えてもらった。最初は中学生の兄に引率されたが、店番をしていたのは気のよさそうな初老の男の人で、商品を眺めているとそれは五円、それ二つで六円と親切に教えてくれた。この店では、一〇円は丸まる一〇円として使え、それは当然のことなのだがそのことを意外に感じたことだけはよく憶えている。老婆の店より幾分遠くはなったが、一〇円がそのまま使えることが嬉しくて、次の日からは一人でその店に通うようになった。
その後も、その店には通っていただろうとと思うのだが、あまり新しい駄菓子屋の記憶がない。それは何か私にとって不都合があったということではなくて、私の中の「駄菓子屋時代」が終わろうとしていたのに違いない。もう駄菓子屋に夢中になる年齢ではなく、私はこの頃から漫画に熱中し始め、私が日参するのは貸本屋になっていた。
数年後、私が中学に通い始めた頃、夜遅く「安田商店」の前を通ることがあった。すでに店は雨戸を閉めていて、内面の醜さが表情に顕れるように、冬の乾いた風が色褪せた雨戸を小刻みにいたぶり、いっそう荒廃しているように見せていた。
それから幾らも経たない内に、「安田商店」は店仕舞いをした。「安田商店」のあった場所には、小さいながらもお洒落な洋菓子店が開店した。決して楽しい思い出ではないが、兄と老婆のやり取りがあったことから、「安田商店」の廃業は我が家の食卓でも話題にのぼることがあった。母が「安田商店」の三軒置いて隣のタバコ屋の女主人から、「安田商店」の一家は、長男が博打に入れ揚げて夜逃げしたという不確かな噂を仕入れてきた。あの老婆にして、その息子という脈絡で語られていたように思う。タバコ屋の女主人の好意的ではない情報から見ても、老婆は近隣でも嫌われ者だったようで、その後も、一家心中したとか、詐欺に遭ったとか、「安田商店」一家の不幸な顛末を語る噂は絶えなかった。
しかし私は子どもながらも、安田一家の悲惨な噂の裏側に、周囲の人々のやっかみが潜んでいることを感じ取っていた。私に噂の真偽を確かめる術はないが、実際のところは、駅前の一等地にあった駄菓子屋を売って得た大金で郊外に大層な家を構え、悠々自適の人生を送っているに違いないと、私は睨(にら)んでいた。