見出し画像

あなたに「推し」と呼べる存在がいるのなら

 いうまでもなく、私は森七菜さんがこれ以上ないくらい大好きである。一般的には「推し」という存在ということになるだろう(もっとも、私個人の気持ちは「推し」という言葉では不適当というか、語りつくせないくらいなのだが、それを書き始めると本稿で言いたいこと以上に紙面がそれで埋まってしまうので、「便宜上」推しということで話を進める)。

 誇張でもなんでもなく、本当に彼女に出会って私は人生が変わった。幸せの方向に人生が向いたと言っていい。おそらく、森七菜さんでなくても、誰かしら「推し」と呼べる存在がいる方は、その「推し」のおかげで何かしら良い影響を与えられたのではないだろうか。そう、「推し」という存在は幸せになるきっかけをくれるのだ。あなたが「推し」と呼べるほど大切にしたいと思える存在を見つけたその瞬間、幸せになる糸口を手にしたといってもいい。

 けれど、その「幸せになる糸口」を正しくたぐりよせて、幸せを手にするかどうかはあなた次第である。それを忘れてはいけないと思う。立場の異なる人を罵倒したり、推し本人に「自分勝手な思い」をぶつけたりした瞬間、つかんでいた糸口は簡単に離れていく。

 好きという気持ちがやっかいなのは、「自分が勝手に好きだと思っている」ということを忘れてしまうところだ。悪意ではなくても、人の勝手な気持ちは他人にとって簡単に刃になる。
 本当に好きになった人は、どんどん好きになっていくし、どんどん沼っていく。それだけ魅力があるものだ。だから、好きになればなるほど、私の「好き」が彼女にネガティブな方向に刺さらないか、常に気を付けているのである。

 例えば寂しかったりするとすぐに呼び出したり電話できたりする間柄の友達でさえも、お互いを思いやる気持ちがあるからその関係は成立する。「推し」という存在は、たくさんの人に幸せの糸口を与える、それだけ力を持った人だけど、それはたまたま持っていた力で、舞台から降りた「推し」たちは私たちと同じ人間であることを「思いやれないと」、絶対に推せないと思う。
 人はひとりでは絶対に生きられない。だから、最大限「推し」を思いやり、その思いやりをまわりの人にも分けてあげていくことで、幸せになっていけるんじゃないかと思う。彼女を大切に思いやり、その思いやりをたくさんの人にも届けられるような、そういう人間になりたいなどと、たいそうなことも思ったりする。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?