見出し画像

心のうねり

好きに理由が必要ならば、幾らでも指先で手繰り寄せてここに記すのだけれど、ひとつひとつをあげてしまうときっとどれもチープに見えてしまうものだと思う。
宝石箱の中身がキラキラして見えるの、一つ一つの宝石は小さくとも、箱いっぱいに詰まったたくさんの輝きに心が奪われたら、その仔細まで目が行き届かなくなるのと似ている。
あまり見つめると、涙が出るので目を逸らしたくなるのかもしれない。

“ 好き ”という感情が好き。

無我夢中という言葉の通り、好きな物に心を奪われ、浸り、溺れている時、好きな物の事を知りたい、理解したい、真意に近付きたいと探究に明け暮れる時、そこに我は無い。人からどう見えているだとか、誰かの顔色を伺って無理をして取り繕うだとか、才の無さに打ちひしがれるだとか、もっと単純な自己嫌悪だとか、そんな醜く面倒臭い「自分に対する自分の目線」、それらは影を潜める。

そこにあるのは好きなものを見つめる純粋な心と視線で、初めて夏空に大きな入道雲を認めてその雄大さに心動かされた子どものような、真っ直ぐな魂みたいなものだ。心がそれに満たされて、その視界に自分など映らない。

それがとても心地良い。あぁ大好きだなぁ…って頬が緩んで、美しさに目を奪われている時の圧倒的で、外側からの抗えない力で心を象られ彩られてゆく感覚。コントロール不可能な好きに、普段規律正しく統制している四角形の自己を預けていると心の角は容易く丸められてゆく。

するすると解けて心が柔らかくなると好きなものの持つ色を自分に纏えるようになる。そこにいるのは私じゃなく、いつかの誰かで、それは概念的には変身と呼ばれるものに近いように思う。

何時間でも好きな曲を聴き続けられるのも、いつまでもひとつの事に想いを巡らせられるのも、どんどん感受性の深度を深めて指先から喉元まで好きな物の彩に浸って染め上げられてゆくあの時間がたまらなく好きだから。

私は私の形を壊して欲しいのだ。飽き飽きするほどの時間向き合ってきた自己を吹き飛ばすほどの、圧倒的な好きの前に新しく生まれ変わってしまいたい。可変性という可能性に希望を見ていると言ってもいい。

いつまでだって、抗えないなぁって大きな波に押し流されて、好きで好きでのたうち回っていたい。頬がとけてしまうまで。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?