見出し画像

引き金に指をかける

(※この記事は2021年5月16日に投稿の削除記事の再掲です)

海を、海を見に行こうと思った。

川も、海も、昔からずっと水中が好きだ。小学校のプールの授業が終わる前の5分間は必ず自由時間で、水の中に潜ってくるくると水中で前回りをした。ぼやけた水の鈍い音と、動きに合わせて煌めく水泡の光に包まれて、前世はきっとイルカだったんだ、なんて思っていた。

小型のカメラを携えて、海まで車を走らせる。音楽は何にしよう。〈 波よせて/クラムボン〉がいい。あれは夜の海の歌だけど、あの少年が憧れ、向かった先、辿り着いた頃には日が明けていたかもしれないし。

意気揚々と午前に家を出てしまったから、いざ着いた海はなんか明るく眩しくて、空は晴れ渡っていて、景色の全てが生命力に溢れてしまっていてた。ちょっと違ったな…もっと夕方の、穏やかな潮騒が欲しかったのに。

でも海は好き。潮だまりのヤドカリを拾って掌に乗せる。蟹がいた、追い掛けるとすぐ岩陰に隠れてしまうから、うんと指を伸ばしてみるけど彼ら(彼女ら)はニンゲンの浅はかな考えなんて届かない深い場所まで命を逃がす。別に取って食おう、なんて思っていないのに。

イヤホンを耳に挿して、海の曲を聴く。she see sea(Ivy to fraudulent game)、海と花束(きのこ帝国)、海底(シノエフヒ)、また、波よせて。音に合わせて写真を撮ってみるけど、新しいカメラの使い方にまだ慣れなくて、そもそも表現力もなくて、上手くいかないや。

海の曲、と思って聴いていたのにふと気付くとどの曲も纏っているのは寂しさや物悲しさだった。海は命の起源だけれど、たぶん同時に “還る場所 ” だから。空と海の色は似ている。その境目を見ながらぼんやりと「かえりたいなぁ…」と思う。いつかこの海に還って、大海原を漂っているうちに肉体という魂の器はプランクトンの餌にでもなって、残った21gの透明は空に登って空気に溶けるんだろう。

還る場所で聴く音楽なら“ 終わりゆくものへ馳せる愛おしさ ”が似合う気がした。私の好きなバンドはみんなそうだ。海が似合う。どんなに優しさを歌っても、強さを歌っても、何処か“ いつか終わりが来ること ” を心の隅に鎮座させている。自らの頭に突き付けた拳銃の引金に指が掛かっている。それは決して後向きな何かではなくて、終わるからこそ生きて、終わるからこそ愛して、まだここにある今を慈しむことが出来る、そんな優しい思想の現れた音楽達。

「ここは終わりの場所、そして始まりの場所。円環を統べる場所。」

波間に想いを漂わせていたらいつの間にか夕刻だった。

優しく静かな海だけがあった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?