貴様と俺とは科学の桜

 あの桜の木は人間の死体を養分にして美しい花を咲かせている!
 これを信じて良いことだと東京にある国立大学院の遺伝子工学室の研究員、梶井秀樹25歳が思いついたのは、大学の中庭に生えている特別美しい花を咲かせる桜の木を見たときだった。
 その桜の木は何故か毎年必ず2月15日に狂い咲きする不思議な桜で、それだけなら梶井もそれほど気にはしなかった。梶井がある種偏執狂じみた考えにとりつかれたのは、毎年2月15日になると、研究室の教授の誰かが亡くなるのだ。教授が一人死ぬごとに、桜の花はより一層美しく、豪華な花を咲かせるように梶井には見えたのだ。あの美しい桜はなぜ毎年同じ日に狂い咲きするのだろうか? なぜ毎年この研究室の教授は必ず死ぬのだろうか? 地面の下だから目には見えないだけで、あの桜の木は教授の墓場まで根を伸ばして、貪欲なタコのように遺骨を抱き抱え、イソギンチャクの触手のような毛根を集めて、遺骨からたらたらと流れ出る水晶のような知性の液体を吸って、コノハヤサクヤヒメの化身のような花を咲かせているのではないか?
 そんな漠然とした証明のしようがない不安感と疑問を抱えながら遺伝子組み替えの研究を続けていた梶井がある日、研究室の窓から桜の木を眺めていると、同僚の女性研究員である田中檸檬が、桜の木の根本にスコップを使って猫の死体を埋めようとしているのが見えたのだ。脊髄に氷の槍を突き刺されたかのような恐怖に襲われた梶井は、半分錯乱しかけながら研究室を飛び出して、中庭の田中檸檬に駆け寄った。
「何をしている!」
 幽鬼の様に青ざめた顔をした梶井の声に、檸檬はのんびりと
「ああ、梶井さん。この猫ちゃん、可哀想に車にはねられてしまったのですよ。この桜の木の下に埋めてあげれば、この木が墓標の代わりになると思って」
 と答えた。
「やめろ! この桜の木の下に埋めると、木が猫の死体に根を絡みつけて流れ出る腐った水晶のような汁を吸って、美しい花が咲く!」
「別に良いではありませんか。それこそが誰にも省みられず死んだ猫ちゃんの供養でしょう」
「とにかくこの桜の木の下だけは絶対に駄目だ。その猫の死体は僕が責任を持って、もっと別の場所に埋葬する! いや、させてくれ!」
「どうしたんですか? 梶井さん?」
「何ならその死体を買い取ろう! 金なら出す!」
 と言って梶井は尻ポケットの財布から5000円札を取り出して、強引に田中檸檬の手に握らせて、猫の死体を半ば引ったくるようにして奪い取った。猫の死体をどう処分するか悩んだ梶井は、一斗缶ほどもある大きさのステンレスで出来た菓子箱に猫の死体を入れて、大学の美術用具室にあった石膏を水で練ってたっぷりと缶に流し込んで埋葬した。
「これで大丈夫だろう」

 ――1ヶ月後――

 梶井秀樹が研究室でレポートを書いていると、パトカーがサイレンを鳴らす音が聞こえてきた。それも段々研究室に近づいている。程なくすると、研究室に警察官が入ってきた。
「田中檸檬さんの職場はここですか?」
 と警察官に聞かれた梶井は
「そうですが、田中さんが何か?」
 と答えた。すると警察官は
「つい1時間ほど前に、大学前の横断歩道で田中檸檬さんが車にはねられて、病院に運ばれましたが、残念ながら亡くなりました。所持していた身分証から職場がここだと分かったので報告に来たのです。親御さんに連絡をされた方がいいのではないかと思いまして。しかし、いくら見通しが悪くても、何故ボタン式の歩行者用信号機付きの横断歩道で車にはねられたのですかね? 車の運転手によると、まるで何かに見とれているかのように道路の真ん中に突っ立っていたようで、ブレーキをかけるヒマすら無かったようです」
 と答えた。梶井は嫌な予感がして研究室を飛び出した。大学の正門を通り抜けて、事故現場に行く。事故現場にはすでに警察が到着していて、現場検証を行っていた。梶井は警察の邪魔をしないように横断歩道の真ん中に近い道路の中央に立った。予感は的中した。ちょうど横断歩道の真ん中から、大学のあの美しく咲きほこった桜の木が見えるのだ。スマホのカレンダーを見る。今日は2月15日だった。

 ――翌日――

 大学の用具室にあった斧とチェーンソーを持った梶井秀樹は幽霊に取り憑かれたかのようなふらふらとした歩みであの美しい桜の木に近づいていた。あの桜の木は切り倒さないと駄目だ。放置すれば犠牲者が増えるだけだ。他人に説明しても解ってはもらえない。これは俺にしか出来ないのだ。これは正しい行為なのだ。この木さえ無くなれば教授は死なずに済むのだ。斧に手を掛けた梶井が一撃を振り下ろそうとした時だった。
「梶井君、やめなさい」
 と梶井を止めたのは同じ研究室で一番古株の茂木教授だった。
「桜の木の根本をよく見なさい」
 梶井が見ると、地面から太陽光発電パネルが見えた。手で地面を掘って見ると、出てきたのは電気式のカレンダーだった。その太陽光で動くカレンダーが桜の木に繋がっているのだ。
「西行ですよ」
「西行?」
「ああ、茂木先生。この桜、今年も綺麗に咲きましたな。科学の力は素晴らしい」
 とカップ酒の瓶を片手にやってきたのは、文学部の斉藤教授だった。
「斉藤教授は何をしに来られたのですか?」
 と梶井秀樹が聞くと
「いや、今年も花見で一杯と思ってね」
「梶井君、この桜は私の恩師が遺伝子組み替えで作ったカレンダーの指示した日に美しい花を咲かせる桜なんだ」
「願わくは 花の下にて 春死なむ そのきさらぎの 望月のころ。昨日はお釈迦様の入滅された日、涅槃会ですよ」
「毎年、ここの教授が必ずこの日に死ぬのは?」
「君は研究員になってまだ3年だろ? たまたまだよ。私は大学に40年勤めているが、2月15日に死人の出ない年も知っている」
 梶井秀樹は桜の木を見上げた。満開に咲き誇った花の中で田中檸檬が微笑んだような気がしたのだ。

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