推すこと-健康的オタ活について-
『推しは推せる時に推せ』という言葉がある。諺とも格言とも言われる。
アイドル界隈が発祥だと聞くが、どこで生まれた言葉かは定かではないようだ。今ではアイドルに限らず、役者・歌手・声優・芸人・YouTuber・VTuber、なんならゲームコンテンツそのものや飲食店に言う場合もあるかもしれない。推すという行為の幅広さを感じる。
「推しという存在はいつ引退するかわからないから、後悔のないよう精一杯、推していこう」そういった意味で言われることが多い。
『推しは推せる時に推せ』
私はあまり好きな言葉ではない。
なぜならこの言葉を聞くときのシチュエーションは、オタクがだいたいしんどそうであるからだ。
そりゃそうである。その多くは推しの引退が決まったとか、あるいは誰かの推しの引退を傍目に見ている場面である。
そのときにポツリと、「推しは推せる時に推さなきゃ」みたいな言葉が聞こえてくる。そしてどこか苦しそうにしている。何かに追われているようでもあり、何かに怖れを覚えているようでもある。本来であれば楽しいのがオタ活であるはずなのに。
「後悔のないように」
しかしこれを冷静に考えてみると、かなり難しいスローガンのように思った。「後悔のないように推す」こんなことは実現可能なのか?
後悔という言葉にはまずは何らかの目標があり、それをタイムリミットにより達成できなかった時に、あのときこうしていれば……と過去を振り返るようなニュアンスが含まれると思う。この意味合いをいざ推し活に置き換えるのは、推しに対して何らかの目標がないと成立しないと思う。
業界によってはメジャーデビューとか、武道館とか、賞レース優勝とか色々あると思う。そういう場合はまだ構わない。難しいのは「続くこと」を求めている場合だと思う。
当たり前だが、推しは多くの場合いずれ引退する。これは仕方ないことである。人間から老いや病は避けられないし、人生の過程で考え方が変わったり、新たな夢を見つけることもある。社会倫理に触れてしまい身を引かざるを得ないこともあるかもしれない。(例外があるとすれば推しが創作物の中の存在であることだろうか)
また、こういう場面での「後悔のない推し活」が、イベント参加やグッズ購入、投げ銭など金銭的な支援を指す場合はあまり良い状態だとは思わない。現実問題として懐事情がよくならないといけない場面はあるにしても、それらを示唆している状態のエンタメが果たして健全か?と思う。推しは安易にそれらを求めるかもしれないが、受け手の経済事情も人それぞれであるのだから、そこにいつか終わることを脅しているような状況、何ならそれを間に受けて無理にお金を使っているような状態を良しと言えるのか。
そもそも、オタクの欲求の部分に目をむければ、「後悔のない」は可能なのだろうか。どこまで身を切り、現場に通い、グッズを買えば「後悔のない」までたどり着くのか?
買えるのであれば、そりゃバッジもアクスタも買えるだけ欲しいし、等身大パネルも買いたいものだが。
推し活、エンターテイメントは心の栄養であるべきだと思っている。各々の人生のなかでの活力源、エネルギー源であり、笑ったり感動したりすることで「明日も頑張ろう」となっている状態が健康的オタ活だと思っている。
一方で、推し活に疲れて病んでしまうような状態は、推し活が輸血のような状態になっている。例えとしてならまだいいのだが。。。
また、推しのために自分が頑張らねばという謎の義務感を覚えている場合もちょっと見ていられないと思うことがある。ましてや推し側が「推せる時」を煽っているような状況を見ると、それでいいのだろうかと思う。
これが映画監督や漫画家、作家であればまだいいかもしれない。例え引退(絶筆)や作者の死去により、その人を直接的に「推す」という行為ができなくても、その人の遺した作品が魂として生き続けているという側面もある。既になくなっているが今から手塚治虫や赤塚不二夫を「推し」にしてもいいのである。そう考えたらある意味で、アイドル的な存在がいちばん難しい。あまりに現在にありすぎているし、今に存在していることに重きを置きすぎているのかもしれない。。。
これと言って結論があるわけではないが、「推しは推せる時に推せ」という言葉を聞く場面というのは、オタク的には良い状態とは言い難いと思う。オタクとは楽しくてやっているはずなのに、なにか失う恐怖と闘っているようだ。それよりかはもっと推しているということ自体、自分のなかでの影響力やときめくものに夢中になっていてほしい。
なんなら転じて言われる「推せる範囲で無理なく推す」というのすら邪念だと思う。推しに幾ら払ったとか、グッズ幾つ持ってるとか、現場幾つ行ったとかではなくて、自分がどうして推しが愛おしくて尊い存在であるかということとか、推しの存在が自分の人生にどう影響をもたらしたかとか、そういうところを大事にしていったほうがいいと思う。
そのほうが、いつかの推しの引退に際しても、「あの頃頑張れたのは推しのおかげだった」と推しから貰ったものが人生の糧として残っていく気がするのだ。
そのためにもちゃんと自分の人生に向き合いなさい。(自分の頭に押し付けた銃の引き金を引いてこの話は終了)