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占い師は学ぶことだらけなのか?心を理解しているのか?

人生は学ぶこと

占い師になってからはもちろん、その前から学びの連続だった。
無知の知という言葉を知ったのは確か小学4年生の時。その時に、かっこいい言葉だと思って気に入ったのを覚えている。まさか、その言葉を40代になってから繰り返し自分に叩き込むことになろうとは知る由もなく。学んでも学んでも無知の知の壁は立ちはだかる。おかげさまで、学ぶことが日常となった今の自分を10歳の自分が見たらどう思うだろうか。大学すら出ていない私は、自分をむしろ勉強が嫌いな人種だと思っていた。

学ばないと不安が付きまとう

占い師になりたての時、私の占術と言えば霊視だった。霊視は特別な力という認識が今でも強く、占い師で霊視を使うとなると、それだけで、「おぉ、すごい」となってしまうような世界だ。だけど、私の中の霊視はというと、チャンネルを増やす訓練と、それを抽出する力、感じ取る力などを巧みに駆使して答えを導き出す、ロジカルな側面が強く、「技術」だと捉えてる。そもそも、霊視をするということは夢を見ることができるならみんなできると思っている。特別な力という概念が私の中にはないのだ。そのうえ、霊視とは不確かな部分が多い。どんなに技術を開発して会得したところで、それが何を表すのが、その段階で分からなかったりするし、相手にしかわからない情報だったりするので、対話しながら答え合わせをするような形になる。そして、霊視における未来視は「今」でしかない。霊視で今このままいけばこうなるという未来図が見えたとして、その情報を開示したら、「今」が操作され、未来図は変わってしまう。だからこそ、悪い情報をあぶり出し、その未来図を変えることを試みるのだけれど、そうなると、占い的には「はずれ」ということになってしまう。「あたる」ことを求められる占いにおいて、それは問題だと思う。「あたる」ということを極めようとすると、霊視では矛盾が生じてしまうのならば、当たる技術が欲しくなるのは、占い師としては当然の欲求なのかもしれない。
霊視を信じていないというと、お客様を裏切るようで申し訳ないが、少なくとも私の中ではその言葉が一番しっくりくる気がする。それで、私は他の占術も学んでいくことになる。
占術は本当に多い。西洋と東洋に分けることもできるし、昔は亀の甲羅を割って、その形で吉凶を占ったらしいし、コインの表と裏だけでも占いはできる。花びらを一枚ずつ取りながらやるあれも、立派な占いだ。
それと同時に、どの占術も覚えることが膨大であることも特徴だと思う。そりゃ、花占いは好きか嫌いかの二つなので覚えることはないけれども、四柱推命、九星気学、星占い、手相、易学、タロット・・・どれをとっても、基本の型を覚えなければ占うことすらできない。しかも、どの分野も「沼」と言っていいほどに底がない。一度入れば、ずぶずぶに埋まって、どこまでも学ぶ道は終わらない。そう、占いは終わりのない学びの道でもあるのだ。
つまり、一度、この占術を学び、扱おうと思った時点で終わりのない旅の始まりだ。どこまで学んでも未熟。上を見ればキリがない。お客様ごとにすべて条件が違い、占いを扱う者によって導き出す答えが違う。「あたる」にこだわればこだわるほど、答えを導き出すのには時間がかかり、それを補うためにまた学びが必要になってしまう。まさに「沼」。私は沼の住人となり、学ばなければ不安というスタンダードにたどり着いてしまったのだ。

全てが紙一重の世界

占い全体がスピリチュアルとして扱われ、科学的に証明できなくて、不確かで、頼り過ぎると危険と思われているのではないだろうか。私も同じ感覚を持っていた。非科学より科学の方が確かで正しい。目に見えないものを扱うのは、ある意味インチキ。人をだまそうとする道具。だから、霊能力があるなんて人に言ってはいけない。嘘つきだと思われる。そう思っていた。
現に、スピリチュアルな世界に宗教などがあり、信じる人の心に付け込み多くのお金をお布施として集めたり、多くの人を殺してしまうような事件が世を騒がせたりして、「宗教」というだけでアレルギーを起こす人もいる。
不安をあおり、人の心に付け込むのは悪。信じるものは救われるという言葉も悪。
今の世の中は、超現実主義で、スピリチュアルというだけで、目に見えない力に恐れを感じ、占いと聞くだけで「嫌い」と言われることもあるような世の中であると私は感じている。

学びを深める中で、心理学を学び始めた私は、ある違和感に襲われる。人の心を扱う心理学。立派な学問の分野であり、国家資格もある。名だたる心理学者たちは多くの実験を行い、人間の心理について解き明かし、証明してきた。非科学と科学でこの世を分けるとしたら、多くの人は心理学を科学に分類するだろう。私も、不確かなスピリチュアルから少しでも離れ、現実的に人の心と向き合いたいと思って心理学の扉を開いたのだから。
学びを深めていく過程で、私はフロイトやユングに出会い、深く興味を惹かれることになる。フロイトと言えば、精神分析を確立した人で、意識と無意識、自我などの言葉を使い、人の心にアクセスし、精神病を治すことにアプローチした人で、だいぶ変わり者だったことが少し触れただけでもわかるような人物。その弟子であるユング。ユングは夢分析が有名で、フロイトの変わり者っぷりについていけず袂を別っているが、フロイトの考えを礎に多くの時間を研究に費やし、心理学の進歩に貢献した人物。
この二人に触れたとき、「あれ?」っとなったのだ。人の心、精神、夢というのは不確かなものではないか。見ることができず、確かめようもなく、あるかどうかも確認できないもの。それが人の中に存在すること。心理学という分野はじつはスピリチュアルとは紙一重。むしろ、親和性があり、一緒にして考えることもできる領域であることにはたと気が付いたのだ。

その次に触れることになったのが、量子力学だ。なぜ物理学にいきなり飛ぶのかとスピリチュアルを嫌いな人は不思議かもしれないが、信じるものは救われる的なものは量子力学を用いて説明することができるというのだ。それが「引き寄せの法則」と言われるもので、両者はもうセットと言ってもよい。量子力学も目に見えない世界の話だ。ミクロより小さな世界。目には見えないけれど、私たちの体も自然のものであり、それを分解していけば、大本は原子からできている。そのさらに小さなものが量子。
私たちは、目に見えない小さな粒がくっつきあって形を作り、その複雑な構造の中に「脳」という臓器が生まれ、そこになんだかのエネルギーを加えると電子信号が生まれ、その信号により、体が動いたり、心が動いたりする。そのすべては解明されはおらず、なぜ、そうなってるのか誰もわからない。
実態がある私たちの体でさえ、不確かな部分を持ち、その意識とか心とか呼ばれるものに存分に振り回されている。私たちの存在自体がひょっとしたらスピリチュアルかもしれないというところにたどり着いてしまった。


宇宙という概念

心理学が不確かで見えない心を研究するもので、量子力学がこれまた観測することが難しいとされる原子より小さな量子と呼ばれるものを研究するもので、そこを深堀していくと、どこにたどり着くのか。それがなんと宇宙である。
占い師になりたての時、宇宙についてどう思いますか?と聞いてきた人がいて、なぜそんなことを聞かれるのか、私の頭はハテナでいっぱいだった。不安症な方も鑑定には来るので、宇宙から攻撃されて困っているという相談も受けたことがある。その時も私は訳が分からなかった。今なら、宇宙が何か、私なりの考えを述べることができる。宇宙からの攻撃についても一定の熱量をもって共感することができるかもしれない。
宇宙と言ってもその概念は神様の住む世界に近いようなものもあるし、空に広がる月が浮かぶ空間でもあるし、私たちが生まれた場所でもあると思われる。
宇宙までたどり着く学びの先にあったものは、壮大で目に見えなくて、解明できていなくて、でも、一定の法則性を持ち、全ては自己責任で、自分だけの世界という究極の自分というものを確立するゲームのようなものだということ。それを分からないながらも頭に叩き込み、スタンダードにする作業が学びということ。世の中の真理は一部の人が理解していて、その真理に関する書籍も多くあるのに、スピリチュアルアレルギーのせいで、多くの人がたどり着けない場所であることが何となくわかってきた。
私は運が良いことに、スピリチュアルな存在である自分を疑い続けることで自然とそこにたどり着き、学び続けることができていることが、結局は自分の仕事にも反映し、発展を感じることができるところまで来ることができたのだと思う。

自分でかけた呪い

学びを進めていくと、自分に色々な呪いがかかっていることに気が付く。嘘はいけないこと。お金の話をするのははしたないこと。正義であることが正しいことなど。すべては幻想であるにも関わらず、そうしないと人間社会からはじき出される的な考えを持っている人は多い。私は、都市伝説的なことが嫌いだった。胡散臭いし嘘くさい。それもスピリチュアルアレルギーと同じだと今ならわかる。
全ては自分が選択したことというのも、忘れがちで、親のせいで自分は不幸だと長年思っていた。私が長年鬱を患っていたのも親のせいだし、私が社会に適合できないのも親のせいだし、私が不幸なのも親のせい。うじうじして、トラウマに怯え、何か不都合なことが起きれば、親のせいにして自己責任から逃げていただけだった。だけど、鬱になるほどに心を弱くする思考は、結局自分が選んでいる。脳の自己防衛機能が発動しているので、つらいことが起きているときは仕方がない。だけど、私の場合は、病気の起因となる事象から離れているにも関わらず、鬱が治らなかった。それは、もう起きていない事象に対して、清算もせず、水に流すこともせず、荷物を抱えたままだったからにすぎず、「今」に注目すれば、親とは縁を切り、連絡網はすべてブロックして、関わることがなくなった状態。攻撃されることはまずないわけだから、徐々に病状は緩和されていいはず。それを許さなかったのは私の心だし、私の選択でもあるわけだ。ある意味呪いを自分の心にかけていたことになる。
その呪いを解いたのは、他ならぬ占いだった。目に見えない両親の呪縛を提示し、その呪縛から解放される方法を教えてくれた。それでやっと、自分の選択を変えることができたのだ。そして、その後の学びが、完全に自分にかけた呪いを解く思考をくれたのだ。それが「今」この瞬間しか存在しないという考え方だ。過去も未来も存在しない。今には今しかなく、私たちは今しか生きられない。至極当然のことを言っている。だけど、私は過去に生きていたからこそ、両親のことを許せなかったのだ。今現在両親は私にアクセスすらしていない。何もしていない。過去には確かに嫌なことをしたし、言った。でも、今それはない。この世のどこにも。あるとしたら私の心の中だけにあることになる。その心とは、何なのか・・・。その思考にたどり着いたときに、私は「そうか」と腑に落ちた。もうないのだ。私が許しさえすれば。
こうやって、学びは自分の中にある呪いを解いてくれる。嘘の呪縛もお金の呪縛も怒りの呪縛も。そして、全て自分で選択した結果だということ、人を変えることはできないということ、この世のすべてに意味があるということ、様々なことを私は知り、そのたびに自分の中で咀嚼し、理解したり、理解できないまでもそういうものとして、知識として持ったりしていった。

学びの弊害

占い師として、ボリュームを増すために、様々な占術をかじったり、スピリチュアルへの理解として、心理学や世の中の真理に迫っていくと、だんだんと考え方はシンプルになっていく。何か起きたとしても、これに何の意味があるのだろう?とか、どの潜在意識が現れているのだろう?とかすべて、内面からの啓示として受け止め、瞬時に現れる、感情の喜びや悲しみ、二次感情である怒りや焦りを感じることを軽んじてしまう。これは引き寄せの法則的にはよくない。自分の感情を味わうことが大切だからだ。そんなことは分かっているのに、理論的になり、すぐに意味を見出そうとするので、面白味がなくなってしまう。いわゆる「トキメキ」を失ってしまうのだ。
もっと悪いのは、人としても占い師という職業としても大事な共感性を失ってしまうことかもしれない。占いにくる人が求める大きなものは、「共感」であると思っている。もちろん、占いが持っているエンターテインメント性も求められるし、問題解決の糸口的な実用も求められるが、悩みの告白を受け止め理解し、共感されることを人は心から求めている。これは仕事となると、意外と発揮できるものだと思うが、友人としてアドバイスするときなどは、つい共感を忘れて、「人は思い通りにならないので悩むだけ無駄」とか「自分の未熟な内面に目を向けるべき」などと厳しい言葉を使ってしまうことがある。
「ムカつくのよ、思い通りにならなくて、相手が不完全だから」という主張に対して、ムカついているのは自己責任。思い通りにならないのは他人だから当たり前、相手が不完全なのは鏡だから、自分にも不完全なところがあると認めるべきなど、何かのテストの添削のような回答は求めていない。解決に必要なアンサーとしては正論だったとしても、友人が求めているのは「わかるー!それムカつくよねー」という共感の言葉だ。それが、言えない思考になってしまう。
だって、人のことを考えている暇があったら、新しい考えを得るために本を読んだらいいと思ってしまうし、相手の生年月日が分かれば大体の性質もわかる。生まれ持っての性質は変えられないし、他人を変える前に自分がそこに反応しない理論を持った方が建設的だと考えてしまう。人間的には冷たい。心を失ってしまうのだ。
私は、この冷たい心で、友人を何人か失った。私の上から目線の発言はきっと不快だったろうと推測する。そのことさえも、私は気質の研究材料とし、なぜ、そのような行動に出たのかと分析しようとした。自分の気持ちを味わいたくないためだったのだろうか。これも自分が持つ、自分が正しいという上から目線の気質のせいなのだろうか。この解が出ない限り、私はまた友人を失うだろう。潜在意識が体験の終了を認めないと何度でもその体験は引き寄せられるのだから。
頭で理解できない自分の心を探求する旅は続くのだ。分かっていても止められない。これを運命と呼ぶ人もいるけれど、そうだとしたら、この人生は常に学び、自分と対峙する旅なのだと認めざる追えない気がする。

心を理解する愛を理解する

アインシュタインが残した手紙に愛のエネルギーという記述がある。愛という不確かなものに対して、方程式も示している。愛こそ一番強いエネルギーであり、神だと語ったアインシュタイン。彼の相対性理論は量子力学によって覆される日が来るのだろうか。
ユングも共同研究で心について解明しようとした。夢を分析して、心を可視化しようとした。
歴史に名を遺す偉大な人たちもきっと、スピリチュアルに対して強い探求心を持っていた。
私も私の心すら理解できない。起こる事象に対して、相変わらず怯み、理解に苦しむ日々だ。そして、苦し紛れにたどり着く新しい考え方に触れるたびに無知の知を思い知る。私は研究者ではないし、有名な人でもない。でも、いつか、心について分かったと言いたい。せめて自分の心に対しては分かってあげたい。そして、愛についてもわかる日が来るといいと思う。みんな愛をもって生まれてきたのに、それを見失い、他人に見出そうとしたり、子供に投影したり。でも一番愛するべきは自分なのだ。愛がエネルギーだとしたら、私たちはもともとエネルギーを内蔵し、自分を動かすことができるはずなのである。
この世は摩訶不思議なことであふれている。私は占い師として、占術を学ぶことを喜びとしている。そして、人の心を救うエネルギーである愛を探求しようと思っている。占い師になってよかったと思う。この探求心を満たすには最適な職業な気がするから。私が死んだときには、愛のある占い師だったと言われたい。

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