見出し画像

わが心の近代建築Vol.12 山本有三記念館/東京都三鷹

みなさん、こんにちわ‼
今回は、東京都三鷹市下連雀にある山本有三記念館について記載しますが、ここは小説家・山本有三氏(1887~1972)が戦時中前後、約10年間住んだ邸宅で、山本有三氏は小説家としての側面以外にも政治家として日本の国語文化に尽力。特に「日本国憲法」制定においては、その口語化に深く関わった人物でもあります。

この邸宅は、もともと貿易商を営む清田龍之介氏の邸宅として1926年ころに建てられましたが、清田氏は事業の失敗などから手放し、競売にかけられていたところ、都会の喧騒を離れた場所に新たな邸宅を、今までの住居が手狭になったことから手広な邸宅を求めていた小説家の山本有三の目にとまり、氏はこの洋館の外観に一目ぼれし、即座に購入。
山本有三氏は、購入したのち、1936年から10年間住み続け、代表作『路傍の石』や戯曲『米百俵』などを執筆。
また、戦時中時は、当時、他の霜の少なかった共たちに向け、「ミタカ少国民文庫」として、1階応接室を、自身の持つ蔵書とともに公開しました。
しかし、終戦に伴い、GHQによる接収から、この邸宅を泣く泣く退去。
接収解除後、山本氏の手に戻るものの、改変により、邸内の姿が無残に改変された姿に有三氏は落胆。
以降、この邸宅に戻る事はありませんでした。
有三氏の手を離れた邸宅は1953年まで国立国語研究所三鷹分室に利用され、1956年に山本氏が土地と建物を東京都に寄贈し東京都立教育研究所三鷹分室に長期間利用されたのち、三鷹市に権利が移り、1996年から「山本有三記念館」に使われ、大正末期の建造から90年を超え老朽化が進んでいることから2017~18年にかけて改修工事が行われ、2018年4月に再オープンした次第。
建物内部は山本有三邸として利用されていた間取りが保存され、特に2階の数寄屋造りの和書斎は、耐震改修工事により、見事に復元されています。

建物は、地階部分と1階部分は鉄筋コンクリート造、2階は木造建築となります。また、邸宅の窓枠や煙突部分などでは、スクラッチタイルや大理石など、当時流行していたFLライトに影響を受けた意匠を取り入れています。
それ以外にも、様々な建築様式がミックスされ、設計者に関しては様々な諸説あり、改修行為などの調査でも不明になっていますが、これだけの建築様式を巧みに扱えることから、相当の実力を持った建築家だろうと推測されます。

【たてものメモ】
山本有三記念館
●竣工:1926年
●設計者:不詳(様々な名前が取り沙汰されています)
●文化財指定:三鷹市指定有形文化財
●交通アクセス:JR三鷹駅より徒歩12分
●入館料:¥300
●写真撮影:可(ただしフラッシュおよび動画はNG)
●参考文献:
 ・東京都三鷹市著「住宅物語 山本有三記念館」
 ・田中禎彦/小野吉彦著「死ぬまで見たい洋館の最高傑作」
 ・山本有三氏に関しては、Wikipediaを参照

まず施主から説明すると…

山本有三(1887~1974)【写真はWikipediaから拝借】:1887年、栃木県栃木市に誕生。高等小学校卒業後は、丁稚奉公に出され、家業の呉服商に就いた時期もありましたが、府立一高(現在の都立日比谷高校)に入学したのち、東京帝国大学独文科を卒業。大正期半ば、劇作家として再出発。「生命の冠」「坂崎出羽守」「同志の人々」などがあり、大正末期に小右折会に進出。「波」「女の一生」「路傍の石」を執筆。と同時、「日本少国民文庫」(全16巻)の編纂も手掛けています。国語問題についての発言も多く、国語教科書の編集に携わった他、戦後は参議院議員としても活躍し、1965(昭和40)年には文化勲章を授与されました。1974(昭和49)年に湯河原にて86歳で亡くなります。また、山本有三氏は、著作権確立に尽力した人物とも知られ、戦時中には、内務省の検閲に徹底抗戦し、そのような経緯から軍部に睨まれ、政治犯として収容されたことも。また、戦後は、日本国憲法の口語体化にも尽力しました。

次に邸宅について記載します。


山本有三記念館 表門:
このメルヘンティックな表門は竣工当時のもので、山本有三記念館竣工当時のものになります。また、左側に見える石は、山本有三が、中野旧陸軍電信隊付近の道端で発見したもので、山本有三氏の作品にちなみ、いつの日か「路傍の石」と呼ばれるに至りました。
そもそもは邸宅の裏庭に置かれていましたが、山本有三記念館オープンにちなみ、現在地に移転しました。

山本有三記念館 正面部分:
平面の形をそのまま表現したように、複雑に造られています。1階、および2階下部に大理石とスクラッチタイルが使用されており、2階部分は、漆喰塗の壁と木材とで構成されています。屋根部分は銅板瓦棒葺き、切妻屋根を基本として複雑に組み合わされています。大きな屋根が2階部分から1階まで垂れ下がっており、正面から見ると切妻の腰折れ屋根に見えますが全体がそうなっているわけではありません

正面出入り口のレリーフ:
玄関上部には、アヒルをかたどったかのようなレリーフが貼られていますが、このマークは、山本有三が指揮を執った「全国少国民文庫」のレリーフに使用されています。

山本有三記念館 北西部分から外観を臨む:
外観は1階部分がスクラッチタイル、2階部分は漆喰塗りになっているものの、外壁部分は幾何学的模様になっており、その上の屋根は急こう配になっています。また、煙突は正面写真と同様、下には大谷石、上部にはスクラッチタイルが貼られて、上に行くにつれ、すぼんでいます。
これらは、観た者の視線を上に持っていかせ、高さを印象付ける効果があり、建物を重厚なデザインにすることにより、訪問者にドッシリとしたイメージを与えます。

北西部分から窓の意匠を臨む(1F):
下部分はトイレの窓になっており、3角に張りだたしており、建物の外観に大きな変化が付けられています。とがった窓の下には石が装飾的に付けられ、庇上部には大谷石が貼られています。

北西部分のトイレ上部の窓枠:
トイレ部分皮2階を臨んだ写真。この部分は踊り場の窓になりますが、防犯上の都合から柵が設けられ、この部分の窓枠部分の金属には、平和の象徴であるクローバーらしきものが描かれています。




ベランダ部分を臨む:
山本有三記念館が、戦時中にこの邸宅を「ミタカ少国民文庫」として提供した際の式典にも使用された部分です。庭園部分に面した場所で、外観はほぼ左右対称になっています。窓枠は、2階部分の窓は同じ形式になっていますが、1階部分は西側が四角形、真ん中が台形、東側がアーチ型となっています。

2階ベランダと屋根裏部屋:
バルコニー手摺部分には小さな突起物を並べたデンデイルのような意匠がみられ、2階ベランダの壁は、3格のくり抜きが設えています
また、屋根には大きな出窓が見えますが、屋根裏部屋になっています。

山本有三記念館 平面図【三鷹市スポーツと文化財団から拝借】:
グレー部分八現在非公開になっています。
また、食堂部分と応接間は、現在、ぶち抜きに改造され、山本有三氏の遺品や表彰などが掲げられています。

1階玄関から入口ドアを臨む:
大きな台形型の木製扉を開けて邸内になりますが、壁は腰あたりまで石が貼られ、壁上部と天井武運は漆喰塗、天井部分にはアーチの稜線部分が協調された造りになっています。
また、左壁部分には西洋建築で多くみられる窪み(ニッチ)が付けられています。

1階玄関扉を入った部分から玄関扉を臨む:
チューダー様式で多くみられる、尖塔アーチの形をした扉が非常に印象的で、天井部分は、くり型が2段にわたって付けられています。

1階ホール天井:
天井部分は、独特な照明のほか、天井部分を漆喰で塗り、重厚な梁などの木材で彩られています。

1階ホールわきの暖炉:
ホールわきの暖炉を中心とした小さな空間は、イングルブックになっており、「イングルヌック」はスコットランド語の「暖かく居心地がいい場所」という意味があり、この小さな空間で、山本有三一家は、家族間や親しい来客などが語り合う箸として利用されました。19世紀後半のイギリスでは、アーツ・アンド・クラフツ運動が盛んで、その中でも「イングルヌック」は、手仕事や家族の在り方を再認識するものとして大流行しました。
壁面に露出した木材や天井部分の部材には、「手斧」で削ったかのような「はつり模様」が付けられており、中世ヨーロッパの雰囲気を醸し出しています。

1階食堂と応接間の床の切れ目:
現在、山本有三記念館は、食堂と応接間が一つのホールになっていますが、かつては壁を隔てて別の部屋でした。
その名残として、床部分の柄が切り替わっています。

1階食堂:
現在は、食堂と応接間がぶち抜かれ、一部屋になっています。
この部分は食堂として使用された部屋になり、床の寄木細工の切れ目を見ることにより、その名残を見ることができます。

1階食堂部分の暖炉:
暖炉部分は、山本有三邸の外観でも多く使用され、この時代、FLライトの帝国ホテル・ライト館で広く注目された新部材のスクラッチタイルが使用されています。

1階応接間:
応接間は、窓辺がベランダ側にはみ出しており、非常に日当たりのよい部屋で、戦時中、山本有三は自身の蔵書などを少年少女に公開し、「ミタカ
少国民文庫」として土日に図書館として利用しました。
また、暖炉側の梁はアーチになっており、様々な意匠を見ることができます。

1階食堂部分の暖炉:
暖炉部分は、山本有三邸の外観でも多く使用され、この時代、FLライトの帝国ホテル・ライト館で広く注目された新部材のスクラッチタイルが使用されています。

1階長女居室:
この部分は、もともとサンルームとして使用されていました。
窓枠のアーチにはスクラッチタイルが付けられています。
のちに、ベランダ側などに壁が設けられ、室内化し、長女の居室に充てられました。また、漆喰上部には帯状にアーチが巻いていますが、イタリアの論ばルティア地方で考案されたデザインで、この部屋からはロマネスクの影響も感じ取ることができます。

1階階段部分を臨む:
階段は木製で階段親柱には丸みが付けられています。手すりを支える木材部分(手すり子)は、木材をねじったかのような意匠が付けられています。

2階から踊り場部分を臨む:
天井部分の梁を見ると、教会建築を見るかのような重厚なイメージを与えます。
また階段踊り場には非常に大きなステンドグラスが貼られており、幾何学的模様が施されたものになっています。
一方階段わきのステンドグラスは、ひし形模様を重ねたものになっています。

2階洋書葦:
要書斎部分は、かつては和室が付属しており、その痕跡として、上部に欄間の跡が付けられ、奥側の机のある部屋と手前側の部屋は天井の梁部分も違っています。

2階和書斎:
創建当時は洋間でしたが、有三氏により、数寄屋造りの和室に改変されました。ガラス戸の内側は障子戸になっており、障子を開け閉めすることで、室内の明るさを調整できるようになっています。
この部屋部分の衣裳には、山本有三氏も深く関わっていて、改めて有三氏がこの邸宅にかける意気込みを感じることができます。

2階和書斎の床の間部分:
床柱は自然僕を使用。小襖部分には、有三氏の戯曲「坂崎出羽守」出演の6代目尾上菊五郎氏の衣装を仕立てたものになります。

2階和書斎の本棚:
一見すると鍵十字の厭なマークをイメージされる方がいるかもですが、こちらは卍(まんじ)型になっており、有三氏が水かあr発見してきた書棚になています。

2階書庫:
この部屋は北向きになっており、日航が入らないことから山本有三邸では「書庫」として使用されました
。現在は出入口は引戸になっているものの、腰壁や天井の設えなどから、暖炉を備えた髭右の高い洋室であったことが想像されます。

2階長男居室:
東側の角部屋に当たる部分で、有三の湘南が使用した部屋になります。
正面に見える絵bんちは竣工当時からのもので、(居間は遺されていませんが)造り付けのベッドもありました。
また、窓枠は、外観から見ると「帝国ホテル」を設計したライト氏の影響を感じることができます。

2階妻/次女/三女居室:
山本有三邸時代は襖で仕切られ、和室として使用されました。
南側部分を妻が、北側を次女と三女が使用。

3階屋根裏部屋【非公開/パネル写真より拝借】:
和書斎上部は、ちょうど屋根裏部屋になっており、梯子をかけて出入りする感じになっています。ベランダからの外観写真で見たように、屋根部分に出窓が設けられているため、風通しがよく、有三の子どもたちの遊び場にもなっていました。
また、山本有三記念館は、非常に急こう配な屋根のため、大人が歩いても余裕のある高さになっています

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?