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わが心の近代建築Vol.32 厚木市古民家岸邸/神奈川県本厚木

みなさん、こんにちわ。
Vol.30にて長野県岡谷の旧林家住宅について記載しましたが、今回も文明開化以降、日本の殖産産業を支えた生糸について、厚木市久保地区に遺された厚木市古民家岸邸からアプローチをかけていきたいと感じます。

まず、厚木市は神奈川県のほぼ中央部分に位置し、江戸期より交通の要衝として栄え、西は丹沢山系、東は相模川に囲まれ、現在も県央部の重要な商業都市として位置付けられています。
また、江戸期には「大山山詣り」で賑わう大山街道の宿場町として栄えます。

Fベアド撮影「幕末期の厚木宿」 放送大学附属図書館より転載

また、江戸期より昭和初期まで、養蚕業が盛んに行われ、特に開港以降、諸外国は日本の質の高い生糸を求め、横浜港周辺には外国商館と日本人商人が集結。
厚木市は、生糸集荷地の八王子や、撚糸の街として栄えた半原(神奈川県愛甲郡)も近くにあったこともあり、「大山詣り」で街道ができていたこともあり、それが絹の道…
いわばシルクロードに切り替わり、横浜と生糸を通じてつながりました。
そのため、厚木市界隈には生糸で財を得た豪農たちの邸宅が数多く立ち並び、それらは戦後しばらく遺されていたものの、都心からのアクセスも良好なため、住宅地として注目されはじめると、昭和50年代を境にほとんどが消滅。
と、同時、近年では厚木市最後の生糸業も廃業。
厚木市古民家岸邸は、かつて厚木が生糸で繁栄したことを伝える貴重な遺構になります。

Fベアト撮影「宮が瀬への道に掛かる飯山の橋」【厚木市郷土資料館HPより転載】

岸家住宅は、養蚕業で財を得た、岸十郎平氏の邸宅として、薬医門は1886年、主屋は1891年に竣功しますが、平面図上では、6間取りの伝統的な養蚕農家の様式が遺されていますが、住宅とは別に、竣功当時は、現在こそ残されていませんが、3階建ての養蚕場が設けられ、また、創建当初から寄棟造り瓦葺になっており、従来の養蚕農家の建築構造にとらわれない、近代和風建築にみられる自由な発想になっています。
また、主屋部分は、明治30年代による子息の結婚、1923年の関東大震災の罹災における大正末期~昭和初期の復旧工事、2度の大改造がなされて現在に至りますが、この邸宅では、各時代の建築様式を堪能できる造りになっています。

岸重郎平氏邸宅(明治20~30年代観覧図)【厚木市古民家岸邸展示パネルより転載】

【たてものメモ】
厚木市古民家岸邸
●竣工年:主屋は1891年、藥医門は1886年
●文化財指定:厚木市指定有形文化財
●設計者:不詳
●写真撮影:可
●入館料:無料
●休館日:
 ・毎月の月、火曜日(祝日の際は翌日)
 ・年末年始(令和5年度は12月15日から1月3日まで)
●参考文献:BS朝日放映「百年名家」
●交通アクセス:
小田急小田原線「本厚木」駅より、半原行きバスにて久保停留場下車、徒歩5分

薬医門:
こちらは邸宅に先駆けること5年、1886年に竣功しましたが、江戸期は武家屋敷や公家、(扉を排したうえで)医師など、限られた身分の方のみに使用されましたが、明治時代になり、庶民にも使用が許されるようになりましたが、冠木などの太さや、薬医門を建てることができた面から、岸家の財力を窺い知ることができます。

邸宅外観:
次に岸家の外観を見ていきますが、主屋は1891年に竣功、近隣の半原地区には、撚糸場以外にも、全国から宮大工が集まった地区であり、設計者こそ不明なものの、その佇まいには、寺社建築にみられる技法が多く遺されています。
玄関も
 ・内玄関
 ・式台玄関
 ・僧侶用の玄関(数寄屋門をくぐったところ)
用途に合わせて3つの玄関が設けられています

内玄関:
こちらは創建当時のもので、伝統的な養蚕農家の玄関の面影を遺しています。:

式台玄関:
式台こそ竣工当時からあったものの、玄関に関しては、のちに増設されたものになっており、懸魚は〝波に千鳥〟となっています。
屋根の反りなど、先述したように寺社建築の伝統技法が設けられています。

数寄屋門:
式台玄関と中庭を切る形で数寄屋門を設ける形は、この地域では多く見られる様式で、式台玄関を増設した際に張り出された形になっており、至る所に数寄屋の様式が取り入れられています。また、一番注目したいのが、斫(はつり)の巧妙さには目を奪われます。

僧侶用出入口:
薬医門をくぐり、邸宅を見ていくと、玄関こそないものの、踏石などから玄関に使用されていたことが、仏事などに利用されていました。
また、この部分から邸宅を見ると、その全般がよくわかり、刷りガラスが多用されていることが分かります。ガラスは、竣功当時は使われておらず、明治30年代の改修時に設けられたものとなり、腰壁には、帝国ホテル竣工で日本の建築界を震撼させたスクラッチタイルが設けられています。

側面部分:
側面から2階部分を見ると、色ガラスが使用されています。
岸家では、様々なガラスが使用され、2階部分はタイル貼りになり、大正末期~昭和初期の改築時に設けられたものとなっています。

奥側写真:
奥側はお堂のようになり、富士山型のようなガラスが使用。
なお、こちらはトイレになっています。

平面図:
平面図を見ると、江戸期の古民家などに多く見られた6間取りの配置をベースにした配置になっていますが、江戸期の古民家建築に比較して、土間部分が狭くなっています。この理由として、銅板巣を見ると岸家では別棟に養蚕室を持っていたことが考えられます。
また、邸宅の随所に改築/増築した跡が見て取れるのも興味深いところ。

1階土間:
骨格自体は竣工当時の伝統的な養蚕農家らしく、天井は2階を支えるため、骨太な根太天井になっていますが、大戸部分には、のちの改修の際採光のためのステンドグラスが設けられ、ほかにも洗出しの床やタイルなど、新時代を思わせる意匠が盛り込まれています。

土間のステンドグラス

1階広間
次に、広間に向かいますが、この部分は家族で生活に天井部分を見ると、根太天井になっています。
が、天井が格子型になっており、言い換えるならば「根太格天井」となっています。
竣功当時からこの姿で、竣工当時から岸家住宅が斬新な邸宅であったことが窺い知れます。
また、建具において特に注目したいのが、板戸部分はクスノキの一枚板を使用した贅の限りを尽くしたものとなっています。

1階式台玄関/内観:
天井部分は重厚な格天井になっており、特に注目したいのが、廊下部分の仕切り部分には火灯風の窓が設けられており、窓枠には、黒漆に金泥を上塗りし、きらびやかな模様がつけられたものとなっています。その一方で、床部分などはタイル貼りになり、伝統的な舞良戸に関してはガラスが用いられるなど、モダンな側面も見えます。

1階玄関の間:
のちの増築で式台玄関っが設けられたことにより、近代的に改修。
立体感の透かし彫りの欄間からは、明治後期の職人たちの高度な業を感じることができます。
その隣には、曇りガラスに籠目をあしらった松皮菱の欄間があり、モダンさを印象付けています。

1階階段ホール部分:
玄関の間を奥に向かうと、階段がありますが、本来は、左側に見える部分に延長した急な階段でしたが、改修工事の際の会談を付け加えしました。
当初の予定では、階段部分に擬宝珠をつける予定でしたが、戦時中に改修された箇所だったため、戦時中の金属不足により、擬宝珠はつけられることはありませんでした。
玄関部分に階段をつける様式は洋風建築では多く見られるものの、和風建築では珍しく、岸邸では、その方式を巧みに取り入れています。

階段上部のアール:
階段部分で注目したいのが、創建当時の階段と改修時の階段が交わる箇所。天井を見ると、頭上をぶつけないよう、見事な反りとアールが付けられています。

1階10畳座敷:
天井は、黒漆塗りされた格縁天井になっており、材木も1枚板の優れたものが使用されています。
また、欄間部分も細かい細工がされており、見どころは多数あります。

1階奥座敷:
天井部分は竿縁天井である者の、床柱は丸太を使い、天袋のみの崩し対象になっています。

1階奥座敷の書院欄間:
書院欄間においては、厚木という場所柄か、箱根の峠を越える場面が描かれています。

1階厠部分の手荒所:
廊下側に中国風の窓と壺、そして釣り灯籠が見えますが、これは水洗となっており、ちょうど、龍の部分から水が出る仕組みになっており、見逃しがちですが、天井部分も、見事な網代状になっています。

1階男子トイレ天井部分:
天井は風車状に組まれた天井。窓部分は黒漆塗りの火灯窓になっており、精緻な桟崩しの組子になります。
壁側に備えられた照明はアールヌーボー調の唐草模様になっています。

1階女子トイレ天井:
女子トイレの天井部分は、換気用の透かし彫りに、窓部分は細い赤いガラスをステンドグラス状に用いられています。
このトイレ部分は、大正末期に増築されたものですが、一般邸宅で、ここまでこだわりを見せている邸宅も、全国的に稀有な存在ともいえます。

2階洋間:
通常、大正期の近代和風建築は、玄関わきに応接室として洋間を置く「一間洋間」になることが多いのですが、岸家では、明治初期に建てられた構造上から、のちの増築で2階に置いています。
室内は、天井の中心飾りや周り口のくり型など、正統派なものとなっています。
床材はリノリウムとなっており、国産化されたのが1919年であることから、岸家では、いち早く新素材を導入しています。

2階12.5畳間:
天井部分の木材は神代杉となっており、1枚が4枚、素地・漆塗り・焼き目入りと、贅をつくしたものが用いています。

2階10畳間:
次に、隣の部屋を見ていくと10畳間になり、欄間部分は毘沙門組という意匠。その形状はグラデーションのように形が変えてあり、恐ろしく手の込んだものとなっています。

2階10畳間:
岸家住宅で、最も格式高い客間となっています。
特に赤ガラスと刷りガラスで組まれた市松模様には、目を奪われることと思われます。一見、トンデモに思われるかもですが、東京五輪のシンボルマークにおいても、市松模様は使用されたもの。
豊臣秀吉の金の茶室において、障子は赤の紋沙が貼られていたことから、決して伝統を無視したものではないことが分かります。

2階10畳間の書院:
出書院においては精緻な花園風の組子があり、1枚の木から花びらをつなぎ合わせた、想像を絶する技法が用いられ、その上の欄間は三国志をモチーフにした彫り物が描かれています。

側面縁側:
10畳間の赤ガラスと摺りガラスの縁側。
表部分から見た内部はこのようになっており、見るものを圧巻させる意匠になっており、この迫力は満点です。
しかし、市松模様自体は古くから日本で使用されており、それを新素材のガラスと融合させたものになっています。

2階式台玄関側の縁側:
この部分のガラスには、摺りガラスが使用。
岸邸では、新素材が数多く使用されており、また生糸を通じて当時の貿易の窓口だった横浜とも繋がり、新機軸が次々に導入されていました。
その一方、2階3部屋の和室、共通に言える事なのですが、養蚕農家の古民家だったため、天井が低く抑えられており、この新機軸と伝統的な部分が見事に融合したものになっています。

【編集後記】
この邸宅に関しては、最初の記載まで計4回訪問しており、正直手を焼いた建築の一つになります。
また、この邸宅を記載したあたりから体調の優れない日が続き、今も闘病していますが、近代建築を通じ、自身の発表の場にし、自己肯定感を高めて行けたらばと考えています。

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