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映画公開後の疑問『オッペンハイマーをプロメテウスに例えて本当にいいのか?』

映画『オッペンハイマー』が公開されました。試写の時はさすがに内容に踏み込んだことを書くのは控えたのですが、無事公開もされたことですし、あらためて内容について書きたいと思います。

Prometheus Stole Fire from the Gods and Gave It to Man. For This, He Was Chained to a Rock and Tortured for Eternity.”

映画『オッペンハイマー』はこの引用から始まります。
「プロメテウスは神から火を盗んで人間に与え、そのために岩で鎖に繋がれ永遠の責苦を受けた」
はい。多くの評論家が「オッペンハイマーは現代のプロメテウスの物語だ」と書いています。ちなみに映画の原作と言われるピュリッツァー賞受賞のノンフィクション『オッペンハイマー』の原題は『AMERICAN PROMETHEUS』です。「オッペンハイマーは現代の、もしくはアメリカのプロメテウスである」というのはアメリカの共通認識のようで、この映画もそれを冒頭にもってきているわけです。
そして、この映画が抱える最大の論点はこの「オッペンハイマー=プロメテウス論」に言い尽くされているように思えます。

ほんとか?おい。
本当にオッペンハイマーをプロメテウスに例えていいのか?

プロメテウスを神から火を盗んだ人間だと思ってる人が多いですが、プロメテウスはギリシャ神話の男神です。寒さと貧困に困窮している人間を哀れに思い、神から火を盗んで人間に与えたところ、人間はその火を用いて文明を築きましたが、同時に戦争もはじめたため、ゼウスはプロメテウスを罰し永遠の責苦を与えたというのがギリシャ神話です。

要するに「今ある文明はプロメテウスのおかげであり、人類の代わりに永遠の苦しみを引き受けてくれている」というのがプロメテウスであり、人類にとっては足を向けて寝られない存在なわけですね。で、これがオッペンハイマーであると映画の冒頭で暗示しているわけです。

「この映画はオッペンハイマーを英雄化するものではない!」という批判が、試写の感想を書いたあとに多く寄せられました。あそこで人間的な欠点を描いているとか、ここで彼の苦悩を描いているとかそうした話です。でも「オッペンハイマーは現代のプロメテウスである」というど直球の神格化の前には、そうした「欠点」や「苦悩」は観客の共感を呼ぶための飾りにしか思えません。

そもそも考えて見てください。オッペンハイマーがプロメテウスだとしたら、核兵器って文明の根幹である「火」であることになり、人類は火を捨てて原始時代に戻れないように、核兵器を捨てられないことになります。今ある文明は核兵器のおかげであり、オッペンハイマーは全人類の利益と引き換えに罪と苦しみを引き受けてくれた偉大な存在であることになります。実際の話、アメリカではそんな受け止められ方をしているから評伝のタイトルが「アメリカン・プロメテウス」なんでしょう。そもそもこの「プロメテウス」という比喩自体が非常に核兵器に肯定的なわけですね。大概のアメリカ人と同じように。

でも違います。核兵器の是非をいったんわきに置いても、そもそもオッペンハイマーは突然核兵器を「発明」したわけではありません。

「一人の天才科学者の創造物が、世界の在り方を変えた」
日本版の予告はそんなナレーションで始まります。でも、誰でも知ってることですが、マンハッタン計画の原爆というのは「一人の天才科学者の創造物」ではないわけですね。アインシュタインの相対性理論からの発展で各国が原子爆弾の製造競争をする中、すごい数の天才たちが集められ、オッペンハイマーはその中心人物の一人であったわけです。

人間を神に例えることの是非、原子力エネルギーの是非はさておき、アインシュタインをプロメテウスに例えるのであればまだ分かります。純粋な知的営為としてほとんど一人で書き上げた相対性理論が、核兵器という存在を生んでしまったことにアインシュタインは苦しみ、核兵器反対運動に参加する。(ぶっちゃけた話、このアインシュタインの人生とオッペンハイマーの人生をイメージ的に混同している人がやたらと多い。)

オッペンハイマーは原爆の理論を創造したわけではありません。実際のマンハッタン計画の中心人物の一人ではありましたが、「もしこの世にオッペンハイマーがいなければ核兵器は存在しなかった」と考える人はほとんどいないでしょう。アインシュタインの理論が世に出た以上、ナチスだろうがソ連だろうが作れてしまうからこそ、他国よりも早く作らねばと必死になっていたわけです。

では、オッペンハイマーが歴史に決定的な影響を与えたことはなんでしょうか。それは原爆を作ったことではなく、「原爆を現実に落とす判断に加わったこと」です。
映画でも描かれていますが、原爆の完成よりもナチスドイツの降伏の方が先にやってきます。ナチスドイツが先に核兵器を手にする危険はなくなりました。残るは日本だけ。核兵器を開発する能力はなく、通常戦力でもアメリカが圧倒しています。

評伝『オッペンハイマー』は、マンハッタン計画で原爆製造に参加した多くの天才科学者が、日本への原爆投下に反対したことを詳細に書いています。以下引用します。

『レオ・シラードが草稿を書いたこの嘆願書はトルーマン大統領に対して、降伏の条件を公表しないまま、日本に対して原子爆弾を使わないよう強く求めている。「日本に課される降伏の条件が詳細に公表され、日本がこの条件を知りつつ降伏を拒否した場合を除き、アメリカ合国はこの戦争において原子爆弾の使用に訴えないものとする」。その後数週間にわたって、シラードの嘆願書は一五五人のマンハッタン計画関係科学者の署名を得た。これに対抗する嘆願書も現れたが、署名したのはわずか二名であった。一九四五年七月十二日、プロジェクトの科学者一五〇人を対象に軍が実施した世論調査では、事前警告なしに原子爆弾を軍事利用するのではなく、爆弾の威力を誇示する方に七ニパーセントが賛成した。』引用終わり

日本への原爆投下に対する反対署名155名、賛成署名2名。圧倒的な結果です。聡明な科学者たちは単に反対するだけではなく、警告やデモンストレーションを使って、日本に降伏を促す現実的な提案を練り、なんとか政府を説得しようとしました。評伝『オッペンハイマー』はレオ・シラードをはじめとする心ある科学者たちの動きを詳細に書いています。

「シラードたちの反対運動は映画でも描かれたではないか」と言われるかもしれません。しかし評伝で描かれるオッペンハイマーは、映画のようにシラードたちから差し出された署名を拒否するだけではなく、猛然と彼らに食ってかかり、原爆投下を推し進めたことがわかります。

『それでもオッペンハイマーは、シラードの嘆願書をテラーが見せたとき本気で怒りを表した。テラーによると、オッピーはシラードとその仲間を軽蔑し始めた。「彼らは、日本人の心理について何を知っているのだ?戦争を終わらせる方法を、どうやって判定できるのだ?」こういった判断は、スティムソンやマーシャル将軍のような男に任すべき判断だと言うのだ。「われわれの会話は短かった」と、テラーは回顧録の中で書いている。「彼の語調の厳しさ、わたしの親友に対する彼のいらだちとしさは大いにわたしを苦しめた。しかし、わたしは素直に彼の決定にしたがった」』引用終わり

オッペンハイマーは、「流れに逆らえなかった」のでもなければ「知らなかった」のでもなく、マンハッタン計画の科学者たちのほとんどが必死に原爆投下を阻止しようと知恵を絞り、政治を動かそうとする中で、なぜか彼らの運動を無視し、時には妨害までしました。それは映画で描かれたように、単に求められた署名を無視するようなものではありませんでした。
「それがどうした、この映画はそのようなオッペンハイマーを批判的に描いているのだ、だから誠実なのだ」という反論があるかもしれません。しかしそれにしては、評伝からオッペンハイマーに不利なシーンがあまりに多くカットされているように思えます。

映画『オッペンハイマー』をめぐる批評は極めて奇妙な状況にあります。自分なら広島や長崎の被害を描く、と言及したスパイク・リーの言葉はかき消され、避けられる、少なくとも避けようとすべきだった非戦闘員20万人の核兵器による大量殺戮を避けようともせずに前のめりで推進し、そして戦後も「大義があった」「後悔はしていない」と言い続けたオッペンハイマーに対して「この目を伏せるシーンの深い苦悩がわからないのか!」と彼の倫理を見出し、それに反論すると「これはオッペンハイマーを批判的に描いているのだ、わからないのか」と論調が変わり、そしてまた「彼は現代のプロメテウスだ」というキャッチコピーに回帰します。それはまるでエッシャーのだまし絵を見ているようです。

長くなりすぎるので、いったんここで投稿しようと思います。最後に月額マガジン部分で、この映画からカットされた戦後のオッペンハイマーについて評伝から引用したいと思います。「広島長崎の被害に衝撃を受け、水爆開発に反対した」それは確かに嘘ではありません。しかし映画が描かない事実として、彼は戦後も、あの広島と長崎の被害を見た後でも、小型戦術核の使用と配備について極めて積極的でした。

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