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試写会で見た『オッペンハイマー』に日本の観客として感じたこと

映画『オッペンハイマー』の試写会に行ってきました。日本中の映画関係者が来ているのではないかと思うほどの大劇場満員の試写で、受付だけで大行列でした。
まずはこの映画の配給に手を挙げてくれたビターズ・エンド社にお礼を言いたい。アメリカで映画賞総なめ状態にも関わらずこの映画の公開はなかなか決まらなかった。『正欲』『熱のあとに』など優れた日本映画の配給を支える一方、こうした火中の栗を拾うような作品も配給してくれるのは映画ファンとして足を向けて寝られない。
『オッペンハイマー』の映画技術も素晴らしいものだった。ちょっと『シン・ゴジラ』のスピード議論劇を思わせる情報の洪水とともに、この世の果てでプロメテウスが火を拾うような映像が怒涛のように押し寄せた。180分という上映時間を長く感じないといえば嘘になるが(流石に疲れた)技術的には圧巻と言うしかない。

日本で見られてよかった。配給してくれてありがとう。
ここはハッキリさせておきたい。

しかしだ。

日本の観客がこの映画を見て納得できるか、映画ファンとしてではなく日本人として納得できるかというのはまた別の話である。

正直に言う。
日本人の命は軽い。
それが『オッペンハイマー』を見た正直な感想だ。
それは映画の中の1945年に軽く扱われているのではなく、この映画が公開され、絶賛の中でアカデミー賞が確実視される2024年の今、アメリカ映画の作り手とアメリカの観客にとって、日本人の命はいまだ軽い。

「反核映画だ」「原爆投下を賛美するものではない」というこの映画に対する擁護はその通りだと思う。この映画のテーマは核兵器の肯定ではなく、オッペンハイマーという人物の名誉回復に重きが置かれている。原爆がいいか悪いかというより、オッペンハイマーは確かに共産主義者と深く付き合ったがソ連のスパイではなかった、という点に映画は最も多くの時間を割いている。

広島と長崎に対する葛藤や悔恨は確かに描かれてはいる。アリバイみたいに。でもそれは軽い。ビックリするくらいに。ビターズ・エンドはあえて広島や長崎でも『オッペンハイマー』の特別試写を行うことを発表している。

>試写会では、特別ゲストが登壇しての質疑応答が行われる。広島会場には、元広島市長の平岡敬氏、詩人・絵本作家アーサー・ビナード氏、映画監督・作家の森達也氏が参加。長崎会場には、「長崎県被爆者手帳友の会」の朝長万左男会長と政治学者の前嶋和弘氏が出席する。

逃げていない。原爆の被害に誠実に向き合っている。でもそれは日本の配給会社ビターズ・エンドがである。アメリカの作り手ではない。

映画の中で、広島と長崎の被爆者に対する扱いは信じられないほど軽い。日本人なら誰もが知る悲惨で衝撃的な映像はすべて画面の外に追いやられ、映画はオッペンハイマーという天才の栄光と悲劇を描いていく。

この記事だけでもう3回くらい繰り返してるけど、この映画が日本で配給され、公開されたのは正しいことである。でもそれはこの映画の内容を日本の観客がまるごと肯定しなくてはならないという意味ではない。(20240229 23:00修正)確かに反核描写はある。でもそれはオッペンハイマーという人物を「彼は痛みを感じていたのだ」と名誉回復するためのものであって、その痛みそのものである広島長崎の被爆者をカメラは一度も映さないし、アメリカの批評家と観客はその痛みを見ないままこの映画を絶賛し、おそらくはオスカーを与える。(20240229 22:54修正)

そのことについて日本の観客が物分かりのいい顔をする必要はないし、するべきでもない。もう一回言うけど、1945年ではなくこの2024年において、われわれはアメリカ映画の作り手と観客から同じ人間だと思われていない。

申し訳ないが、ちょっと打ちのめされてしまった。それは映画が素晴らしいからではなく、アメリカ人にとっての広島と長崎と日本人の命の耐えがたい軽さにである。

ここからは映画のネタバレになる。なんだか本当に体調悪くなってしまったのであまり書けないけど、申し訳ない。

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