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映画『PLAN75』が描くのはファシズムではなく「近代」である話と、別の映画『いのちの停車場』の吉永小百合の話(6月30日加筆)


『PLAN75』の予告編を映画館で見た時、正直なことを言うと「あっ、またこのネタでやるのね」という思いがよぎった。75歳以上の安楽死が合法化された未来の日本。老人の「姥捨」を書いたSF作品は、藤子不二雄の『定年退食』(1973年)など、昔から存在する。このネタで『世にも奇妙な物語』でやるくらいならいいけど、長編映画はダレるんじゃないの?と思っていたのだ。

だがそうではなかった。変な言い方だが、この映画は最初から最後まで強烈なスリル、息もつかせないサスペンスに満ちあふれている。この映画には敵との戦いもカーチェイスも銃撃戦もない。でも優れた映画監督は、社会や制度というものがキリキリと一人の人間を追い詰めていくプロセスを、形而上的なサスペンス映画として構成することができるのだ。一人の老人が生きるのか、それとも死ぬのか。この映画を見る観客はその行方に息を呑む。ハリウッドのアクション映画と同じ、いやそれ以上に自分たちの物語として。

映画の中で、75歳での死は法的に強制されるわけではない。すべての75歳以上が死ぬわけでもない。リッチな老人、子や孫に愛される老人は変わりなく天寿を全うすることごできる。そうでない老人にも、誰かが「早く死ね」と石を投げるわけではない。そうした分かりやすい「悪役」を絶対に作らないことが、逆にこの映画に深みと凄みをあたえている。

この映画がそうした切迫感を持ち得ている理由の一つは、リアリティの積み重ねにあると思う。メディアは「プラン75」と呼ばれる安楽死選択を丁寧に、おだやかにコマーシャルする。生命保険のcmと同じトーンで。役所の職員はナチスまがいの過剰な演技をせず「なるほど、確かに実際の公務員ならそうするだろう」という言動を重ねる。主人公を演じる倍賞千恵子が訪ねる不動産屋も、心を失った冷酷な人間としては描かれない。彼らは良心と近代的自我を持った社会人として丁寧に描かれる。だからこそ当たり前の日常の積み重ねの上に「近代が人を殺す」ことの圧倒的な絶望感、良心ある人々が死刑を執行することの恐怖が観客を圧迫する。「間接的な死」の選択という意味で、それはかつて戦場に若者を送りだした時の社会にとても似ている。

もしわずかでも過剰な演出があれば、その恐怖は「私たちはこの映画とは違う近代的な社会に住んでいるのだから」という観客の心にかき消されてしまうだろう。架空のファシズムではなく、近代から疎外される人々を描く点で、この映画は『万引き家族』に似ている。

この映画は、未来のディストピアを描こうとしているのではない。ある意味では、ここに描かれていることは今すでに目の前にある日本の現実なのだ。韓国映画は自分たちの社会問題を映画によく取り入れている、と語られるが、『PLAN75』は日本の社会構造が抱える問題を見事に映画として昇華させていると思う。

この映画に切迫感を与えたもう一つの要素は、コロナ禍だと思う。新型コロナは高齢者に極めてリスクが高い。リッチな老人は感染の危険を避けて安全な環境で暮らし、万が一感染しても迅速に、万全の医療を受けることができる。貧しい老人は年金が出ない中で感染の危険の中で労働し、そして治療も遅れる。経済を回すために誰もがリスクを取るように見えて、「結果的に」貧しい高齢者のリスクが「確率的に」高まる。そのシステマティックな死は、この映画で描かれる死とよく似ている。

そうした映画のリアリティを支えているのは、俳優たちの演技だ。誇張された冷酷なキャラクターではない、そこで生活する人間の繊細な人間性が表現されるからこそ、繊細な人々から見捨てられ、あるいは繊細な心のまま死を決意するシステムが立ち上がる。倍賞千恵子はじめ、磯村勇斗ら俳優陣は素晴らしい演技を見せている。是枝裕和監督との対談によれば、倍賞千恵子の意見によってシーンの描写が変わることもあったという。俳優たちが強い意識とモチベーションを持ってこの作品に臨んだことがわかる。

早川監督が語る倍賞千恵子のエピソードを読んでいて、思い出したことがある。吉永小百合と松坂桃李、広瀬すずが演じた『いのちの停車場』という映画のことである。『PLAN75』に比べて、この映画の評価は必ずしも高くない。凡庸でセンチメンタルなヒューマンドラマ、という酷評もあるし、吉永小百合ファンの高齢世代を当て込んだ作りという批判もある。そもそも撮影の真っ最中に看板俳優の一人である伊勢谷友介が逮捕されてしまったので、彼の分のエピソードが宙ぶらりんのまま終わっているなど、瑕疵の多い映画だ。だがいくつかのエピソードをつないだこの映画で、吉永小百合はラストシーンについてある重要な変更を監督に提案している。
過去にフライデーデジタルに書いた自分の記事だが、引用させてほしい。

実は『いのちの停車場』の原作は、明確に安楽死を肯定し、その法的整備を求めるメッセージのもとに書かれている。主人公は苦しむ父親を安楽死させ警察に自首し、社会にその是非を問うのだと語って小説は終わる。上記の記事にあるように、吉永小百合はそのラストを変更し、主人公が父親を安楽死させるか否か、その寸前で映画を終わらせ、結論を観客に委ねている。

こんな変更は、おそらくこの映画で共演した松坂桃李や広瀬すずが提案しても絶対に認可されないだろう。原作は最初からその結論のために書かれたと言っても過言ではないほど明確に安楽死制度の導入を打ち出している。ある意味ではそれを吉永小百合という戦後日本のアイコンに演じさせることも含めて、「死の肯定」に傾いた映画だった。その背景にどういう意図があったのかは今となっては分からないが、それを監督を超えプロデューサー、制作会社レベルまで動かすような「急ブレーキ」を踏ませ、映画のラストシーンを書き換えさせることは、吉永小百合という日本映画界にとっての絶対的存在にしか出来なかったことなのではないかと今も思う。

「当初は原作通りの結末を演じるつもりで受けたが、撮影中にこのコロナ禍で多くの人が亡くなられる状況で安楽死を描くことがいいのかと思った」と映画の舞台挨拶で語る吉永小百合のことをよく覚えている。その言葉は、前掲の是枝対談の中で「コロナ禍によって映画の結末を変えようと思った」と語る早川監督の言葉と驚くほどよく似ている。

倍賞千恵子は80歳、吉永小百合は77歳になる。戦後の日本映画を支えた2人の大女優が、まったく違う、2つの死についての映画で見せた、どこか通じるような姿勢を、『PLAN75』という優れた映画が巻き起こす反響の中で思い返している。

無料部分はここまでです。ここからは、映画の結末に関することと、SNSで攻撃の対象となるのがしばしば高齢男性であること、自分の職場でかつて亡くなった同僚の高齢女性について、個人的なことを含めて月額マガジンで書きたいと思います。加入すると他の記事の月額部分もすべて読めますので、投げ銭のつもりで読んで頂けたら経済的に助かります。

(6月30日追記 記事を書いた時は売り切れで入手できなかったパンフレットを入手できたので、月額マガジン部分に感想を追加しました)

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