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幸田露伴の随筆「折々草1」

折々草

      一 愉快(試みに心のたのしさを数えてみる。)

1        旅行(たびじ)の空に年月を重ね、さまざまな辛いことや心悩ますことに逢い尽くして、人の心の冷ややかな状(さま)や銭(かね)の力の大きなことなどを悟り、懐中(ふところ)寒く、袖も露に濡れる荒野に浮世の味のつくづく辛いことを知って、今は松風蘿月(しょうふうらげつ・風に吹かれる松や月光に照される苔)の汚(けが)れない自然を友に、片田舎の小さな庵(いおり)で人知れず一生を終えるか、と思っていたが、故郷(ふるさと)に帰り来て我家の前の柳の樹がマズ眼につき、家(うち)に入り久しぶりに母上の縫い玉われた蒲団にくるまって安心して寝たるうれしさ。
2        昔は共に競い合った友に思いもよらず、旅空で会ったうれしさ。
3        生命(いのち)が何だと夢中でとばした何年。今さら取り戻すことも出来ないで、口惜しい口惜しい、励(はげ)め励めと、怠りがちな心にムチを打ち、ようやく半日ほども真剣に学んだが、肩も凝り眼も疲れたところへ知り合いの美人が訪れ来て、向島の田舎育ち、姿卑(いや)しくとも香(かおり)高いこの花君が、瓶の中に挿してくれれば嬉しいと、笑いながら贈りくれた早咲の梅を、そのまま無造作に床の間の瓶に投げ入れ共に眺めて、渋茶一杯に談話(はなし)の一ツ二ツしたるうれしさ。
4        三四里離れた所に閑居している友を訪れて、互におもしろく風流の話や修行の話の合間に、一ツ二ツは浮世の恋物語なども交じり、誰に遠慮なく高笑いした揚句、飯時(めしどき)になって食事作りも主客別無く働いて、しかも出来た煮物の塩辛いのに眉をひそめたおかしさ。
5        顔色美しい十一二の男の子に、八百善(やおぜん・料亭)の料理した肴を食わせてもサホドよろこばず、浅草の賑やかさを見せても嬉しがりもしなかったが、我家の子犬を欲しそうにしているので、「遣ろうか」と云えば目を輝かせ罪もなく嬉しそうに笑って、もはや我が物だとばかりに犬の頭を撫で首筋を抱いて楽しそうにした長閑(のどか)さ。
6        恐ろしく聳(そび)え立つ巌(いわ)の上に我ただひとり突っ立てば、長風(ちょうふう)は裾を煽(あお)り袂(たもと)に満ちて、足下(あしもと)に騒ぐ女波(めなみ)男波(おなみ)は、折から差し来る潮の勢いにいよいよ烈しく凄まじく、ドウドウドッと一打(ひとうち)鋭く砕け飛び、白玉がバラリと虚空を掠め落ちて、満身濡れ渡った心よさ。
7         思いがけず山道で迷い、行けども行けでも森暗く露立ち込めて、方角を失い目標も忘れ、腹さびしく心細く、おぼつかなく独り歩めば、日はつれなくも我を見捨てて、天地は薄墨色となり杉の葉が風に鳴る気味悪さ、今は絶対絶命と観念したが勇気少しも無く、懐中に水を湛えたような寒さを覚えたその時、幽かな火の光を見つけ、それを頼りにあばら家に着き、ヤレ嬉しやと思いつつ、どのような人の住む家かと恐る恐る戸を叩いて困っている事情を述べれば、親切な老婆が出て来て、「それはそれはお困りでしょう」とやさしく言葉を掛けてくれたうれしさ。
8        おもしろくもない俗事に身体を使い心を煩わせた後、夜更けに幽かな灯火の一室で、刀を抜き放し、手元から切っ先まで、切っ先から鍔ぎわまで何度か見送り見迎え、やがて立ち上がり、一振り二振り打ち揮(ふる)って空(くう)を切る音を聞く心よさ。
9        年老いた僧が安らかに経を読むのを静かに聞いている中、何事も自然に忘れてただただ香烟(こうえん)が肝に沁みるありがたさ。
10     四ツか五ツの女の子が、池の中へ麩を幾つともなく投げ込んで、鯉や亀などが食う状(さま)を無心に見入っている、あどけない横顔の美しさを見たうれしさ。
11     何処まで行くのか知らないが、デンデン虫が長閑に這い歩く様子の風流。
12     作り話を本当の事と思い込んで頻りに鼻の頭を脂ぎらせて、田舎の人が語るのを聞いて居る。
13     夏の日が烈しく窓を射る書斎に黙座するのも中々辛く、朝鮮うちわに水を打って自(みずか)ら煽ぐも凌ぎ難く、氷水を呑んでも汗ばかりやたらに湧いて効果の無い時、思い切って手拭いと浴衣を引っさげて、恐ろしい炎天の中を傘なしで急ぎ歩き、銭湯に行き肉もはじける程の熱い湯の中に躍り込み、しばらく歯を噛みしめて苦しさを我慢した後で出てくれば、満身は紅(べに)を塗ったように赤く、汗は玉となり一時に流れ落ちる。尚また微温湯(ぬるまゆ)で髪を洗い終わった後、褌(ふんどし)一ツで縁側に突っ立ち、糊のきいた浴衣を着た心よさ。
14     庭前(にわさき)に只一つある梅の香りが、夜中の寝覚めの枕に通うおもしろさ。
15     片田舎の学校の辺りで無心に衣服(みなり)のきたない子供らが皆で遊びながら、鄙(ひな)びた(田舎訛りの)声を張り上げて君が代歌う有難さ。
16     白髪頭(しらがあたま)の老いぼれ漁夫が酒に酔って昔時(むかし)の態(さま)を現わし、放言豪語、風雨を叱咤し波浪を喝退する勢いものすごく、同座の客が辟易するのも構わずに終(つい)にはそこに倒れて横たわり、雷のような鼾の声、傍(そば)に居てその爺が何を夢見るかと考えるおもしろさ。
17     草鞋(わらじ)の履き心地のよい。
18     美人の給仕は云うまでもなく嬉しいが、たとえ美人でなくても物腰優しい女性が厭な顔もしないで給仕してくれるのは大層うれしい。
19     広い野原一杯に繁り合う草の葉末の一ツ一ツに露が玉となって、天上一輪の月が千万となって一ツ一ツの露の玉の中に宿る景色、この露草の月の中をどうやって踏み分けて行こう。
20     雨の日、友達の筆のあと心の趣きを見る。
21     雪の夜に粥(かゆ)を啜(すす)って、古い我が旅の日記を繰り返し見ると、彼の山や此の川が目前に徘徊するおもしろさ。
22     風の無い朝に早起きして袖の寒い中を静かに歩む、落葉がヒラヒラとひるがえり魂も引き締まる初冬の寂しさ。
23     目を止めて飛び交うホタルを見れば、或る時は光りが消え、又しばらくして光り出す、その消えては光る間が我が命の終りの様子のように思えて、大層尊くあわれが深い。
24     浪の上にあかあかとさし昇る日を拝む時。
25     親類や友達の消息を知った時。
26     借金を返し終えた時。


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