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幸田露伴の小説「プラクリチ②」

 阿難は仏弟子中の最も若い方で、釈迦が成道した年に生まれ二十五才で出家したと伝えられるから、釈迦よりも若いこと三十才、たとえ十年以上修行していたとしても男盛りであった。男振りは兄の提婆達多(だいばだった・デーヴァダッタ)が三十二相を具(そな)えて、仏に及ばないことただ二相であったというその弟として、刹帝利種(せっていりしゅ・王族)の立派さが有り、身長も釈迦に及ばないこと僅かな好男子であった(「十二遊経」)。しかも兄に比べて柔和で仁恕の性質で、そして謹(つつ)ましく聡明なことは無類で、その上に感激すれば我を忘れて敢て進むことは、阿奢世王(あしゃせおう・アジャータサトル)の望伽婆(ぼうかば)と云う有名な大悪象が、釈迦を殺すために象使いに酒を飲まされて奔走突進して暴れた時に、幾百人もの比丘(僧)が総毛だって吾が仏を捨てて逃げ去ったが、阿難一人は敢然と釈迦の前に立ちはだかって護ったと云うほど、男らしい美(うる)わしい気持ちを持った人であった。一ト口で云えば如何にも好い人で、仏の十大弟子は皆傑物であるが、その中でも今云う人間味の一番多い人で、それに禍(わざわい)されて証道(しょうどう・仏道の実証)が一番遅れた人なのである。
 このような阿難が平等の大義を実践して貧富貴賤さまざまな家々を訪れて行乞して施しを求めたのであった。別に何事も無かったが、因縁は不思議なものである。見えない導火線がドコにドウ張り巡らされていて、一点の星火がソコに発すると同時に、大爆発が起こるか分からないのが人生の実相である。阿難は朝からの行乞に疲れた。それでなくても暑いインドの夏の日は烈々と照り輝いて、道路は炎を吐くように熱かった。目が眩(くら)むように一切の物が光った。顔もほてり身体もほてり皮膚は赤くなった。強い渇きを覚えてほとんど無意識にモウ一椀の水を欲した。フと見るとチラホラ散在する侘しい家々の間に一つの井戸が在って、今しもその井戸から水を汲んで立ち去ろうとする若い女のスラリとした姿が眼に入った。阿難は井戸に近づいて水を乞おうとした。女は気付いて若い僧を見た。鉢を手にして慇懃に近寄る上品な僧と、水瓶を手にして今去ろうとする生気溌剌とした女。目と目が合って、二ツの情は互いを映した。云わず語らずに、互に応(こた)える。人と云う者が誰でもが持っている不思議な優しい作用が動き出して、未だ口をきかないうちに女は阿難の意(おもい)を理解し、阿難は女が自分の願いを容れてくれそうに感じた。そこで阿難は作法美(うる)わしく水を施してもらおうとした。二ツ返事でハイハイと呉れるハズのところが、婦人は心が細かい。ココにきて変化が生じた。「おやすいことでございますが・・」と、ちょっと仕方無気(しかたなげ)な情けない様子をして、「あの私は摩鄧伽種(まとうがしゅ)でございまして・・」と恥ずかしそうに云った。それは全く自分を卑下して、卑賎な者の手から物を与えて高貴な人を汚すのは宜しく無いという美(うる)わしい情からであった。
 インドは早くから階級の差別が社会の実際にも個人の感情にも成立していて、婆羅門(バラモン・僧侶、司祭)、刹帝利(せつていり・クシャトリア・王族)、毘舎(びしゃ・ヴェーシャ・商人、市民)、戍首陀羅(じゅだら・シュードラ・農工労働者)の四姓が厳然と認められていて、そしてその一番下の階級である戍首陀羅のそのまた下に旃陀羅(せんだら・チューンドラ・賎民、屠畜者などの卑種、一般の人からほとんど人間扱いされないようなもの、)が置かれていて、旃陀羅と交際したり物品を交換したりすることは用心するような大事になっていたのである。この四姓と旃陀羅の区別は吠陀論師(べいだろんし・インド最古の宗教聖典である吠陀の論者)の昔から在ったことで、当然のこととされていたのである。今この女が自ら云った摩鄧伽種と云うのは旃陀羅種である。摩鄧伽は人名ではない。摩鄧女経や摩鄧女解形中六事経に人名のように訳してあるのは誤りである。摩鄧伽は卑賎な労働に従事する者の名称であり、その種の男性をマータンガと云い、女性をマータンギと云うのである。阿難に関係して事件を起こしたマータンギの名は鼻那耶(びなや)経の巻三には鉢吉蹄(はちきってい)と出ている。それが本当の名前である。鉢吉蹄(プラクリチ)が自分の身分についてコウ云って水を与えるのを断ったのは、今から見れば異様に聞こえるが、当時の世情から云えばコレは正に美わしい心の現われである。阿難が炎天に行乞した今日の苦しい修行も、須菩提や大迦葉よりも一段上に出る差別否定、平等の見地から張り切ってやっているのである。それなのに憐れな身分の女が、世間の愚かな道徳に縛られて一碗の水の布施さえも憚るのを目の前にしては、云わずにはいられないのである。そこで、「沙門(しゃもん・僧である私)は平等を大切にしていて差別を忘れて居りまする、人は考えに善し悪しはあっても何で身分に分け隔てがありましょう、旃陀羅とか旃陀羅でないとか云われなくてもよいでしょう」と云った。プラクリチは愕然として驚いた。しかし自分達が何時も世の中から受けている態度から余りにもかけ離れているので急には信じられず、また阿難の方では知らなくてもプラクリチの方では薄々知っていたと見えて、「とはおっしゃっても、貴方は刹帝利種の尊い御身分から今は仏門に入られた清い御修行者、しかも波斯匿王の御崇敬を受けられたて御妃(おきさき)の末利夫人の阿闍梨(あじゃり・修行の規律を指導し教義を伝授する高僧)となっておられる御方、私は哀れな卑しい旃陀羅種、滅相も無い勿体ない」と、再び卑下して辞退した。阿難はイヨイヨ勢い込んで、「何の、遠慮されるには及ばない、貴賤は仮の姿、差別は人の偽り、白も花なら赤も花、日輪の照らす光に分け隔ては無く、月夜に置く霜にも隔ては無い道理、ソウ身分のことに気をかけられるな、閻浮(えんぶ・現世)の衆生、誰が菩提の同行で無い者があろう、御身(おんみ)は我が道の妹である、我は御身の道の兄である、早く早く水を施したまえ」、と云うように諭したのであろう。プラクリチはついに承服して、水を汲んでマズ阿難の足に潅(そそ)ぎ、また水を汲んで阿難の手に潅ぎ、何くれと阿難に奉仕した。阿難は無事飲み終わって祇陀林の精舎へと帰ったが、後を見送ったプラクリチは恍惚(うっとり)と立ち尽くしたままになった。平等の説法は好かったが、ナルホド差別は人間の偽りで刹帝利も旃陀羅も異なったものでは無いと思うと同時に、プラクリチの胸中には恋愛の炎が猛然と立って、爆発破壊の作用を自他に及ぼし始めたのである。
 プラクリチは母に阿難を婿にして欲しいと迫った。母がそれは出来ない事だと止めたけれども肯(き)かなかった。これが叶わなければ毒を飲むか喉を突くか首をくくるかして、死んで仕舞うと駄々をこねるので、母は仕方なく折れて、摩鄧伽種に伝わっている呪術の力で阿難を祈り伏せようとした。
 摩鄧伽経などでは前述のような経過で阿難の難事が起こるのであるが、楞厳経では阿難が行乞の途中でいきなり大幻術を使う摩鄧伽の娘に遭遇して、沙吡迦羅(しゃびから)の先梵天(せんぼんてん)の呪術によって婬席(いんせき・魔界)に取り込まれたとある。楞厳経のようでは余りにも唐突で、かつ摩鄧伽の娘が娼婦のようで、また呪ったのも摩鄧伽の娘自身のように思われて話の展開が妙味に欠けて甚だ本当らしくない。沙吡迦羅は劫比羅(かびら)とも云うと注記にあるが、劫比羅であればもちろん外道のカピラでは無くて、鬼神のカピラで無くては釣り合わないし、又、それにしては先梵天呪というのが何だかおかしく旧注は認められない。プラクリチの母の呪術や呪文も経によって少しずつ異なるが、比較して考える必要はないだろう。ただし虎耳経(こにきょう)や摩鄧伽経の祈り方は、牛糞を地に塗り白茅(ちがや)を布いて、大猛火を燃やして、百八枚の妙遏伽花(みょうあかけ・想像するに白色の花)を、呪文を一度唱えては一茎を火中に投じると云うのが後者の法で、八瓶の水を貯えて、花を持って呪文を唱えて一ツ一ツの花を水中に投げ入れると云うのが前者の法で、何れにしても花に呪文をかけるところが芝居気があって面白い。ただ鼻奈耶に出ている修法では、牛糞、五色の結構、四瓶の水、四種の香水、四椀の漿(こんず)、四口の太刀を牛屎(ぎゅうし・牛糞)に立てて、四角頭に四枚の矢を立てて、八明灯を燃やして、四死人の髑髏(どくろ)を取って、種々の香をその上に塗り、花を地に布いて、熨斗(のし)を放(ほう)って焼香し、右繞三匝(うぎょうさんそう・右回りに三回廻り)して東方に向い跪(ひざまず)いて呪文を唱えるなど、だいぶ道具立てがエログロがかっていて面白い。
 子供可愛さに懸命に母は祈った。祈りが効いたのであれば阿難に罪は無いが、祈りが効いたので無ければ阿難は怪しからん男になるわけなので、たぶん祈りが効いたのだろう。阿難はやがてフラフラとなって、夢遊病者のように祇園精舎を抜け出して、釣り糸に引っ張られた魚のようにプラリクチの家に迷い込んだと云う。十分に御化粧をして、寝室を飾って、待ち焦がれていた娘は、願望成就とイソイソとして阿難を迎え入れ、呪術に縛られて茫然自失(ぼんやり)しているのを、手を取ったり、抱きついたり、衣装を引張ったり、身体をひねったりして、楞厳経の文句だと、正に戒律を破ろうとしたのである。阿難は大力の人であったが、呪文のために動くことが出来なくなったと云うことだが、如何にもそうだろう。反自然の釈迦の教えにおとなしく従って、破壊を掌る恋愛の否定に永い間努力してきたものの、ここに来て自然の虜(とりこ)とされたのだから。こうなるとこのような呪術は自然ということと同じ意味になるから妙だ。
 この時阿難のこの苦悩を知った釈迦は呪文を唱えて遥か離れた阿難の苦境を救った。摩鄧祇(まとうぎ・摩鄧神)の法は破れて仕舞った。阿難は網から逃れた魚のように精舎へ飛んで帰った。阿難の従弟の難陀(なんだ)は一旦は僧になったが、美しい妻の孫陀利(そんだり)を想い出して堪らなくなり、清らかな祇園精舎の白壁に対して破壊作用を行って、恋しい孫陀利の似顔絵を派手に画いて阿羅漢たちをビックリさせたことがあったが、おとなしい阿難はその清らかな白壁の中に入ってホッと息をついたのである。楞厳経では文殊が釈迦の指示を受けて摩鄧伽の家に行って救い出したことになっているが、それもよい。そしてそれから阿難の慚愧悲憤の事件を縁とする大説法が始まって、一代法門(いちだいほうもん・仏教)の精髄、成仏作祖(じょうぶつさそ)の正印と云われる首楞厳経が成立するのである。
 とにかく阿難はそれで済んだからよかったが、済まないのはプラクリチである。捕らえたウグイスの声を一ト声も聞かないで逃げられたのだ。追いかけるのは格好良くないが、追いかけずにはいられない。今はモウ恋に狂って半狂乱だ。完全にこの間までの自分を破壊してしまった。明くる日になると、好い衣装を着けて金環や銀珮(ぎんぱい・共に耳飾り)で飾り立て花を挿し香を塗り、シャナリシャナリと舎衛城に出掛けて、城門で待ち構えて阿難の来るのを見張っていた。阿難は例のとおり出掛けて頭陀行(ずだぎょう・行乞)をする。待っていましたとばかりその姿を見ると傍へやって来る。打つわけにもいかず、大声を上げて𠮟るわけにもいかない。仕方ないから黙々として構わずに行くと、プラクリチはプラクリチで勝手に後をつける。東に行けば東へ、西に廻れば西へ、進んでも止まっても出ても入っても、何処までもついて来る。托鉢僧の後ろに美しい女の随行などは何とも奇妙な図である。阿難もこれには弱り返ってしまった。参った。敵わないとはこの事だ。と云って阿難はいかにも良い人なので、何か計略を施して振り切る事も出来ない。そこで、子分の出来ない事は親分がという訳でもあるまいが、全く困り切った顔で釈迦にこの事情を申し上げて、「どうにかしてくださいまし」とお願いした。釈迦も神通力で女を吹き飛ばしてしまう訳のもいかないので、プラクリチを呼び出して、「どうしても阿難を夫にしたいか」と質(ただ)すと、「さようでございます」と云う。「それなら婚姻は父母の承知が必要だ、目の前で父母の同意を聞きましょう」と云うと、女が父母を伴って来て承知の旨を申し上げる。いよいよ完全に親子の今までの生活は破壊されてしまった。そこで釈迦はまた一段進んで、「阿難を夫にしたいのであれば、出家してその容(かたち)を学ばなければ」と云うと、女はハイと素直に答える。善哉(ぜんざい・目出度いかな)、善哉(目出度いかな)、ここに於いてプラリクチは比丘尼にされて仕舞った。後は建設も何もない破壊に終わって、モウこれからは何も無いことになったが、どうしてどうして破壊はこんなことでは終りにならない。(③につづく)

注解
・阿奢世王:古代インドのマガダ国の王。父の頻婆娑羅(ビンビサーラ)王を殺して王位につき、マガダ国をインド第一の強国にした。後年釈迦の教えに帰依し仏教の熱心な保護者となった。
・摩鄧女経:摩鄧女が阿難に対し愛執を抱き呪で誘惑するが、仏の教えにより悔いて仏道に帰依する経。
・摩鄧女解形中六事経:摩鄧女経が行乞の阿難に水を乞われるところから、仏に眼鼻口耳悪魔の六事の説明を受けて仏道に帰依するまでが書かれている経。
・鼻那耶経:諸菩薩が仏の許可を得て、念誦法や所願成就法や浄行法などを説く経。
・摩鄧伽経:別名「摩鄧女経」とも云う。内容は摩鄧女経と同じ。訳者が異なる。
・先梵天の呪術:
・虎耳経:別名「舎頭諫経」とも云う。阿難が行乞の途上、波機提と云う女に水を乞うたことが契機に女の母の呪文に誘引されるが釈迦に救われる。その後女は比丘尼になり、そのことに反対する人々に釈迦が女と阿難の宿縁を説いている。


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