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幸田露伴の随筆「折々草37」

三十七 鬼語

 春の夜の大層静かな室内に瓶中の花がかすかに匂う、私の他に誰もいないが、しかも声がする。専心これを聴くに、云う、

 燕は大層小さい鳥である。しかし飛べば千里の彼方を越える。詩人は不幸な小さい者と他(ひと)に云われるか、また果して小さい者と自ら覚るか。造物主は君に燕を示した。煙にかすむ柳の梢を掠めて飛び翻(ひるがえ)る燕の長閑(のどか)に囀(さえずる)る声を聞けば、君はいささか慰めを得るだろう。
蟻は大層小さな虫である。しかしその苦行の善果は冬期の淋しい日において蟋蟀(こおろぎ)の徒(と)に優るものがある。詩人は不幸な小さい者と他(ひと)に云われるか、また果して小さい者と自ら覚るか。造物主は君に蟻を示した。俯(うつむ)いて庭先の蟻を見よ、続々と蠢(うごめ)き動く蟻は、恐らく君を励ますだろう。
 世の人はみな詩人を知らないか、詩人は幸いに詩人である。幸いに詩人である君は、深山に咲いて人に知られること無く散る花のどんなに多いかを想え。自分が他に知られることの無い時は、詩人で無ければ恐らく卑屈な恨みや怒りに堪えられないであろうが、幸いなことに君は詩人である。昔から今日まで今日から未来までの深山の花を想像し理解したならば、試みに君自身に問え、花は人に知られないことを恨んで、芳香を放つことを怠ることが有るか無いか、花は人に知られないことを怒って、芳香を放つことを怠ることが有るか無いか、能く深く想ってみよ、想って真に理解を得たならば、浮世を離れた山奥に咲く清らかな床しい花の幽香は君の胸を薫じよう。そして薫じた幽香は、君の恨み怒りを拭(ぬぐ)い消し去るだろう。
 油菜(アブラナ)の油はその種子(たね)が締め木にかけられて初めて出る、玫瑰(ハマナス)の精はその花が蒸留された後に出来る。世の人は詩人を酷く冷ややかに待遇することがある。しかし幸いにして詩人である君はそれを微笑でもって甘受できよう。幸いにして詩人である君の美しい想いは君に、今私は締め木にかけられたい、蒸留されたい、私はアブラナの種である、私はハマナスの花である、と思わせるだけの力がある。
 百舌鳥(モズ)は自ら飛んで行って樹の最も高い枝に止まる鳥である。しかし自分は飛ばないで同じ高さに至るものがある。それはモズに巣喰う小さな虫である。その国の詩の歴史が成した力に依って高所に至ろうと思うことがあれば、君はモズの翼に住む小さな虫になろうとする者である。君よ聞け、低い枝にいる藪ウグイスの整わない声の中にも趣きのあるのを。
 詩人よ、君が教えを受けた師であっても君の同志の友でない者は、草に埋もれた古井戸を昔の都の跡に尋ねて其処に家を作れと勧める人である。君の師でも友でもない者は、今は焼野となったところに、欠けた瓦と燃え残りの柱を拾い集めて家を作ろうとする人である。君に勧めて草も木も無い砂漠の真ん中に井戸を掘らせようとする者もいよう、それは人ではない、気だけが昂ぶったビッコ馬である。君の前途には君の前進を止めようとする関守もいよう、君はその関守と争わなくてもよい。なぜなら、無益と有益の二ツの言葉しか知らない関守は茸(きのこ)のように寿命短く終わるからである。また淫女が美目好笑でもって君を誑(たぶら)かし、家に帰るのも忘れて遊び耽(ふけ)らすこともあるだろう、それは世の栄華を簪(かんざし)にした極めて力の強い魔物である。君はその女に執(と)られた袖を振り切らなければいけない。そして猶、君は果てし無い荒野に迷うこともあろう。迷っても行け、まっしぐらに行け、君が倒れ死んでも、君の骨は君の子孫の好い道標(みちしるべ)になろう。日に晒された骨は地に埋められた魂(たましい)よりも価値があろう。
 詩人よ、不幸にも君は盲人の杖に打たれることもあろう、その杖に毒が塗られているのを見て、その盲人を殺すのも可である。しかし幸いにして詩人である君は彼を殺すことよりも、彼の盲人の揮う杖が何も打たないことのどんなに多いかを想い見よ。恐らく君は刀の柄(つか)に手をかける前に、大笑いを発して仕舞うだろう。
 人が碁を囲んで対局していると傍から度々助言する者がいる。憐れむべきその類の助言者は、路地裏で咬みあう犬の喧嘩の応援者と同等である。詩人も不幸にして犬の応援者同様の者に嗾(けしか)けられたり、叱られたりすることがあろう。しかし君は怒ったり喜んだりしてはならない。尾を振ったり牙をあらわしたりの醜態は、君の演ずるには忍び難いところであろう。
 鷲(ワシ)は高空に飛んで双眸(そうぼう)に幾十里の山河丘谷(さんがきゅうこく)の位置や形勢を納めるものである。ミミズは低い地に居て少しばかりの泥土を吞吐(どんと)するものである。詩人よ、鷲がモシ地図を作ったならば見よ、君が道を行くのに役立つだろう。ミミズの画いたものを地図としてはならない、君が精しくミミズの画いた地図を調べても、結局はただ彼が自ら画いた怪しい図の一端に死骸となって横たわるのを見るだけであろう。

 ここで突然、声は途絶えた。鬼語であろうか。鬼語であろうか。



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