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幸田露伴の随筆「蝸牛庵聯話・舞」

 足利期(室町時代)は暗黒時代と云われる。しかしながら、暗黒は何も無いというのではなく、暗黒の中でも時計の針は進み、瓶中の花は蕾から開花に至り、開花から散るに至り、山はそばだち、川は流れ、衣桁(いこう)は立ち、机は据えられ、短檠(たんけい)はかすかに光を放ち、伏籠(ふせご)の辺りからは何かの香りがするのである。整わないにせよ言語は交わされ、正しくないにせよ文字が用いられていたことは云う迄もない。そして、言語や文字はその本来の性質から時を有するので、一方では前の時代を継承し、一方では後の時代に影響し、父祖にとっては子孫となり、子孫にとっては父祖となって、遠古や近世に連係しているのである。であれば文字はさておいて、足利期の言語を知ろうと考えるのであるが、いわゆる暗黒時代のことなので良い材料は多くない。ただその時代に出たと考えられる小説・謡曲・狂言・舞曲・僧の筆記・野史・雑書などを、注意して味わうほかに方法は無いが、その中で小説や謡曲はむしろ古(いにしえ)を継承したものが多くて、その当時の香りのするものは却って少ない。狂言や舞曲やその他の雑書を精読して、前後の時代と異なるものを拾い集めれば、少しはその時代の様子を考えられるが、多忙の身ではできかねて、且つそのようなことをしてどれ程の益が有るかと思うと気が進まない。今はただ嘗て舞曲を読んだ折に気付いたことを少し挙げよう。
 「して」というべきところを「し」とだけ云う例は多い。幸若舞曲の「大職冠」に「刀を振ると見えしは防がんために無くし、玉を隠さんその為に我が身を害しけるよ」とある。「防がんために無くして(◦)」と有るべきところである。「君の御おぼえめでたくし、天下の政(まつりごと)を我儘になし玉えば」とある。「めでたくして(◦)」と有るべきところである。「志太」に「長(なが)在京もかなわずし、たよりも無うて」とあるが、「かなわずして(◦)」と有るべきところである。「満仲」に、「とかくの御返事を申さずし、首を地につけ赤面し」とあるのも、「申さずして(◦)」と有るべきところである。「曽我」に、「河津の三男箱王殿、衣装の事を思わずし」とある。「思わずして(◦)」と有りたいところである。このように「て」の字を省くのは、当時の語り手が「て」を発音しなかったからか、或いはまた極めてわずか微(かす)かに発音したが、これを文字にするほどに発音しなかったので、省略して記さなかったものか、或いはまた、このような場合に一般の人々も「て」を省略して会話したものか、全て不明である。「とも」の「も」字も無くてもよく、「あまたは寝ずとただ一夜のみ」は「寝ずとも」なのだが、後には「いえども」を「いえど」と云う類のほかには余り使われない例である。しかしながら「大職冠」に、「いかにねらうと、打たるまじ」とある。「いかに狙うとも(◦)」と後世風にあるべきところを、古風にも「も」字を添えなかったのは、この頃はまだ古(いにしえ)を継承していたことが分かる。「志太」の、「たとえば証文あなたにあると」なども、「あるとも」を古風に云ったのである。「で」は「にて」の縮めた云い方である。「満仲」の「とりわけ憐れなりけるは幸寿がことでとどめたり」や、「志太」の「相馬のためには一子で候」などは、明らかに「にて」を縮めて云ったのであるが、「で」のこのような用法は何時頃から起ったのかを考える材料になるのである「大職冠」の「氷、手の中にかがやく鎌であり」の「で」の用法は「にて」の縮めた云い方であると云うだけでは少し不足があるようである。「より」と云う「から」の意味は、明解があるか知らないが、「より」は古くて「から」は新しいとするのが常識であるのに「いづくからとも知らざるに」とある。新古を混ぜこぜにして用いたのは面白い。「たまわる」を「たぶ」云うことは、「ま」と「ば」が通音(音が通じている)なので不思議ではないが、「此はんをたばんより」と云って、「たまわらんより」と云うべきところを縮めたのは可笑しい。「そう」が「然(さ)」を伸ばした語であるのは無論だが、「そうろう」は候の意味で「そう」とは別のものとされる。であるのに「そう」の意味の「候」なのか、「そう」と「候」との間に別の解が有るような用例がある。「築島」に「浄海が思い立った大願を妨(さまた)げんの詮議そうや」とある。これは「そう」であるのか「候」なのか、深い解釈を求めない人にとっては何でもないことであるが、明解・正解を求めて事実を深く知りたい人にとっては、考えるところがあるのである。「東西へ分かつ道のいかに多く候とそうへ、島の柱となりそうべきが」とある「多く候ともそうへ」は「多く候とも候へ」であり、「なりそうべきが」は「なり候べきが」である。「候」を「そう」というのは当時の習慣であったのだろう。また謡曲は文辞を重視するので、自然と古(いにしえ)に随い、舞曲は言語を重視するので、自然と当世に随う。そのため「和田酒盛」に、「ここに和田の右座に畳が一畳あいた(◦◦◦)」「ここに下女一人ゆきあった。やあ。此の館(やかた)の中に何事かあると問うた(◦◦◦)。」という文がある。これは当時の言語を直に写したもので、禅僧の筆記や後の心学者などの談話や談義僧義圭の讃談などが出るより遥か前に出ている。舞曲と狂言は、実に我が国の言語を論じようとする者が忘れてはならないもので、例えば支那(中国)の言語を論じようとする者が、「朱子或問」・「五灯会元」・「元曲」・「弾詞」等を忘れてはいけないとするようなことである。「しや」と云う詞(ことば)なども何時頃から用いられ始めたか。「長らへざらんものゆえに、しや、いつまでもと思い切り」とあるように、詞も珍しく、その詞の挿入の仕方も当時風である。「さても」と云う詞は古から存在していて珍しくはないが、これを感嘆詞のように用いて、しかも挿入の仕方がやや異なるのは注意すべきことである。「烏帽子折」に「長範(ちょうはん)此れよし見るよりも、是非それがしが手並み見せんと云うままに、六尺三寸の、さても(◦◦◦)、長刀水車にまわして」「長範此れよし聞くよりも、無念の次第かな、そのわっぱに手並み見せんと云うままに、八尺五寸の、さても(◦◦◦)、棒を莖長におっとりのべ」とあるなど、その詞の用法や配置は古でもなく現在とも異なっているので、突然これに接すると戸惑わずにはいられない。「か」「ぞ」の類の詞の終りに、猶もその感情が尽きないことを示すために、これを延ばして「かい」「ぞい」とするのは現在では一般的だが、既に「いかに此の沖を上人が通るとは知らぬかえ(◦◦)」「ためしを取ってくりょうぞえ(◦◦)」などと云うことが、ときどき見える。「え」「い」が通転(変化)なのは無論だが、ただ「か」の後にはその韻の「あ」が来て、「ぞ」の後には「お」が来るべきなのに、何れも「え」が添えられ、現在は又その「え」が「い」になるのが、音転論の中の一例になっている。またこれは別のことだが、今、俗に云う浪花節と云う語り物の中で、主人公を云う時に「殿」という語を添えることがある。例えば「山中鹿之助殿は云々」と云い、「大石内蔵助殿は云々」というようなものである。物語上の主人公だからと云って、その人にだけ尊称をつけるのは可笑しなことだが、これも早くから語り物がやり出したことか。「曽我十番切」に、「三番に御所の黒弥五と名乗りて、十郎殿(◦)にわたり合い、肩先切られて引いて入る」とある。ただし五郎には殿を付けないで十郎にだけ殿を付けるのは、何故だか知らないが可笑しなことである。およそ衰世の侘しい舞曲などは、もとより深く論じるには不足ではあるが、足利期は古を継承し今を開き、また古を失い今の始めとなることが多い時代であるので、言語を論じようとする者にあっては一概に取るに足りないとして、無視するようなことがあってはならないのである。 

注解
・衣桁:着物を掛けておくために用いる鳥居のような形をした家具。
・短檠:高さが低い灯火具。
・伏籠:伏せておいてその上に衣服をかける籠。中に香炉を置いて香を衣服に移したり、火鉢などを入れて服を乾かしたり暖めたりするのに用いる。
・野史:民間で編集した歴史。
・大職冠:幸若舞曲。室町後期成立。作者未詳。
・志太:幸若舞曲の信田。
・満仲:幸若舞曲。
・曽我:幸若舞曲。
・河津の三男箱王殿:曽我十郎。
・築島:幸若舞曲。
・和田酒盛:幸若舞曲。
・談義僧義圭:江戸時代の真宗大谷派の説教僧であった義圭のこと。
・讃談:仏や菩薩などの徳をほめたたえる話。
・朱子或問:朱子学の創始者である朱子の著書。
・五灯会元:中国・南宋時代に成立した禅宗の歴史書。
・元曲:中国・元代に流行した雑劇の台本。
・弾詞:中国の明から清にかけて流行し、現在でも南方で行われる琵琶・三弦・洋琴などの伴奏にする語り物。
・烏帽子折:幸若舞曲。
・音転論:音位転換論。言語の語形が経時変化などで、語を構成する音の並びが入れ替わってしまうこと。
・曽我十番切:幸若舞曲。


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