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幸田露伴の随筆「折々草33」

三十三 みつ巴
 屋根には何の音も仕無いが軒の玉水で春雨と分かる静かな日、飛び石に下駄の響きもやさしく訪れた女性がある。草庵に女性客、ハテ誰であろうかと立迎えて見れば、予(か)ねて知ったほととぎすと云う明眸皓歯(めいぼうこうし)の風流者(すねもの)、時代が違って園女や千代尼を朋友(ともだち)に出来ないことがこの世の恨みと、白粉(おしろい)離れした述懐を桜桃(おうとう)の蕾のような唇から遠慮なくする女性、「ハテお珍しい前世以来でござる、ママ、ズーッとお通り」と云えば、ビロウドの襟も美しい合羽を脱ぎ捨てて、頭巾をかなぐり取って座について、二ツ三ツお互いに当たり障りのない浮世話をするところへ、またまた門を開ける音がする、今度は誰だと見ると西子(さいし)と名乗る豪傑男、武道に執心する現今では可笑しな強がり男であるが、丈山や宗因の風流をも排斥しようとする人である。「これはおもしろくなってきた、三人揃えば話は鼎(かなえ)にジンワリ熟(に)えよう、餡(あん)かけ豆腐にお茶の御飯でも御馳走しますので夜まで居て語りたまえ」と、亭主(あるじ)ぶって如才ない積りで挨拶する時、「話もただでは憎い奴の噂や可愛い人のことなどになって、罵詈(ばり)に罪を作り惚気(のろけ)に煩悩を増長させるようになって妙が妙でなくなる、何とも亭主は抹香臭い、たとえ実は色気があると白状しても今更許さない、入道して僧に成り給え、我はこのままのただの男、ほととぎす様もやはりそのままの女性で、三人共々に想いを一年十二か月に馳せ巡らせて、俳句を各々一ツづつ云い出して話の代わりにするのはどうか」との西子の発言。「それは一段と物静かであわれも自然(おのず)と深いことを申されますこと、中々おもしろうございましょう」とほととぎすが同意するので、むやみに僧侶の端くれのように云われたのは不満だが、仕方なく苦笑いで承知して、手近の巻紙にめいめいの句を認めにかかると、マズ第一は西子。

     一月
 烏帽子きる世ともならばや花の春       男、西 子
 おそろしき殿御メデタシ花の春        ほととぎす
 黒染めの我も笑わむはなの春         僧、把 月
  
     二月
 一鞭にその数知れず落ち椿          男、西 子
 いもうとの袂さぐればつばきかな       ほととぎす
 ほろほろと椿落つるや大盤若         僧、把 月
  
妹のたもとはおもしろいと、西子も私も感服する。

     三月
 ひよひよと遠矢のゆるむ日永かな       男、西 子
 うたたねの針にさされる日永かな       ほととぎす
 意久地無う座禅くずるる日永かな       僧、把 月
  
坐禅の句はほととぎす殿と同様の句であると西子が非難したので、
 眼の皮の華厳にたむる日永かな        僧、把 月

     四月
 朝起きは妻にまけたりほととぎす       男、西 子
 ホトトギス御(おん)目はさめて候(そうろう)         ほととぎす
 禅定(じょう)を出たそのあかつきやほととぎす     僧、把 月

御僧ひとりが仲間外れになられたと、ほととぎす笑う。

     五月
 藻の花や小川に沈む鍋のつる         男、西 子
 浮き草や出どこも知らず果てもなし      ほととぎす
 浮きくさや禅僧担ぐすくい網         僧、把 月

     六月
 負うた子のひとり濡れけり夏の雨      男、西 子
 きたままで衣(ころも)あらわむ夏の雨        ほととぎす
 中々にはだかいそがす夏のあめ       僧、把 月

 コレハほととぎす様に皆負けたと私が云うと、ほととぎすは御僧のものぐさには敵わないと云い、三人大いに笑う。

     七月
 豪傑も茄子の御馬(おうま)か魂(たま)祭り          僧、把 月

と吟じだすと、「また邪見を始められましたか、これはひどい悪口、聖人はこのようなことは仕無いものを」と転げかかってほととぎすが笑い、「私への当てつけか」と西子が苦々しく笑うので、「魂祭りは僧にとっては好い機会、私を出家させた恨みの返しだ覚えたか」と私も笑う。

 見た貌(かお)の三ツ四ツはありたままつり      男、西 子
 団子もむ皺手あさましたままつり       ほととぎす

 「急にほととぎすさまのおとなしくなられたのは、仕返しなどを恐れられてか、可笑しい」と西子がからかう。

     八月
 砧(きぬた)より節むずかしき鳴子か         ほととぎす
 小山田に秋をひろげる鳴子かな           男、西 子
 小禽(ことり)めが唯識(ゆいしき)所現(しょげん)の鳴子かな 僧、把 月

 「ほととぎすさまのは古くさい」と西子が批評し、「小山田には、やられました。」とほととぎすも私も降参する。「唯識論とはやかましい、御説法はやめて下され」とほととぎすにも西子にも笑われ、「茄子の馬に豪傑を乗せた報いでこのような拙(まず)い句が出来たので、私が拙いのでは無く物の報いのせいだ」とふざける。

     九月
 大小の朱鞘は卑し紅葉狩           男、西 子
 二三枚とって重ねるもみじか         ほととぎす
 やあもみじ一切経のわすれも         僧、把 月
  
 「皆よいが、一切経を残らず読んでお経の中に紅葉のことが無いと見極められたのでなければ、臆断の外道ではないですか」とほととぎすに打ち込まれ、「サアそれは、サア、サアサア」となって大いにひるんで、

 紅葉して車もきたり田舎寺          僧、把 月

と改める。

     十月
 浪人を一夜にふるす時雨かな         男、西 子
 爪琴(つまごと)の下手(へた)を上手(じょうず)に時雨けり  ほととぎす
 四句の偈の卒塔婆に三句時雨けり       僧、把 月
  
互に自分の句を自慢し、また互いに他の句を褒め合う。

     十一月
 山寺の仁王たじろぐ吹雪かな         僧、把 月
 野猪(いのしし)の牙ふりたてる吹雪かな    男、西 子
 あかがりを吹き埋めたるふぶきか       ほととぎす

     十二月
 節分や母子(おやこ)の年の近(ちこ)うなる      ほととぎす
 節分やよむたび違う豆の数            男、西 子
 せつぶんや肩すぼめ行く行脚僧(あんぎゃそう)    僧、把 月
  
 「これで一年が終わったので、マズは一ツずつ年をとって目出度い目出度い」と笑い合って、云い表せない快楽(たのしさ)に尚も睦まじく語り合った。


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