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幸田露伴の随筆「古革籠②」

古革籠②

顧炎武(こえんぶ)

 明が天命を享(う)けて支那(中国)の民を治めること二百余年、天啓・崇禎の世に至って、その徳は衰えその運は尽きる。顧炎武は万歴四十一年に生れ、壮年時には国亡び帝が死す時に際会し、そして清の康煕二十年に死ぬ。老いても義に依り節を保つ志(こころざし)を有す。その没年から云えば、正に清の顧炎武と云うべき人である。しかしながら此れは炎武の望むところでは無く、顧炎武を明末の英雄と云う者は、炎武の偉大さを称えて其の心に酬いているのである。
 顧炎武、字(あだな・通称)は寧人、亭林と名乗る。呉の昆山の花浦村の顧同応の二男である。同族の顧同吉が王氏と婚約して未だ結婚すること無く死去したが、王氏は婚約を守り改嫁しないで同応の子の絳(こう)を赤子のうちから育てて之を子とする。絳が即ち炎武で、崇禎十六年に首都が陥落した後に名を炎武と改めた。
炎武を育て成人させた王氏は、婚約の義を守って同吉の家を絶やさなかったほど貞賢な婦人なので、炎武を教え育てる家庭教育はサゾ厳しく、また正しいものであったことだろう。炎武は次第に成長するに従い、正直でさっぱりした性格で細かいことに拘らない大きな志を持つ、人に追随することをしない傑出して特立した人物となる。相貌もまた非凡で瞳の中が白く縁が黒い、見る者は之を怪しんで顧怪などと取り囃す。明末期に度々科挙の試験に挑戦したが、博学雄才の炎武であったが運に恵まれず合格しなかったので、一ツには時勢の多事多難なことを思い、遂に試験に合格して官員に成ることを断念して、山中に閉居して経済実用の学を修める。義母の王氏は姑(しゅうと)に仕えて孝行に厚く、姑の病気に際しては介抱少しも怠らず、遂に崇禎九年には孝節を以って郷里において顕彰される栄誉を受けた。炎武は上にこのような賢母を戴き、中に豪邁な資質を抱き、且つ家は貧しくなく、職を求める必要も無かったので、心静かに弛まず学問に努力を続けていたが、世はいよいよ乱れて、国内では張献忠(ちょうこんちゅう)や李自成(りじせい)が凶暴を働き、外からは愛新覚羅(あいしんかくら)氏が迫り首都の南京が防衛不能の事態に陥ったので、炎武は母を伴って兵乱を避けて常熟(じょうじゅく)の郊外に移った。
 顧炎武は未だ嘗て明に仕えて無く、明の一官半職にも就いたことはないが、曽祖父の顧章志は明の兵部侍郎(国防次官)にまで成った人である。国が殆んど亡びて崇禎帝は崇禎十七年に死に、弘光帝は隆武二年に窮地に陥り、胡族の弁髪は南北に満ちて、朝廷の衣冠が泥土に塗(まみ)れようとするのを目にしては、どんなにか心を動かし血を沸かせたことであろう。昆山の令(長官)の裼永言(せきえいげん)の招きに応じて、炎武は嘉定の呉其沆(ごきこう)や同郷の友である帰荘(きそう)と共に兵を起こし、呉で夏允彝(かいんい)に随って画策奔走する。兵部司務の役職を授けられたが大勢は既に傾いて支えがたく、事志(こころざし)と違って作戦は運に背(そむ)かれ、永言は逃げ、其沆は死に、炎武と荘は幸いに生きて脱出する。炎武の母は元来が烈女である、明の天子の位が絶えようとするのを見て慨然として歎き、「私は婦人といえども国恩を受ける。今コレ何という時であるか、私は今や此処で死ぬ」と云って絶食して死ぬ。時にその年六十、死に際し炎武を諫めて、「我が家は代々明の碌を戴く、絶対に二朝に仕えてはいけない」と遺言をした。それで無くても慷慨激烈な思いは火のようである炎武が、この母のこの教えに接した心のうちを察するが善い。次の年、閩中(びんちゅう・福建地方)から使いが来て職方郎として招聘された。時に明は殆んど亡びようとしていたが忠臣は尚も在って、明の一脈は絶えることなく糸のように残存し、閩中に拠って回復を図ろうとする者が少なからず在った。そこで炎武も之に赴こうとしたが、母の喪に服している時であったので之を果たすことが出来なかった。やがて海上に赴こうとしたが道が塞がっていて進むことが出来ずに、ついに役人として仕える道を断念した。
 辛いことは此れだけにとどまらない。代々江南に住んで居たが、炎武の毅然とした性質は世俗と同調が出来ず、又その人柄も土地に合わないので、郷里の人も顧炎武を喜ばず、炎武もまた軽薄な里の習俗を喜ばず、互いの性情が反するので里人の非難は次第に高まり、生きづらい日々を送っていた。しかも順治七年になって、炎武を恨む者が居て炎武を陥れようとしたので、そこで炎武は衣冠を変えて商人となって京口(けいこう)に行き、また禾中(かちゅう)に行き、その後旧都に行き、九年には遂に神仙山の下に仮の住まい構え、広く沿江一帯を見て廻った。人が傑然として特立していると、必ず俗衆の憎むところとなるのが世の常である。顧炎武が郷里を離れて遠遊することになったのも、一ツは炎武に学問が有った為であるが、もう一ツは自然な勢いでもあったのである。
 顧家に三代に亘る使用人で陸恩と云う者がいた。恩恵を受けること既に久しいので、炎武が遠遊に出た後は特に身を入れて家事を治めるべきなのに、小人(しょうじん)の常で主人が遠遊し家の様子も昔日のようで無くなったと思い、背いて里豪(りごう・里の豪族)の下に身を寄せた。炎武が旧都から帰ってこれを知り、厳しく之を糺そうとしたが、陸恩は自分の罪を逃れる為に炎武の通海の事を告発しようとした。通海とは海上を通ることで、当時魯王が海上に逃れて居たので、之と交信することは清に背き明に加担すると云うので軽くない罪であった。炎武は以前海上に赴こうとした事が有り、今はその事は無いが一旦告発されれば、容易に嫌疑が解けない恐れがある。使用人の思惑は自分が証人に立って、これに依って旧主人を死罪に陥れて自分の罪を隠そうとするもので、まことに言語道断である。炎武はこの事を知って急遽陸を捉えて厳しく責めたが、陸の婿は里豪に力を借りて太守に賄賂を贈り炎武を殺すことを求めた。陸の賄賂を受け入れた太守が、事を公平に治める筈は無く、炎武は役所に繫がれないで陸の家に繫がれることになった。炎武の生命は正に風前の灯、危(あやう)い事甚だしく判決は下されようとする。そこで炎武の為に救いを銭謙益に求めた者がいた。謙益は明の大官であったが、明が亡んだ後は清に仕えて当時権威のある人で、また一個の博学能文の人である。しかし二朝に仕えたことでその人柄がわかる。炎武が窮地に在るのを知って、炎武を門下生にした上で之を許そうとした。炎武は謙益に屈するような人では無いので、炎武の為を思う者はこの事を分かってはいたが、しかし謙益の力を借りなければどうする事も出来ないと思い、密かに炎武の名刺を作って謙益に差し出し、その冤罪を解かれることを求めた。炎武は独立独歩の性格、之を聞いて我慢できず急遽その名刺を取り返そうとしたが、それが出来なかったので、遂に自分は謙益の門下では無い旨を書いて街中(まちなか)に掲示し、その事情を明らかにしたと云う。炎武の危機に際しても屈しないその面目を知ることができる。幸いに曲周の路舎人の沢傅(たくふ)が洞庭の東山に仮寓していて、兵備使者を識っていたので之を訴えて、初めて掬問裁判が松江に移され、やがて冤罪が晴れて事件は解決した。
 人生に於いてイジメや虐待は常の事だが、予てから面白く思って居なかった郷里に、この事があってからはいよいよ住みにくく、ここに於いて浩然として郷里を出て天下周遊を志す。遂に北は燕や趙に遊び、東は斉や魯に行き、また一度郷里に帰って、東は会稽に行き、また太原や大同に寄り、西方の関中に入り、直ちに楡林に行く。しかし禍はその手を弛めず康熙四年に莱の黄氏の使用人の為に誣告され、山東の監獄に拘束されること半年、富平の李因篤の助力によって辛くも無事を得る。これ等は皆、炎武が才幹学識を有してしかも清に仕えないで、身は既に当時おいて閑であるにも関わらず、今も猶、明朝を思っているので、嫉妬深い輩はこれを知って陥れようとするのである。
 これより炎武はまた都に入り、周遊すること数年、六度孝陵(洪武帝の墓)と思陵(崇禎帝の墓)を拝謁し、四度長陵(永楽帝の墓)と恵陵を拝謁し、その一ツ一ツを図に記(しる)して一片の忠義の志を尽した。また、旅路の至る所でその地の山川風俗や古今の治乱の跡を考察し、之を石や金属の碑碣(ひげ)で明らか示し、その地方の賢者や豪者や長者と議論や考究をしたので、見聞は益々広く知識は該博を極め、当時の俊才は挙(こぞ)って炎武を通儒であると評した。康熙十六年に陜の華陰に住居し田園の生活を営み、その二十年に年六十九才を以って華陰で死去する。
 炎武の歴遊は、常に自ら二頭の馬と二頭の騾馬に書物を積んで随え、険要の地に着くと老兵や退役軍人を呼び集めて、地勢や路駅について詳しく問い質し、或いは知識と聞くところに相違があると書を開いて勘考し真実を得た後に止める。炎武の著わした「天下群国利病書」百二十巻・「肇域記」百巻・「歴代帝王宅京記」二十巻・「十九陵国志」六巻等をはじめ、多くの歴史や地理に関する書はこの様にして成された。また歴遊の途中で、往時の面影を留めない平原や大野を通る時には、馬上に於いて易経や詩経から礼経にいたるまでの諸経注疏などを黙誦して、忘れているところが有れば書を開いて之を反復熟読し、確実に暗記した後に至って止んだと云う。それなので永い遠遊の間に学問は長足の進歩を遂げ、且つ荒廃せず、このようにして「日知録」三十二巻をはじめ経学や小学に関する幾多の著が成った。諸生が学問の講義を願うが之を辞退して応じず、文章を求める人が有っても之もまた辞退して作らず、清の聖祖が博学鴻詞に任命しようとしたが応じず、明史の編集が始まるにあたって、諸卿士が炎武を薦めたが之もまた辞退する。敢然として自分が為そうとすることを為して、自分が為そうしないことは為さない。これは炎武の性質から来る自然なところで、そして炎武の学が大成した理由であろう。
 しかも炎武は、世の儒学生のように、ただただ机上灯下で空論を為すのでは無く、炎武の為したことは、若しそれが用いられれば世を救い時を救うような材であったが、運悪く国が亡びて之が用いられることは無かった。嘗て雁門の北や五台の東、及び長白山の下に於いて之を墾田や牧畜に用いて企画が悉く当たり、累積で千金の効果を上げ、且つ歴遊する流寓の地において常に之を試みて効果を上げたので、必要な費用は常に足りて貧苦に歎くようなことは無かったと云う。材の大きなことは是で分かる。
 死亡する一年前の康煕十九年元日、一対の句を作って云う、「六十年前二聖升遐之歳、三千里外孤忠未死之人(二人の天子が亡くなって六十年、都を遠く離れた地で忠臣は未だ死なない。)」と、前句は泰昌元年七月に神宗が崩御して、光宗が即位されて間もなく同じ九月に崩じられたのを悲しみ、その頃から明が甚だしく衰え清がいよいよ興(おこ)ってきたのでこの様に云ったのである。後句は自分が昔の秦の辺地で孤立して、志が終(つい)に報われないことを歎いたのである。老いてなお昔を忘れない貞志を窺い知ることができる。その著述は該博精刻で、清朝三百年の学風は顧氏に基づくと云っても不可では無い。一生を思うように物事が運ばないことで悩んだが、死んでからは後世の模範の人となる。顧炎武は実に豪傑であった。

注釈
・顧炎武:中国・明代末期から清代初期の学者で文人。明末清初の混乱期をあくまで明の遺臣として清に仕えないで生きた。その学問は空理空論を避けた実証主義に立ち、常に世の為になる経世の学を志した。「日知録」をはじめ多くの著述を遺した。
晩年を華陰で送った炎武は、妻が郷里で亡くなった時に詩を送って弔った。その詩に云う、
 貞姑の馬鬛 江村に在り
 汝を黄泉に送る 六歳の孫
 地下 相煩わす 公姥に告げんことを
 遺民 猶一人の存する有りと
 (貞節を全うしたお前の姑の墓は川沿いの村に在る。六歳の孫がお前を黄泉の国へ送って呉れるだろう。地下の黄泉の国へ行ったら、私のことを父母へ申し上げて欲しい。遺民は此処にまだ一人残っていますと。)
・科挙の試験:官吏登用試験
・張献忠:明末の農民反乱の指導者。
・李自成:明末の農民反乱の指導者。首都の北京を陥落させ明を滅ぼした。順王朝を建国して皇帝を称したが直ぐ清に滅ぼされる。
・愛新覚羅氏:満洲民族の姓氏で、清朝を打ち立てた家系。
・胡族の弁髪:満洲民族の髪形、頭の周囲を剃って、後頭部に残した髪を編み長く背後に垂らす髪形。

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